いのせんと 〜パワー・ハラスメント〜 その3
【固定】
始めまして、三軒長屋 与太郎です。
ゆっくりと物語の中の世界を、楽しんで頂けると幸いです。
「おはようございます! 《水原》係長」
坂本は、自分の少し前を歩く背中に向かって声を掛ける。心労からか、酷く丸まった巻き肩。力ない表情が、男の身体をより小さく見せる。
坂本より一回り年上の水原は、噂の影山が配属されているシステム部の係長。ごく普遍的な人間であり、仕事の出来ではなく、“何も問題を起こさない”ことで出世するスロータイプ。坂本は、影山に近づく口実を見つけるために、先ずは水原に擦り寄った。
表面上は、企画部とシステム部の連携強化であり、それは実に容易に遂行された。
初対面から一か月にも満たない間で、坂本は影山のデスクのアドレスを手に入れ、直接仕事のやり取りをした。
しかし、ここから先が厄介であった。
『お疲れ様です。今回のシステムエラーですが、修正と共に、バックデータを共有できる補助ボックスを作成して下さい。クライアントからの要望ではありませんが、相手方の会社規模、目的が他部署共有であるからして、万が一に備えた保険的ツールを完備していた方が、当社の営業部にとってもセールスしやすくなるとの判断です』
坂本がどんなに長文を送っても、返ってくるメールは『わかりました』の六文字であった。そして数時間後、修正されたアプリケーションが共有に貼られ、『確認お願いします』の八文字が添えられる。
坂本は、この男との交流に、難攻不落の要塞をイメージすると共に、ほとんどの依頼がその日のうちに完璧な形で創り上げられて返ってくる現実に、舌を巻いた。
坂本による影山攻略は、思いもよらぬ形であっけなく完遂されることとなる。
二人の初対面から半年が過ぎた夏の終わり、昨今のハラスメントに対する世間の風当たりを鑑みて、坂本たちの会社にも、急遽風紀委員が立ち上げられ、その中に、坂本の名前が連ねられたのだ。
如何に鉄壁を誇る影山でも、“会社命令”となれば、城門を開かざるを得ない。
『会社上層部よりの通達で、私たち二人でのセッションが指示されました。会社の核となる二部署の若手で、意見交換を踏まえ、最近ニュースを騒がせているハラスメントに対する対策を、協議して欲しいとのことです。正直なところ、この指令も何かのハラスメントにあたる気もするのですが……笑 つきましては、今度の水曜日の就労後、お時間を頂けないでしょうか?』
要するには、会社が飼いならしきれない影山のお世話係に任命されたのだ。
いつもより、ほんの少し間を開けて、影山から『わかりました』の六文字が送られてきた。坂本は不思議と、エンターキーの上で固まる影山の指を思い浮かべ、あの冷え切った目を想像した。圧倒的な孤独と自我を兼ね備えた黒塗りの瞳を。
こうして、毎週水曜日の奇妙な飲み会がスタートすることとなる——
影山と初めて酒を飲み交わした日。
坂本は、影山の中に潜む闇に触れた。『第一回恐怖症(何事も最初の一歩を極端に恐れる奇妙な精神疾患)』という聞き覚えの全くない闇。
しかし、坂本が驚いたのは、自分が思っているよりも、影山がいたって普通の同い年であることであった。
確かに、飲み会の席に着くまでは違った。『わかりました』と返ってきた返信の直後に送られてきた、箇条書きの条件。
・会場は会社より徒歩圏内
・場所は完全個室
・必ず二人きり
・店員も近づけたくはない
・オーダーは個室の外
・フード注文は一度だけ
・私はビールしか飲みません
・トマトは食べられません
どこぞのマフィアとでも密会するかのような条件。それでいて、可愛らしさも滲む。
坂本は正直、この男とまともに議論できる気はしなかったし、そもそも会話が通じるのかさえ怪しかった。最悪の場合、上司への報告は作り話で誤魔化そうと思っていた。
ところが、いざ飲み会が始まると、影山は単なる口数の少ない青年に思えた。
完全個室のテーブルの上に、様々なつまみが並んだ。
串焼きの盛り合わせ、刺身の盛り合わせ、山芋鉄板焼き、だし巻き卵、炙り〆さば、牛肉カルパッチョ。
ありふれた居酒屋の、ありふれた面子。“我ながら色気が無い”と、坂本は思った。
しかし、影山はまんざらでもなく、ほんの少しだけ硬い表情を崩した気がした。
不意に、影山がヘッドホンを外す。「どうも」と言葉を吐き、合図を待たずビールに口をつける。すぐさまに、山芋鉄板に箸を伸ばす。そして、ゆっくりと味わうように飲み込むと、もう少し言葉を続ける。
「すみません。僕は何事も“スタートすること”が苦手でして、ドリンクも、つまみも、こうやって一気に始めてしまわないと、タイミングを逃してしまうんです」
坂本は大いに笑った。勝手にビールを飲み始めたことも、鉄板料理を直箸で突いたことも、全てを許した。
坂本は理解したのだ。目の前の歪な存在が、種類こそは違えど、同じ穴の狢であると。
それ以降は順調だ。
喋っていたのはほとんど坂本ではあるが、影山も影山なりに、仕事への意思や、自身の経験になぞらえたハラスメントに対する意見を口にしてくれた。
この意外な成功体験に快感を覚えた坂本は、毎週水曜日を影山との“サシ呑み”の日と決めた。名目上は影山と社会との距離を保つトレーニングとしたが、実際には、坂本の為の予定であった。
坂本は、目の前に自分が映らない……決して手鏡にならない影山とのサシ呑みを、何よりも心地の良い空間として、大事に、大事に、抱きしめた。
◆◇◆
影山が死んだ——
まもなく入社から六年目を迎えようとしていた三月の月曜日。そんな報せが坂本の鼓膜をつんざいた。
先週の水曜日にもサシ呑みをした。簡単には受け入れられない。
だが、影山という大きな核を失った会社は、けたたましい程に悲鳴を上げ、自らのデスクに飛び交う未体験な書類の山は、それが現実であることを訴えていた。
【固定】
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