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ハラス・メメント 〜嫌がらせ記念日〜  作者: 三軒長屋 与太郎


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いのせんと 〜パワー・ハラスメント〜 完結


【固定】

始めまして、三軒長屋サンゲンナガヤ 与太郎ヨタロウです。

ゆっくりと物語の中の世界を、楽しんで頂けると幸いです。



「まず間違いないことは、貴方が産まれたという事実。

それは、仮想現実やメタなどと呼ばれているいずれでもないし、そもそもに、貴方が今の世界をどう捉えていようが関係ない。今、私の話を聞いている時点で、貴方は“私と同じ次元に息をする住民”であり、即ち、貴方は十数年前にこの世界に産声を上げたのです。

ここで問いたいのは、貴方がそれを選択したのか?

貴方はこの世界に産まれ落ちることを自ら望んだのか?

ごく一部のぶち抜けた頭でない限り、自ずと答えは“No”であるはずです。選べるはずがありません。よもや、指先にも満たない命だった頃から意志を宿していたと……ささくれにも満たない身体で、神秘の大海を泳いでいたなどと言うまいに。

“あなた”という生命の誕生を決める最終ミーティングの卓上に、貴方は存在しない。

ピンと天高く伸ばし上げる腕など持ち得ないし、抗議の為に力強く立ち上がる脚もあるはずがない」


“違う”——その二文字が、坂本の喉の奥に貼り付いた。

口を開けば何か言えそうで、しかし舌は、冷えた金属みたいに動かなかった。

美編の言葉を否定したくても、抗える箇所が見当たらない。

坂本の口の中に、情けなく唾液が溜まる。


「それでは、“そこ”にあったのは何でしょうか——

父親と母親です。男と女です。欲望と願望です。

逆らいようのない先輩。絶対的な先祖。

それが真剣な議論の上の営みだったのか、一夜の過ちだったのかすら分かり得ない。

この不公平、この不条理を、『パワー・ハラスメント』と言わずに何と言いましょうか?

大勢はこう言うでしょう。

それは、“愛”……と」


美編の言葉が、一段低くなる。

坂本は、喉を通る唾液に、焦げたような苦みを感じる。


「しかし、私から言わせれば、そんなものは愛ではない。

もっと決まりの良い言葉があります。

それは、定めであり、運命です。

人間は皆、愛という便利な言葉にしがみつく。

定めや運命を、自分ひとりで背負える自信がないから、愛であることにする……愛であったことにする。

抽象的な言葉で包んで、ポケットに仕舞うのです」


逃げ出したい。これ以上聞きたくない。

美編の言葉の端が、濡れた布みたいに坂本の皮膚に貼り付く。

そのまま脳みそまで濡らされる。受け入れられない言葉たちで埋め尽くされていく。


「もう分ったでしょう? 正幸君。

貴方はまだ、大人になれていないのですよ。

自分の定めや運命を否定し続け、愛の名の下に、両親をこの扉の中に閉じ込めたから。

友人の死から目を逸らし、愛の名の下に、あの小窓から投げ捨てたから。

そんな子供じみた不安が、貴方と私を巡り合わせた。

人間として真に形を成すには、『パワー・ハラスメント』を受け入れるほかないのです。

人生という『パワ・ハラ』を。

もしも正幸君が辛いのなら、もしも耐えられないと言うのなら、私の胸に飛び込みなさい。

私はいつだって貴方の味方だし、いつだって貴方を楽にしてあげられる。

だから……」


正直、今すぐに美編を抱きしめたかった。

美編の胸で、泣き叫びたかった。

これ以上、僕を虐めないで。これ以上、僕を慰めないで。

これ以上……僕を愛さないで……。


「もう一度問います。正幸君……貴方は、お父さんのことを、どう思っているの?」


 張り詰める。世界が凍る。

この返答に、自らの命と同等な重さを感じる。音が聞こえてきそうなほどに、坂本の脳内がショートする。自分が今、息をしているのか分からない。自分の心臓が今、脈打っているのを感じられない。

全身の産毛が逆立つ中で、坂本は、イグニスの言葉を思い出す。

「もしも会話の返答に困ったら、俺たちの方を向きな」

ナンパの指南であると聞き流した言葉が、唯一の救いに感じられたから。

坂本は改めて、部屋をぐるりと見渡す。無論、イグニスもクレメンスも見当たらない。

左には扉、右に小窓。

(自分が座っていた場所から考えると、バーカウンターは小窓の外か……)

ただ何となく、そう思った。


 次の瞬間、急に小窓が開け放たれ、嵐のような風が吹き荒れた。

湿っぽく、噎せるような熱気。風は部屋の中で渦巻き、坂本を包む。

美編の輪郭が薄れた気がする。

次いで、扉の向こう側から叩音が鳴り響き、扉は軋み、施錠部分の金属が、叩音のリズムに合わせてキンキンと、ハーモニーを奏でた。

また、美編の輪郭が薄れた気がした。

坂本は席を立ち、扉の前へと歩み寄る。怖くはない。ただ懐かしい。

扉の表面を撫でるように触る。温かい人間の体温を感じる。荒い息遣いが聞こえる。


「開くのですか?」

背中に甘えるように、寂し気な美編の声が寄り添う。

「はい」

短く答える。ひとつの別れを告げるように。

「大人になるのですね」

美編の声が、潤む。

「両親を受け入れることが、大人になることだとは思いません。

ただ僕は、ありのままであって欲しいと願うのです。

父親が選んだ愛も、母親が選んだ自由も、友人が選んだ最後も。

そして、僕自身も」


坂本は、ゆっくりと、扉の鍵を開ける。



◆◇◆



 その日、クレメンスは、いつもの店に向かっていた。

池袋東口の路地裏で、ひっそりと営まれている『Pantera』。20年来の腐れ縁が営むタヴェルナ。

店に入ると、巨漢の男が歓迎する。

「やあ、イグニス。いつものだ」

クレメンスの注文に、イグニスは表情だけで返事をし、グレンモーレンジのボトルを棚から降ろす。許可を得るわけでもなく、それを二つのグラスに注ぎ、ひとつをカウンターに、そしてもうひとつを控えめに持ち上げて揺らす。

「今日も“居るな”」

クレメンスがおもむろに、入口のテラス席を横目で見ながら、ため息交じりに言葉を吐く。

「“女神様”ってのも大変なのさ。きっと、ここに来るべき人間を、待っているんだろうよ」

イグニスは、(しょうがないことさ)と、肩を竦める。


そこへ、ひとりの青年が現れた。

勿論、イグニスよりは小さいが、日本人にしてはしっかりとした体格。それを見せびらかさない謙虚な爽やかさ。まだどこかあどけない表情。

「あの子が迷える子羊かい?」

クレメンスの問いに、イグニスはまた、肩を竦める。


正幸と名乗る青年はカウンターへと座り、三杯分ほど会話をした。

無邪気な少年のようであり、しかし、必死に身に付けたであろう教養が窺える。大人のスーツを着た子供。そんな感じだ。

大抵の人間は騙せても、“ただの人間”ってわけじゃない二人には筒抜けだ。しかし、愛着は持てる。まさに“良い子”だ。

正幸は、テラス席の女が気になるらしい。二人はそれを止めない。いや、止められないことを知っている。誰しもが、運命からは逃れられないのさ……と。


 テラス席に向かい合う正幸と女。

その情景を、カウンターから眺める二人。

「どうやら、“今回の子”は大丈夫そうだな」

イグニスの言葉の真意が、クレメンスにはまだ分からなかった。故に、問う。

「なんでそう思うんだい?」

「二人は心で会話をしている。“こないだの子”とは次元がひとつ違うのさ。もしかしたらあの青年も、“我々と同じ”なのかもしれないな」

やはり、クレメンスには分からなかった。故に、「そうか……」と、曖昧に流す。


 それはほんの束の間であった。

正幸が椅子から立ち上がり、カウンターへと戻ってきた。それと同時に、女が寂し気に店を後にした。

イグニスが声を掛ける。

「おかえり。やっぱりあんたは“良い子”だ」


その後、何もなかったかのように再開する他愛もない会話。

しかし、クレメンスはどうしても気になり、正幸に聞いてみる。

「ところで、どうしてあんな良い女を振ったんだい? 一生に一度、出会えるかどうかだぜ?」

これに正幸は、ぬるくなったカールスバーグをゆっくりと飲み干し、どこか恥ずかしそうに答えるのであった。


「分かりません……ただ、僕にはまだ早すぎただけだと思います。

彼女はひどく大人な女性でしたから。

単純に、誰かの言葉を鵜呑みにするほど、僕は成熟していないし、この命を諦めるほど、人生を悲観してもいない。

ただの我儘と言えばそれまでですが、それでも良いなって……鏡に映るのが、そんな情けない自分でも許そうと思えたんです。

それは、彼女があまりにも完璧だったからかもしれません。

けれど、僕は自分の運命を認めるでも、受け入れるでもなく、ありのままで抗っていこうと思ったんです」


イグニスは言う。

「それも、ひとつの運命だな」

クレメンスは何も言わない。

ただ、空になりかけたグラスの氷をカラリと鳴らし、(分かったよ)と、返事をする。

正幸が言う。

「来週も来て良いですか? 出来れば毎週水曜日に」

イグニスは「もちろんだとも」と返し、クレメンスも、ニヒルな笑みで受け入れた。


 坂本 正幸の決断。

それは、運命という『パワー・ハラスメント』を告発するでもなく、また、泣き寝入りするでもなく、ただ当たり前に寄り添う。

父親のように背を向けず、母親のように逃げ出さず、影山のように諦めない。

それが、彼にとっての定めであり、運命だから。



【固定】

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