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ハラス・メメント 〜嫌がらせ記念日〜  作者: 三軒長屋 与太郎


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いのせんと 〜パワー・ハラスメント〜 その4


【固定】

始めまして、三軒長屋サンゲンナガヤ 与太郎ヨタロウです。

ゆっくりと物語の中の世界を、楽しんで頂けると幸いです。


 その年の五月、最後の水曜日。

坂本は池袋東口の裏路地に居た。人気ひとけのない細い路地。薄暗がりの中で、安っぽい看板が灯っている。腰より少し低いくらい。小さな看板に『Panteraパンテラ』とだけ書かれていた。

入口のテラス席から、奥に長く伸びている。最奥のカウンターには、外から見ても分かる程に巨漢な店員と、それと向き合うように客席に一人、季節外れなトレンチコートを着た男が座っていた。

騒がしい音楽を流してはいるが、どこか陰気臭い。客も、その男一人だけ。

それが、水曜日の夜だからなのか、つい最近店の前で起きた悲惨な出来事からなのかは、判断できなかった。

二か月前、この店の目の前で、影山は死んだ。反対側のビルの屋上から飛び降りて。

坂本は、アスファルトに刻まれた何でもないはずのシミを、影山の身体と重ね合わせ、すぐに首を振った。


坂本が『Pantera』の店内に入ると、店員は当たり障りなく迎えてくれた。

「いらっしゃい。今日は暇だ。どこでも好きな席に座りな」

店員は明らかに日本人ではなかったが、流暢さを軽く超える見事な日本語に、坂本は一瞬、差別的な驚きを抱いてしまった。

店員はすぐにそれを察して笑って見せる。

「はは、驚かせてしまったかい? 海外の雰囲気を愉しみに来たんであれば、やめてあげても良いぞ? 英語でも、イタリア語でも、スペイン語でも……どれが好みかな?」

雰囲気に呑まれそうになる自分を、一生懸命に創り直す。

「是非、日本語でお願いします。せっかくバーカウンターがあるお店なので、会話を楽しみたいですし、僕は、リスニングは得意なんですが、実際に喋るのがちょっと……」

これに、カウンターの男が割って入る。

「日本人は皆そうさ。シャイだからな。発音が気になって恥ずかしいんだろ?」

坂本はまたもや驚いた。客の男も明らかに日本人ではないのに……二人とも、最近入った新入社員よりも、日本語が上手な気がした。

坂本は照れくさそうに微笑みながら、小さく頷いた。


 「そんなわけで、カウンターに座っても良いですか?」

坂本の伺い立てに、店員は大きな手を広げてジェスチャーを交えながら、深く頷いた。

客の男も歓迎する。

「是非そうしてくれ。こいつがバーカウンターから外に出るたびに、テーブルが揺れて、俺たちは酒を守らなきゃならない。さっさとウェイターを雇えって言い続けているんだけどな」

「俺は、自分の両手で抱えられる物しか抱えない。それだけだ」

店員がムッとしたような言葉を返すと、客の男は「それも“神のお告げ”ってやつかい?」と、皮肉めいた言葉を返した。


「俺はイグニス。こいつはクレメンスだ。あんたは?」

「坂本です」

店員の質問に、坂本が答える。そして、客の男が注意する。

「日本人らしいな。その癖を止めな。俺たちはあんたの歴史にも家系にも興味がない。今知り合ったばかりの他人じゃないか。こんな時はファーストネームを教えてくれ。それこそが、君の形と成りだと思わないかい?」

なんとも子気味の良いセリフだった。坂本は一気に、この店が好きになった。

どうやら店主であった巨漢の男。バーカウンターの向こう側にすっぽりと納まりながらも、深い賢智と思想が窺える。

客の男もそうだ。一見すると陰気臭い死神のように思えたが、実に自然体な優しさがある。

何よりも、目の前の二人は、決して自分の手鏡になどなり得ない、圧倒的な自我があった。坂本は不謹慎にも、影山の代わりを見つけたような気がした。


正幸まさゆきです」

坂本が改めて名前を提示すると、二人は順に「よろしくな」と握手を求めた。

坂本が“先ずは”と注文したカールスバーグを、冷えたグラスに丁寧に注ぎ、カウンターの上に置く。

「イグニスさんも、良ければ何か飲んでください」

坂本が奢る姿勢を見せると、イグニスは「良い子だ」と呟き、坂本と同じカールスバーグを注いだ。子ども扱いされたようにも感じたが、不思議と悔しくはなかったし、むしろ嬉しく感じた。イグニスの大きな手に包まれたピルスナー型のビールグラスは、ほんのショートカクテルに思えたし、この二人からは、父親とは違う……坂本がまだ知らない形の愛情を、感じざるを得なかった。

こうして、坂本は、“新しい水曜日”を手に入れた——


 「どうしてこんな店に迷い込んだんだい?」

クレメンスの問いに、坂本は丁寧に答えた。

自分が、駅の反対側の会社に勤めていること。毎週水曜日に飲んでいた“友人が転勤してしまい”、水曜日がポッカリと退屈になってしまったこと。そして今日は、そんな代わりとなる店を探していて、“たまたまこの店に惹かれた”こと。

坂本は、影山の存在を隠した。店の目の前で人が死んだのだから、この店にとっても良いことなはずがない……当然の配慮だった。

「そうか……」

二人の返事はどこか余所余所しく感じたが、特段気にならなかった。ただ、詰まる内容ではなかっただけだし、そもそも初対面の二人に、自分と影山の関係など、知り得る道理が無い。


その後は淡々とした会話。

『Pantera』という店名の由来が、動物の豹や、アメリカのヘヴィメタルバンドではなく、綺麗な模様の鉱石の一種であること。二人はドイツで知り合った20年来の知り合いで、今はたまたまお互いに日本に住んでいること。坂本の仕事の話、他愛もない人生観、日本の良い所、悪い所。

特別盛り上がるでも、盛り下がるでもなく、心地の良い時間が過ぎていった。


 ——それは、坂本が“お手洗いに”と席を立った時のことである。

いつからそこに居たのか……ひとりの女性が、一番外側のテラス席に座っていた。

やはり、明らかに日本人ではない。しかし、外国人と言い切れる顔立ちでもない。

謎めいた魅力、煌びやかな透明感、それでいて、決して触れてはいけない背徳感。

坂本は一瞬、“見てはいけないものを見てしまった”気がした。しかし、坂本がお手洗いを終えて席に戻る時にも、変わらず、ごく当たり前に、女性はぼんやりと人気の少ない裏路地を眺めていた。

そんな坂本の戸惑う目線を、イグニスとクレメンスは、静かに見守っていた。



【固定】

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