2-6 嗤う賢者に愚者ありき
ある昼下がりのことだった。講義が入っていなかったので、僕は人気のない教室で宿題を進めていた。外はやわらかな日差しが差し込んでいるが、教室の奥まった席は少しひんやりしている。ページをめくるたびに鳴る小さなスワイプ音がやけに響く。小さく息をつき、指先を走らせる。
そんなときだった。
「やあやあ、これは理想的な人間であると名高いアキテル君じゃないですか。」
どこか鼻にかかった声が聞こえ、僕は顔を上げる。視線の先に、ローレンス・エインズワースの姿があった。その後ろに控えるようにしてディエゴとルーカスがいる。三人とも、こちらを上から見下ろすように余裕をたたえた表情だ。
ローレンスは薄く唇を曲げ、同時にスッと歩み寄る。ゆるやかに揺れる艶のある長い金髪は、嫌味なくらいに整えられている。
「ふっ、勉強なんてして評価ポイント稼ぎですか。いやはや、ご苦労なこと。」
彼の声は、どこか小さな子どもに呆れる大人のようでもあった。
「ただの宿題だよ」と無難な返事をしながら、僕は画面をしまう。
彼はつかつかと僕の方へ歩み寄り、「いいんですよ、そんなに頑張らなくても」と言って、僕の肩にぽんと手をのせた。
苦笑いをしながら軽く身をひねり、彼らの方を向くとともに、肩口の手をやんわりと払いのける。
「気遣ってくれてありがとう。でも、ただ家でやるのも面倒だから早めに終わらせようとしているだけで……特に評価を狙ってるわけじゃないんだ。」
ローレンスはあからさまに呆れた顔をし、「やれやれ、あなたには少し難しかったかもしれませんね」という。その言い方は、まるで目の前にいるのは乳児か何かだとでも言うような含みを持っている。
「――あの、ちょっと思い違いがあるかもしれない。僕は、人間標本だからといって、何か特別頑張っているわけじゃないんだ。ただ研究に協力しているだけで、それ以外は普通の中学生なんだよ。」と返すが、ローレンスは首を振り、まるで悲しげな保護者のようにため息を落とした。
「――あなたは、本当に何も分かっていない。まったく愚かな……。あのダリウスに影響されたのですか?」
ダリウス、という名前が出た途端、僕の胸中にかすかな反発心が生まれる。ダリウスと僕は親しい仲なのは周知のはずだ。それをわざわざ引き合いに出すとは、悪趣味というか意地が悪い。
ローレンスは一度咳ばらいをしたあと、口端を吊り上げて言う。
「いいでしょう。ではこの私が、特別にやさしく教えて差し上げましょう。」
彼はディエゴとルーカスを背後に従え、威風堂々とした振る舞いで言葉を続ける。
「制手工業から機械が誕生し、動力革命、そして、情報技術革命へと繋がった……いわゆる産業革命の歴史はご存じですよね? なぜ人は道具を発展させたのか、分かりますか?」
その口調はまるで幼稚園児に問いかけるようだ。僕は眉をひそめつつも、すぐに「便利だから、じゃないの?」と答える。何の話をしたいのかいまいち見えないが、とりあえず無難な返事をしておこう。
「ご名答!」ローレンスは大仰に両手を叩く。ディエゴとルーカスが後ろでこくこくと頷いているが、どうにも厭な気分だ。
「そうです、便利だからです。人工知能がここまで発展したのも、ただひとえに、便利だからです。分かりますね?」
「そりゃ、まあそうだけど……」
少し引き気味に答えると、ローレンスはふっと笑みをこぼしながら、さらに畳み掛けるように言った。
「でしたら話は簡単ですよ。いいですね、今の時代、人工知能がなんでもやってくれるのですから、人間様がなにか苦労をする必要はないのです。」
「え、うん……まあ、そうかもね」
僕は微かに違和感を覚えるが、彼の勢いに押されて言葉を飲む。その目は勝ち誇ったように僕を見据えている。
「しなくていい苦労を買ってでもするのは愚か者のすること――そう思いませんか?」
「……まあ、そうとも言えるかもしれない」
彼の視線が突き刺さる中、曖昧な返事をひねり出すと、ローレンスはさらに声を大きくした。
「ですから、人工知能が全て識っているというのに、たかが学問に人間様があくせくする必要はないのですよ。馬鹿馬鹿しい。学問に励むなど、まったく、愚かな人間がすることなのです。」
「ええ……?」明らかな違和感を覚えつつも、反駁できず口ごもる。それを見透かしたようにローレンスは続けた。
「ほうら、言い返せないでしょう。あなたは、古い価値観に縛られているだけなのです。まったくもって、このアルカディア学園は愚かな人間ばかりだと思いませんか。こんな単純なことに気づかずに、あくせくと、まったく生産性のないことに労力を費やして。――その点、このディエゴとルーカスは賢い。彼らは学問ごっこなんて時間の無駄と知っている。」
言われて二人のほうを見ると、彼らは恍惚とした表情で頬を緩めていた。どこか陶酔に近い感覚でローレンスを崇拝しているようにすら見える。
「残念なことに、この学園の愚かな人間たちは、誰が本当に賢いのか、気づいちゃいません。そうだ――学園祭で、ダリウスが愚か者役を演じるようですが……ふ、お似合いですね。これを機に、皆も誰が本当の愚か者か気づいてくれるといいのですが――いいえ、まあ分からないでしょうけどね、ここの連中には。」
冷たい視線に背筋がぞくりとする。
「う、うんまあ、僕は、ダリウスは結構賢いと思うよ……」
と尻込みの混じった抵抗をしてみたが、ローレンスはため息をつくだけだった。
「あなたは完全に間違っていますよ。ダリウスのような人間は、勉強ができるだけで、賢くはありません。勉強ができるといっても、せいぜい中学生の中でだけ、何をしたって人工知能に負ける癖に、偉そうな顔をしないでほしいものです。もうそんな物差しは通用しない時代になのですから。はあ、学園も古き価値観を早く一新してもらいたいものです。
――真の賢者であり、この時代における勝者とは、そう、私たちのように、すべての労働を機械に任せ、効率的に欲求を満たし、自由な生活を謳歌する者たちのことです。」
ローレンスは柔らかく口調を変え、「あなたも、理解できるのならば、私たちの仲間として歓迎してあげますよ」と猫なで声でつづけた。そして、「まあ、理解できるなら、ですけど」と鼻で笑った。
ディエゴが、「お前が理解できる、ってんなら、おまえも賢いかもしれんなあ、俺たちの次くらいには」とニマニマしながらつづけた。
そこに、僕の願いを聞き届けたようにチャイムが鳴り響き、ざわざわと廊下が騒がしくなる。
ローレンスは誇ったような笑みを浮かべながら「まあ、まだ理解するには早かったかもしれません。でもいいんですよ、ゆっくりと、考えていけばいいですから。あなたが理解できることを、せいぜい期待していますよ」と言って、二人を引き連れ廊下に消えていく。
大して何もしていないのに、なんだか、どっと疲れた気がする。僕はため息をついて、宿題がまったく進んでいない画面を開いた。言い返せなかった悔しさが胸を締めつける。
「……ダリウスは、愚かじゃないよ……」と小さくつぶやく。だが、彼らにそうきっぱりと断言する勇気も言い返せるだけの力量もなかった自分に、唇を噛んだ。
結局、僕は胸のむかつきを拭えないまま、空っぽの頭で次の講義へと足を運ぶことしかできなかった。




