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ハラス・メメント 〜嫌がらせ記念日〜  作者: 三軒長屋 与太郎


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いのせんと 〜パワー・ハラスメント〜 その5


【固定】

始めまして、三軒長屋サンゲンナガヤ 与太郎ヨタロウです。

ゆっくりと物語の中の世界を、楽しんで頂けると幸いです。


 坂本は席へと戻る。

一度自分を落ち着かせようと、お代わりのビールを注文する。それを真似するように、クレメンスも空のロックグラスを傾け「日本人との夜だ、ひびきをくれ」と言った。

「水は要るかい?」と、イグニスが尋ね、「そうだな。常温で貰おう」と、クレメンスが返す。特に意味はない、普通の会話。それなのに、どこか緊張感が漂う。

坂本は、四杯目のカールスバーグに口をつけ、ふとテラス席を見る。やはりそこには、変わらず、ごく当たり前に、女性が座っている。

坂本の辛抱は限界を超え、カウンターへと向き直し、ついにイグニスへと尋ねる。


「あの入口のテラス席の女性は、常連さんですか? 待ち合わせか何かで、あそこに……」

坂本の問いかけに、一瞬ではあったが、確実な沈黙が流れた。さらには、坂本は、入口の女性からの視線を感じた。

慌てて女性を見る。しかし、女性は変わらず、人気のない路地裏を、ぼんやりと眺めていた。


「気になるかい?」

坂本の後頭部に、唐突なイグニスの問いが刺さる。

「はい……なんだか少しだけ……」

朧げな坂本の返事に、今度はクレメンスからの言葉が刺さる。

「俺も最近知ったんだ。魅力的な女さ」

やはり常連なんだ……と、思った。

「そんなに気になるなら、話しかけてみると良い」

続くイグニスの言葉が、高嶺の花に手を出そうとしているミツバチへの皮肉なのか、単に背中を押してくれているのかは分からなかった。すぐ近くの二人の声が、なんだかこもって聞こえたし、その前に、坂本の身体は入口のテラス席へと歩き出していた。

「もしも会話の返答に困ったら、俺たちの方を向きな」

背中にぶつけられるイグニスの声が、ひどく遠く聞こえた。


 入口のテラス席、そこには、五月の夜らしい涼やかな風が吹いていた。

薄暗い路地裏であるはずなのに、黄金に輝く麦畑の匂いがした。それが風なのか、目の前の女性なのか……。

(今までナンパなどしたことがないし、そもそもこれはナンパなのだろうか? 恋とかではない、もっと単純な“興味本位”な気がする。本能に近しい)

坂本はそんなことを思いながら、自分でも意外と……あっけなく声を掛ける。

「すみません。もし良ければ、少しお話しませんか? なんだか……貴女のことが気になって。あっ……日本語は分かりますか?」

坂本の問いかけに、女性はゆっくりと目線を移し、坂本を見上げた。その表情には、急に話しかけられた迷惑を嫌がる顔も、逆に言えば、特別喜ぶような顔も無い。ただ、不気味なほどの美しさが張り付いていた。


不意に口を開いた。

「ええ、日本語で構いませんよ。それに、お話しするのも構いません。

私は美編みあ。私は何も飲まないですけど」

とりあえずホッとした。ひとまず受け入れてくれたことに対してでもあるが、大きくは、女性の声色が優しかったから。

坂本は、美編と名乗った女性の対面の椅子に座る。しばし、見つめる。見れば見れほどに、現実味のない美しさ。年上にも年下にも見え、大人びていて幼げで……。

また不意に、口を開いた。

「それで? 正幸君が話したいことは?」

何故、美編が自分の名前を知っているのか……坂本はぎょっとしたが、きっとカウンターでの会話を聞いていただけだと、無理やり呑み込んだ。

「それが……何を話したかったのか……ついさっきまでは、貴女のことが気になって、貴女のことが知りたくて声を掛けたんですけど、今こうやって向かいに座ってみると、なんだか、貴女を知ってはいけない気がして……」


 今度は不意に、クスリと笑った。

坂本は、心臓を直接握られた気がした。恋や、愛など、そんなちっぽけな存在じゃない。

絶対的な服従……逆らえぬ摂理に近しい。

「おかしな人。それじゃあ私から。正幸君は、お父さんのことをどう思ってるの?」

あまりにも急な展開。薄気味悪さに息を呑む。しかし、逃げられない。


自分自身が望んで、話しかけたのだから——



◆◇◆



 ——気づけば坂本は、自身の心の中の扉の前に座っていた。

そして美編も、ごく当たり前に、そこに居た。

真っ白で、綺麗な部屋。家具も家電も無い正四角形の空間。

ただ、自分たちの座っていた『Pantera』のテラス席だけはそのまんま。

そんな空間に似つかわしくない、大きく歪んだ薄汚い扉。

知っている。自分自身が、両親への想いを封じ込めている扉。

反対側の壁には小さな窓があり、その向こう側で暗雲が立ち込めている。

これも知っている。影山が死んだと聞かされた日に、何故だか現れた小窓。


「それで? お父さんのことはどう思っているの?」

この非現実的な状況をなにひとつ気にすることなく、美編が再度問う。そして坂本も、何故か全く気にならない。むしろ心地良かった。影山と二人きりの個室を思い出した。ありのままの自分でいられる空間……どの自分が、ありのままなのであるかは分からないけれど。

そしてそれは、美編の質問も同じく。

「正直、分かりません。感謝してると思います。母親にも。ただ、産んでくれて、育ててくれて、感謝しているんだと思います」


不意に、グッと近寄ってきた。

テーブルに飛び乗るように、グッと。

吐息すら感じる距離。

燃え尽きた藁炭のような臭いが漂う。

美編の大きな瞳が、自分の瞳を覗き込んでくる。

瞳孔には何も映らない。

吸い込まれそうな深淵がある。

もはやそこには、美しさなどない。

吐きそうなほどに、ただただ気持ちが悪い。


 そして、美編は語り始める——



【固定】

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