第2部 Tokyo Ophionids - 22
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夜半に差し掛かり、南東の空にエリダヌス河が注ぐ頃。
セージはデンゲイの核珊から夜空を眺めていた。
やはりヨコスカの岸壁に停泊するイニシエイト・ロコラの飛行甲板からでは、一等星ですら霞んで見えて、多くの星が夜の色に塗り潰されている。
エリダヌスのほとりに寝そべっているはずの海獣座も二等星や三等星ではまず肉眼のお目にかかることはないし、それなら変光星の脈動周期がどうであろうと関係ない。
フォーマルハウトですら、南西の低い空に心細く口を開けているくらいだ。
この緯度では南十字どころか、偽十字だって望めない。
そんなことは初めから分かりきったことだ。
ホームシックにでもなったのか。
セージは自分にそう言った。言っているのはデンゲイだったかもしれない。
バカバカしい着想だった。
この海と空の他に、どこへ行けるというのか。
暗い空高く、星よりも明るく光っているのは、稀に頭上を横切る航空機の標識灯だった。
「おい、そろそろ閉めるぞ」
わざわざデンゲイの脚を登って、ラダマがヌクレオまで顔を出してきた。
「いつまで物思いに耽ってんだ。悩みがあるのはお前だけじゃないんだぞ」
セージは溜め息と共に、シートへかけ直した。
ペクとチェンから預けられた竜子通信機は、想定通りの機能を示して作動した。
ステファンの言を借りるのであれば、糸電話と同じくらいには革新的な発明ということになるが、実際あまり多くの用途は期待できそうにない。
マナが疎かだったり、反対に密が過ぎている時に、どうしてもデンゲイを喚ばなくてはならなくなってしまったら。そんな時には役立つこともあるかもしれない。
「また明日もコイツを空に揚げるんだろう」
ラダマがデンゲイの体表を軽く叩いて言った。
セージの竜は僅かに身をよじったが、別に嫌がってるわけでもなかった。
「あぁ、そうだよ」
ラダマの問いかけを、セージはぞんざいに肯定した。
「装備はどうするんだ、空手のままでいいのか?」
セージも思わず身をよじった。今はそんなことまで考えたい気分ではなかった。
「結局、対星特装はダメなんだろう。なら、対機特装でも積んどいてよ。ないよりはマシなんだからさ」
「そりゃ間に合わないものは間に合わないんだから、しょうがないだろ。艦の対星ミサイルだって積んでおけばいいってもんじゃないんだ。このままじゃ試射がぶっつけ本番になるとかならないとか言って御三方まで慌ててんだよ。お前たち一翼のために割けるリソースなんて、残念だが今のオレたちにはないってこった」
大きな溜め息がセージの全身から抜け落ちた。
もう何も言う気がしなかった。
ラダマはそんなこちらの様子に気づいているのか、いないのか勝手に話を進めていた。
「とは言え、お前が何を心配しているのかは分かってる。オレだって同じさ。艦内セパタクロー大会のチーム分けが発表されたばかりだからな。無理もない」
セージが冷ややかに一瞥しても、気づかないラダマは訳知り顔で、うんうんと頷いた。
「オレが見たところ、両チームの実力は互角だね。リーダー、サブリーダー含め、うまい具合に配分されてやがる。チーム分けをしたヤツはかなりわかってるやつだ。そうなると、セージ、試合の流れを決めるのは唯一の不確定要素、つまりお前の動き方次第ってことになる。おい、聞いてるのか」
「もう閉めるんだろ。動くぞ」
「待て待て、セージ。なんだなんだ、また学校で何かあったのか?」
「別に何もないよ。だいたい、またってなんだよ、またって」
「じゃあ他にどこで何があるって言うんだ?」
思わず身を乗り出して言い返したセージだったが、暗くてお互いの顔が碌に見えないのだから甲斐もないと知って、再びシートへ体重を投げ出してしまった。
「だからさ、そういうんじゃないだんよ」
「それはいつも聞いてるよ。そういや、お前、ステファンが帰って来たって聞いたか。こないだの荷物、持って行くの忘れるなよ」
「もう届けたよ」
「お、仕事が早いじゃないか。やっぱ星の王子様は違うな」
良くも言う。セージは聞こえるように舌打ちをした。
「誰が何だって?」
「いやいや、さすがチーム・サンテックスのメンバーだってことよ。自分の使命を良ぉく理解している。そうだろう?」
何が艦載竜夜間飛行隊だよ。どっちだって同じじゃないか。
もっと言い返してやろうとも思ったが、いちいち相手をするのも癪だった。
そう思うと、自然と呼吸は深くなる。
「ミッションねぇ」
セージが吐息に交えて漏らすと、ラダマは笑い出した。
「何がおかしいんだよ」
「気に入らないのか。いい加減、割り切れよ」
「割り切ってるだろ。学校には毎日通ってるし、ステファンにも荷物は届けた」
「そのステファンに訊いてみたらどうなんだ?」
「訊いたよ」
「なんだって?」
「学校にいる間は研究しかしなくて良いから楽だってさ」
ラダマは陽気な笑い声をあげた。元気なヤツだ。
「そちゃそうだ。確かに仕事をしながらじゃ、なかなか他の勉強だってできやしない」
「そう、そういうことを言ってたよ」
「切実な問題さ。オレだって機械イジり以外のことも憶えようと思ったら、なかなか難しいもんだ。時間をつくるのも簡単じゃない。できれば避けたいところだが、オヤジの元に戻るにしたって議員としての仕事は憶えなきゃいけないしな」
「良いよな、やること決まってるヤツはさ」
「お前は決まってないのか?」
「決まってるよ。学校へ行って、今一つ話が合わない、竜星群なんて自分たちには関係ない、外国の話だって思ってるクラスメイトとか、おかしな陰謀論者の教師までセットでさ。そういうのを相手にしながら、表面的にはうまくやってます風に報告あげなきゃいけないのが今のオレのミッションだよ。退屈しないだろ」
セージが皮肉交じりにぼやいてみせても、ラダマはさして興味を惹かれなかったらしい。
妙に改まった口調で、面倒なことを言ってきた。
「セージ君。今の話にはもっとも重要な点が抜け落ちていたように思われるが、どうかね?」
「なんだよ、重要なことなんて学校にないぞ」
「何を言ってるんだ。単に通学するんじゃなくて、クラスメイトの女の子を護衛しに行くんだ、と張り切っていたのは君じゃないか」
誰も張り切ってなんていないのだが、それを言うと余計に話が変な方向に広がりそうだったので、セージはあくまでとぼけることにした。
「そうだったっけ。上の言うこともコロコロ変わるからな」
「いやいや、確かに言ってたぞ。竜星の託宣を告げる巫女姫様を、怪しげな竜星カルトの魔の手からオレが守ってやるんだって」
「誰もそんなこと言ってないだろ。まさかとは思うけど、そんないい加減な話を触れて回ってるんじゃないだろうな」
「それはこれから決めるところだ。お前の答え次第だな」
「冗談だろう」
セージは全身で溜め息を吐く羽目になった。
「じゃあ答えてやるけどさ。はっきり言って何考えてるのか一番分からないのは、あの子なんだよ。本当に何も言わないんだ。オレだけじゃなくて、クラスの他の誰とも話そうとしてない。そりゃ親が竜星カルトの信者だったら大変だとは思うけど、だったら尚更もっと他の人たちと交流した方がいいんじゃないの。って思ってたら三年生の男子が出てきて、日本語でセンパイって言うんだけど、変な感じなんだ」
「変な感じ?」
「うん。変っていうか、知ってるのに知らない感じ。まぁ、それはオレの個人的な感覚あから、どうでもいいんだけどさ。とにかく、もう報告書には書いたけど、たぶんあのセンパイも竜星カルトだと思う。いざとなったら、そっちの動きも気にしないと。でも、そこまでオレ一人でできるかな。おい、ラダマ、ちゃんと聞いてるのか」
「もちろん、聞いてるとも」
わざとらしく何度も頷いてみせるラダマの影にセージは閉口した。
「本当かよ」
「うんうん、セージ君。今まで君から聞いた話の中で、今のはもっとも有益な話だった」
「なんだよ、それ」
「まさか君のガールフレンド候補に、既に別のボーイフレンドがいたとはな。こいつは見逃せない展開だ」
気づいた時には、今までで一番大きな溜め息がセージの口から出ていた。
「そういうの学校のクラスメイトとかと同じなんだよな。こっちが真剣に言ってることを全く斜めの角度で捉えて、笑い話にしてさ。なんなんだよって思う。こっちが何しに来たのかも知らないで、良い気なもんだよ」
「実際、知らないものは知らないだろうからな」
「知らないわけないだろ。自分たちの問題じゃないか。それなのに、何も知らない振りして、見なかったことにして、気づかないみたいにして、負担になるようなこと考えたくないって。でも、それなのにステファンは」
「なにか言ってたのか?」
「やるしかないって言うんだ」
「そりゃそうだろうな」
ラダマは憎たらしいほど事も無げに言った。
「結局、オレたちは自分たちにできることを、やるべきことをやるしかない」
「それは分かってるよ。でも、そういうこと言ってるんじゃないんだ」
セージは夜の闇に食って掛かった。
「だって勝手じゃないか」
「勝手?」
「そうだよ。追い出しておいて、まともに人の話も聞かないで、碌な扱いも受けてないのに、それでいざとなったらなんとかしろって滅茶苦茶だろ。自分たちの都合しか考えてないじゃないか。それなのに、どうして」
「じゃあ全部、止めて帰るか?」
「帰れるわけないだろ。だいたいどこに帰るって言うんだよ。みんながみんな、陸に家があるわけじゃないんだぞ」
セージは一息に言い切った。
対して、ラダマは何かを考える風に鼻を鳴らした。
「別に、この国の全員が全員、お前を歓迎してないわけでもないんじゃないか」
「そんなの分かるもんか」
暗闇と見分けがつかなくなった海の向こう。
沖合を南へ航行していく標識灯の数々が見えた。
「オレは、北半球の、東アジアの、それもお前やテルミの出身国のことなんて何も知らない。交通や観光の事情なんてもっと知らない。でも、それでもな。こんなオフシーズンに、ヨコスカからトーキョーなんて大した距離でもないのに、わざわざ水上バスを走らせるなんて、採算とれるのかって思うわけだ」
「それが何なんだよ。今の話に関係ないだろ」
「さぁな。だがな、セージ。トーキョーを実際に見てきて、自動車道も鉄道網も非常に発達していて、利用客が顕著に多いと言っていたのはお前なんだぞ。それなのにどうして、大して客もいない短距離の船便を走らせる必要があるんだ?」
「だから、そんなの」
そこで、セージはふと思い出した。
妙にフレンドリーに接してきた守衛の人。
わざわざ船の動力機関や推進機構を説明してくれた水上バスのクルー。
当たり前だと思っていただけで、他にもそういう人たちはいたのかもしれない。
「なんだよ、それ」
セージはラダマをヌクレオから追い出して、風防膜を閉じた。
「なんなんだよ」
少ない星が微かに瞬く夜に、船の影の上を、黒い竜は歩いていく。
「何も聞いてないぞ!」
急にデンゲイを動かしたので足元のラダマが文句を言っていたが、聞く気にもなれなかった。




