第2部 Tokyo Ophionids - 34
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安海ナオは目を瞑っている。
ミモザという少し年上の海外の女の子のデンゲイに乗せられて、
縋るようにその子と手を握ったまま、じっと瞼を閉じて、震えている。。
外の様子がどうなったのか知りたくなかった。もう見たくなかった。
一度、ミモザはナオを降ろしてくれた。
ミモザは初めて会う人でも不思議といやな感じはしなくて、海外の環境保護団体にいると言っていて、成瀬アケルとも知り合いで、なにより父のことを知っていた。
父は今、沖縄にいると言う。
どうしてナオに何も言わず行ってしまったのか、それは分からない。
それでも、少しでも早く父に会いたい。
でも、オキナワなんて知らない。行ったことない。
旅行なんて子どもの頃、家族で行ったきりだ。
どこに行ったのかは憶えていない。
家族三人でクルマに乗って行ったことだけ憶えている。
あの時はまだ家にクルマがあった。家族がみんな揃っていた。
家。
父はもしかしたら沖縄へ行く前に、家に寄っているかもしれない。
ナオが帰って来るのを待って、それから一緒に出るつもりかもしれない。
ミモザがどうして家の近くでナオを降ろそうとしてくれたのかは分からない。
もしかしたら、旅行の荷物が要ると思ってくれたのかもしれない。
ナオはそんなことまで考えられなかった。
学校であったこと、校庭でのこと、白いデンゲイのこと。
頭の中がいっぱいだった。他の何かが意識に入り込む余地なんてなかった。
とにかく早く家に帰りたかった。
ミモザが降ろしてくれたのは、最寄りの駅から少し離れたところだった。
赤いデンゲイは建設中のビルの陰にそっと停まった。
先に降りたミモザに手をとってもらって、ナオもアスファルトの地面へ降りた。
堪えきれず、ナオは駆け出していた。
辺りは騒然としていた。
熱を出した時の悪い夢みたいに、大きな音が頭の中で鳴っているみたいだった。
音が高くなっていく耳障りなサイレン、離れていても伝わって来る人々のどよめき。
もう夕方で暗くなっているのに、街灯が一つも点いていなかった。
暗い街、黒い道、輪郭の薄い建物。
何も見えない。何も分からない。自分が知っている色ではない。
意地の悪い小学生の男の子が墨でぐちゃぐちゃにしてしまったみたいだった。
遠くの空だけ燃えるように赤かった。
いやな匂いが立ち込めていた。
最初は焼き芋の匂いかと思ってしまった。できれば、そうであってほしかった。
でも、それとは絶対に違う焦げ臭い匂い。
火の粉や、何かの燃えカスみたいなものが平然と舞っていた。
目が慣れてきて、そこかしこの建物が壊れていることに気がついた。
駅前のビルも、きれいなお店も、誰かの家も。
どこか壊れて、煤けて、ひどい時には崩れている。
スマートフォンを落として、横に変な線が入ってしまった時の画面みたいだった。
刃物みたいに張り詰めた空気が、顔や手にあたっていた。
途中で、何人も擦れ違った。
誰もがナオとは逆の方向へ走っていた。
不安だったが、家はこっちだった。間違えるはずなかった。
家に近づいていけば行く程、周りは暗くなっていって、嫌な予感が増していった。
何か黒くて大きなものに、ばっくりと吞み込まれてしまったみたいに暗くなっていた。
そっちは危ない、と擦れ違ったオトナの人が止めてくれた。
早く避難しなきゃ、と言って、その時は暗くて気づかなかったけど、時々スーパーで見かけるおばさんは大きな荷物を背負って小走りで駅の方へ行ってしまった。
そう言われても、ナオの家はこちらの方だった。
すっかり息が切れてしまったナオは、それでも歩いていこうとして、
そこに道がないことが気づいた。
暗くて、近くに来るまでは何も分からなかったけれど、
そこにあるはずの、いつも家に帰るときに通っている道がなかった。
何が起こっているのか分からなくて、まるで意味が分からなかったけど。
なくなっていることだけは確かだった。
それも、道だけじゃなく、地面もなくなっていた。
周りの住宅街が、まるごと全部なくなっていた。
後からミモザが追いかけてきてくれなければ。
ナオはずっとそこに、呆然と立ち尽くしたままだったろう。
竜星が落ちたのです。
そう言われても、理解できなかった。
そんな風に言われても、自分が生まれて、育ってきた家が、
そこにあたって当たり前のものが、なくなってほしくないと思っていたものが、
隕石のクレーターになりました、と言われて、
分かるはずない。それはナオだけだろうか。
どうして、と問いかけることさえできず。
ナオはミモザに肩を抱かれるまま、泣いてしまった。
子どもの頃みたいに、まだ家族が三人だった頃みたいに、
ずっと抑えてきたものが、もうどうしても止められなくて、
溢れ出すみたいに。
ナオは泣いた。
その間、ミモザはずっと傍にいてくれた。
ひとしきり泣いた後、ミモザはナオの手を引いて戻っていった。
そうして、ナオは赤いデンゲイの中にいて、
縋るようにミモザの手を握って、目を瞑っている。
見知った風景はどこにもなかった。
飽き飽きしていた通学路も。
スマートフォンを覗き込むだけの時間でしかなかった電車の中も。
帰りがけに買い物で寄っていただけの駅前も。
なんとなく判ってしまうのは、もう元には戻らないということだけ。
後に残ったのは、それこそショート動画でしか見たことのない光景。
アプリを開いて、勝手に出てきてしまう被災地や、外国の紛争地帯。
現地の悲惨な映像。
みんなが判で押したように言う、絵文字だけのRIP。
自分が言われる側になるなんて、思ってなかった。
「みんなで恵まれない子どもたちのために何ができるか考えましょう」
「みんなで大変な思いをしている人たちを支援しましょう」
今はもう何も考えなくなかった。
早く父に会いたい、それだけだった。
ナオは長い間、決して広くはないデンゲイの中でじっとしていた。
でも、それも永遠ではなかった。
段々と降りていっていることに、不思議とナオは気づいていた。
緩やかな着地の感触と音の後に。
ミモザは残酷なことを言った。
「ナオさん、ここで降りてください」
ナオは必死で首を横に振った。
父が先に行ってしまって、ミモザにも置いていかれてしまったら。
ナオはどうすることもできない。
一人でオキナワまで行くなんて、できるはずない。
それなのに、ミモザは冷たく言った。
「警戒が厳しくなってきました。これ以上はデンゲイで行けません」
せめてミモザには一緒に来てほしかった。
でも、それもできないと言われてしまった。
「私は、私のデンゲイを隠さなくてはなりません」
それなら、ミモザと一緒に行きたい。
そう言うナオに、ミモザはこう説明した。
その間に当局に捕まってしまうリスクを考えれば一緒には行けません。
それでも良い、とナオは言ったのに、頑固にも断られてしまった。
「地図情報が正しければ、ここはカナガワとシズオカの間です。20km程歩けば鉄道の駅があります。そこからオキナワへ向かってください」
ミモザはもう一度ナオに降りるように言って、ナオもそれ以上は強く言えなくて、渋々降りるしかなくなった。
ナオがよろよろと地面に立つと、ちょうどサイレンの音が近づいて来た。
ミモザは離れるように言い、ナオがどうしたらいいか分からず立ってままでいると、ミモザは今度は強い口調で同じことを言った。
ナオが慌てて後ろに下がった。
ミモザは赤いデンゲイの中に完全に入ってしまって、すぐに飛び去っていた。
ナオは、知らない風景の、歩いたこともない道の真ん中に一人、取り残されてしまった。
どうしようもなくて、ミモザの赤いデンゲイが暗い空の赤黒い端の方へ、みるみるうちに小さくなっていく様を見上げていることしかできなかった。
それからナオは本当に一人になってしまった。
世界に嫌われたみたいだった。
実際その通りで、みんながナオのことを嫌っていた。
不遇だと思った。虐げられていると思った。
周りは全て真っ暗で、ナオはもう一度泣きたくなった。
それなのに、涙は出なかった。
なくなってしまった家の近くで散々泣いて、今はもう他に誰もいない。
しばらく、ナオはそこに俯いたまま立っていた。
やがて、手持無沙汰の時の常としてスマートフォンを点けた。
そこだけはいつものように明るかった。
東京から離れたせいか、電波も立って、電子コンパスも動いていた。
ややあって。
ナオは一人、とぼとぼと歩き始めた。




