第2部 Tokyo Ophionids - 27
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腕を引っ張られて、ナオは頭のどこかで痛いと思う。
痛いから、痛いと言いたくても、声が出ない。言葉が浮かばない。
ただ腕を引かれて歩く、もつれる足で小走りする。
痛くても、転びそうになっても、離してもらえない。
力づくで持ち上げられて、歩かされる。歩幅も追いつかない。
どこへ連れていかれるのか、今どこを歩いているのか。
そんなこともわからない。
白い場所。光に塗り潰された道。何も見えない。
騒がしい反響。空っぽの静寂。何も聞こえない。
それでも、歩く。よろけても、歩かされる。
真っ白い回廊を、他の音像を退かして。
ぐいぐいと無理やりに引っ張られて。
痛みに耐えながら進む。
そうして。
突然、空気が変わった。
どこか濁って、凝り固まった呼吸のしづらさがなくなった。
ナオはようやく息をすることができた。
そこで気がついた。
今ままで嗅いでいた停滞の雰囲気は校舎の中のものだったのだ。
成瀬アケルは、逃げ惑う他の子たちを殴ったり、蹴ったり、突き飛ばしたりして、強引に道を開けて、ナオを校庭まで連れ出したのだ。
意識が徐々に鮮明になっていく。
ぼやけていた視界はピントが合い始めて、焦点が定まっていく。
白い煙に巻かれた校庭。
裂けて、割れて、壊れたアスファルト。
地面を漂うまっさらな雲が流れていき、虹のように燦めく光の輪が瞬く。
その先に。
うっすらと、大きな竜の姿が見えた。
幾つもの残骸に分かれた隕石の前に。
純白のデンゲイが佇んでいた。
生まれたばかりだからか、雲の中にいるせいか。
岩のような体はどこか濡れていて、なぜか小刻みに震えている気がした。
引き寄せられるように、ナオはその白い竜へ近づいていた。
何も意識していないのに、何も考えるまでもなく、ナオは自然と、それが当たり前のように、生まれた時からそうであったかのように、竜の元へ寄っていた。
「いいぞ、お前が共辰者になれるなら、このオレがそれを見届けてやるよ」
後ろで成瀬アケルが喜声をあげていた。
「竜のお星さまの巫女とやらにお前がなるのを手伝ってやって、しかも見届けてやったとなれば、R神州のヤツらだって、功労者であるオレをリスペクトせざるを得ないよなぁ。お前とお前のデンゲイも、このオレの手駒にしておけば、本格的にV.V.へ活動の軸足を移していくのにも都合が良いってことだ!」
その声は聞こえていても、ナオの頭の中には入ってこなかった。
怖いとは思っていても、ナオの歩みはどうして止まらなかった。
夢遊病の足取りで、ナオは白いデンゲイの足元に辿り着いた。
その星の体に手を伸ばして。
触れる。
瞬間。
ナオは暗黒空間に立っていた。
深く、遠く、果てしない、永劫の時間。
しかし、光を観た。寄る辺ない旅路に標が立った。
途端に、零れ出す色彩。
絵の具を垂らして、注ぎ始める銀河の輝き。
光世紀世界。赤方偏位の焰。万有引力の潮騒。
その先に、その中で、その周りに。
見つけたのは、青い海と白い雲。緑の陸に赤茶の地。
この広大な世界を、ずっと。ただ一つ。ただ一人。
ナオは泣いていた。知らず涙が溢れていた。
竜が産声をあげた。
初めて光を吸って。初めてマナを吐いて。
初めて共辰をして。自身の半身を得たと知って。
普通の人には分からない竜子場が、マナの波濤が。
今のナオには感じられていた。分かってしまっていた。
「やればできるじゃねぇか。初めからさっさとそうしておけよ、グズ」
成瀬アケルが上機嫌に叫んだ。
「少しは役に立ってもらうぞ。このオレが、この世界の頂点に立つための踏み台としてな!」
白いデンゲイが嘶いた。何かを感じて、反応いていた。
ナオは振り向いた。まだ気づいていない成瀬アケルの更に向こう。
「待て、そこまでだ!」
布良セージだった。
見慣れない鮮やかな色のジャケットを着て。
ナオの隣の席の、あの転校生が校庭の校舎側に立っていた。
「それ以上、動くな!」
布良セージが叫んだ。
「人を強制的にデンゲイに共辰させる行為は、パレンバン条約上の犯罪行為に当たる!」
その声を聞いて、成瀬アケルは一転して表情を険しくした。
「バカか、テメェは。そんなことオレには関係ねぇんだよ」
振り返った三年生は両手を広げて嘲った。
「やっぱテメェが国連のスパイか。まぁオレには分かってたけどな」
「動くな、と言っている。オレはスパイじゃないし、お前たちの思想や政治的信条、その他宗教にも関心はない。だが、お前たちがどれだけSNSで善人振ろうと、実際には、より多くの悲劇を生み出しているだけだ!」
「動くな、じゃねぇんだよ」
成瀬アケルの声は笑っているようで、決してそうではなかった。
「なんのつもりでそんなナメた口きいてんだ。テメェにそんな力があんのかよ。このオレを止められるとでも思ってんのか?」
ふと、上から吹き降ろす風圧にナオは気がついた。
何かが震えるような奇妙な音まで聞こえてきて、たまたま風がそよいだ訳ではなかった。
昨日までの、いや竜星が落ちる前のナオだったら、それが何なのか分からなかった。
でも、今なら分かる。分かってしまう。
竜子場が風を擦る音。マナの働きで、デンゲイが空を飛ぶ音。
ナオたちの頭上に、大きな影がさした。
それも一つではない。とてつもない二つのシルエット。
風が少しだけ強くなり、すぐに凪いだ。
音が僅かに大きくなり、やがて静かになった。
着地を鈍く響かせて、二翼のデンゲイが校庭に降り立った。
まるで成瀬アケルを守る獅子と狛犬か、金剛力士のように。
ずんぐりとした、岩のような巨体と虹のような翼を具えて。
青い体色のデンゲイと、赤いデンゲイが聳え立っている。
ナオは震えが止まらなかったが、もう動くこともできなかった。
「悪くないタイミングだぞ、ミモザ」
成瀬アケルが赤のデンゲイに向かって声を張り上げた。
「どうやら間に合ったようですね」
赤いデンゲイからスピーカーを通して女子の声がした。ナオより少し年上そうな雰囲気で、ミモザという名前には確か聞き覚えがあった。
「VVに飼われている共辰者というだけあって少しは使えるみたいだな。お前の人生で最大の功績はこのオレのために、エリダヌスを持ってこれたことだ!」
三年生が声を張り上げて勝ち誇ると、青いデンゲイは星の体を屈ませて、主人に恭しく首を垂れる従者のように跪いた。
それを見た成瀬アケルは満足そうに唇を歪めて頷き、次いで颯爽と身を翻して、長い手足を振り上げ、デンゲイの腹部にある空洞に飛び乗った。
たちまち、風防のような膜がせり出して来て、空洞の開口部を覆った。
青い竜は立ち上がり、獲物を見つけた捕食者のように布良セージを見下ろしていた。
「ここまで見せてやれば、テメェらみてぇなザコどもにも少しは理解できんのかぁ。このオレとテメェら一般人との間にある、絶対に埋めることのできない生物としての決定的な格の違いってヤツをよ!」
デンゲイに乗った成瀬アケルがスピーカー越しに吠えた。
布良セージだけでなく、校舎から出ることもできない他の子たち皆を見下していた。
「しかもな。このオレのデンゲイ、エリダヌスは特別仕立てなんだよ。そこらのデンゲイと格が違う。こんな専用装備まで用意するあたり、オレがどれだけ有能なのか、VVは良く分かってる。テメェらみたいな雑魚と違う、普通の人間なんかとは区別されるべき、より上位の存在に対する丁重な扱いってものをな」
見れば、赤いデンゲイとは異なり、青いデンゲイの、人間で言えば腰の辺りに相当する部位には大きな音叉のような、もしくは鋏のような装置が架設されていた。
「デンゲイをどうやって運び込んだ? 日本国政府当局の許可を得ているのか!?」
布良セージが叫んだが、成瀬アケルは青いデンゲイの中で、せせら笑った。
「知らねぇよ、そんな凡人どもが勝手に決めた法律とかルールとかよ」
青いデンゲイは見せつけるように腕を広げて、三年生は自分の体のように誇った。
「そんな、どうでもいい、めんどくせぇだけのフツーの生き方とか知らねんだよ。そんなもん、初めからこのオレには似合わねぇ。つまらねぇ泥臭い地上の生活とか要らねえんだ。そんなもん他のヤツらが勝手にやっておけよ。オレはお前らとは違う。星に選ばれたんだよ。格上のソンザイなんだよ。約束されたスターロードを駆け上がり、スターダムにのし上がる。勝利と栄光の運命こそが、このオレに相応しいステージだ。この成瀬アケルこそが星の王子様なんだよ。それを分かれよ、バカどもが。テメェら雑魚のアンチどもは一生地べたを這いずり回って、このオレ様の華麗なる活躍を見上げて、一生僻んでろ!」
饒舌に、自分に酔うように、それから何かを思い出したように、デンゲイの中の成瀬アケルは優越感と高揚感に浸りきって、周囲の者を嘲笑していた。
対する布良セージの関心は、三年生が発した言葉にはなかった。
「パレンバン条約第5条。破壊、損害又は傷害を引き起こす手段として、デンゲイを使用する行為、竜星やデンゲイから得られる技術を使用する行為、その意図をもった装置をデンゲイに付加する行為。これらは全て条約上の犯罪行為にあたり、締約国は未然に抑止するため、あるいはその行為に対応するため、立法上の、あるいは行政上の必要な措置を執らなければならない。そして、ここ日本国は、パレンバン条約の最初の批准国の一つだ」
呪文を詠唱するように淀みなくそう告げた布良セージは、腰のベルトに提げた小さなホルスターのようなものから、左手で何かを引き抜いた。
一瞬、跳ねた虹色の光。
周囲の竜子場を弾いて閃くメダルみたいなもの。
布良セージはそれを、スマートウォッチの時計盤に重ねるように差し込んで、
肘を立て、腕時計型の端末を顔前に翳した転校生は、はっきりと宣言するように言った。
「来い、デンゲイ!」
刹那、反転。
ナオが夢見る感覚世界は一挙に丸ごとひっくり返された。
現実という名の五感に支えられた世界がバラバラになって、割れたガラスのように断片世界がめちゃくちゃに散らぱった。
見るもの聞くもの感じるもの。それら全てが割れた鏡の破片にになって、
何もかもが映し出される蜃気楼。
そして、ナオの観覚はもう万華鏡と変わらなくなって、
陸と海と空、それに宇宙を観た。
空を覆う厚い雲。
地面を巻く白い煙。
曇りを突き抜け、差し込む薄明の光。
遥か上空、人間世界の外側から、竜子場を漲らせる澄んだ高音と共に、
地上社会の認識を打ち破り、輝くマナの整流に美しき翼膜を滑らせて、
黒き竜は落下する。
捻る竜子場の光彩、うねるマナの潮騒、輝条を曳く後背の火球。
暗雲のヴェールを貫通し、白煙のカーテンを両断して。
世界を茜色に染める、止まない竜星雨と共に。
天を割って、宙を裂き、黒きデンゲイが地に降り立つ。
「おい、どういうことだ!」
成瀬アケルだけではなかった。
ミモザと呼ばれた女子がスピーカーの奥で息を飲んだ。
青いデンゲイも、赤いデンゲイも、慄くように身じろぎしていた。
ナオの後ろにいる新星児だけが、何も知らずに無邪気なマナの産声を発して、ナオはどうしようもなく、その白亜の竜体に身を寄せるしかなかった。
「国連の、黒いデンゲイ」
赤いデンゲイから呟くような声が聞こえた。
信じられないものを見ている。そういう口振りだった。
青いデンゲイが成瀬アケルの声で叫んでいた。
「転校生、テメェふざけんな!」
答える代わりに、布良セージは身を翻し、背後に佇む黒いデンゲイに飛び乗った。
それは服を着るより自然な動作だった。
まるで生まれた時から、そうしていたような。
お母さんヤギのお腹から出てきたばかりの赤ちゃんヤギが、
当たり前に立ち上がって、走り回るみたいに。
本当に、そういう生態を持った動物だと言われたら、きっと信じてしまうくらいに。
黒い竜は、共辰者を核珊に抱えた。
布良セージのデンゲイは意志ある者として、校舎の前に立ち上がった。




