1-1 ダリウスとの出会い
入学から数週間。人間標本としてのレポート提出期限が迫っていた頃だった。
人間標本という響きはなんだかホラーな響きがあるが、実際はそうでもない。
遺伝子操作によるデザイナーベビーが当たり前の現代でも、その遺伝子の発現までは自由に操作することはできない。要は、どうやら、思ったより人間の性質って改造できない、ってことらしい。そんな中でも僕は、模範的なホルモンバランスでまさに心身ともに健康優良児、ってことで、幼少期からコホート研究のサンプルとして、定期的な採血と全身のスキャンを受け、レポートという名の質問紙調査に協力している。
人間標本になったのは、僕の生まれの影響が大きい。僕の産みの親は、子宮オルガノイドだ。政府主導の少子化対策としてデザイナーベビーかつ人工子宮で産まれた僕は、その模範生ということで、研究者たちがこぞって僕を育てたいと申し出たらしい。それで最終的には、当時の研究所の安藤所長が戸籍上の親となって、業務で忙しい時は研究所の若手研究者たちをシッター代わりに育てることで合意が取れたらしい。
独身だった所長は比較的高齢で、僕が2歳の時にくも膜下出血で亡くなった。正直、幼かったのであまり記憶にはなく、「明照」という名付け親、というぐらいにしか思っていない。人類の未来を明るく照らすから、明照だそうだ。
今は、研究所の中でもとても面倒見がいいと評判で、僕の面倒を最もよく見てくれていた、リヒテンベルク夫妻が僕を引き取った。僕は安藤明照からリヒテンベルク明照に変わった。僕の名実ともの両親という訳だ。
そんなことをぼんやりと反芻しながら、溜まったレポートに本腰を入れようと思って、この喫茶店に入ったのだった。
お気に入りの温かいカフェオレをすすっていると、爽やかな声がした。
「よっ、アキテルじゃん。何やってんの?宿題?」
声の主は、クラスメイトのダリウスだ。透き通った肌に、目にかかるほど伸びた黒髪から覗く青い目が、端正な顔立ちと相まって、目を惹きつける。「俺を見ろ」という力があるとでも言うのか、不思議な迫力がある。さすがは有力政治家を親に持つだけはある。
彼は僕の隣の席にコーヒーを置き、少し分厚いコートを脱いで椅子に掛けた。一連の仕草があまりに洗練されていて、思わず見つめてしまった。
椅子に腰掛けた彼が「今日は冷えるな」と言いながら少し首を傾げたところで、僕はこの画面に映るものを尋ねられていたことを思い出した。
「ああ、本当にな。それで、これは宿題じゃないんだ。人間標本って、知っているかい?」
僕は、自分の生まれや人間標本の研究対象者としてやらなければならないことを説明した。ダリウスは、僕の話を一通り聞き終えた後、僕が見せたレポートに目を通して、少し考えるように目を伏せた。彼の横顔を、少し古びたカフェのランプが柔らかく照らしている。薄暗い店内のなかで、その瞳だけが妙に際立って見えた。
「なるほどね。理想的な“人間標本”か。」
ダリウスはどこか愉快そうな、でもわずかに皮肉も混じるような声色を滲ませる。
「お前さ、そういう状況に不満とかあったりしないのか?」 彼は、まるで研究対象を見るようにこちらを覗き込む。いや、もしかすると、本当に好奇心むき出しで“人間標本”としての僕を観察しているのかもしれない。
「不満、かぁ」 僕はマグカップに視線を落とす。表面に映る自分の顔が、少し曇って見えるのは、カフェオレの湯気のせいか、あるいは心の底に渦巻く何かのせいか。
「正直、特には……。生まれたときからそういう環境で育ったし、父さん母さんは、後見人だけど、優しいし」 言葉を切って、ダリウスの反応を探るように顔を上げる。彼は相変わらず整った表情のまま、どこか興味深げに僕を見ていた。
「ふーん、そうなのか。」
普通の相槌のようにも聞こえるが、その声には、何か挑発めいた色が含まれている。まるで「お前はそれで満足しているのか?」と問うているようだ。見透かすような瞳が僕を見ている。
ドキリとした。いや、実際、少し疑問に思うことは、ありはしたのだ。何不自由ない生活をしていて、全てが理想的だとお墨付きまで貰っているというのに、いつも何かが足りない気がしている。それは不満というよりは、何か物足りない、そんな感覚だった。
僕は初めて、何かが自分に足りていないのだ、と自覚するとともに、それが一体何なのか、捉えることができずにいた。
その日を境に、僕は何かとんでもないことを考えているのではないかという漠然とした恐怖をうっすらと感じながらも、この悩みの正体は一体何なのか、考えることをやめられずにいた。
**
ああ、あの時に初めて、僕は「つまらない」という感覚を自覚したんだったな。それを探し求めたあまりに「エデンにおける近代芸術史の盛衰」をテーマに研究活動を行うようになって、バビロンに手がかりを求めようとしたんだ。
**