第2部 Tokyo Ophionids - 21 - ①
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スマホを見たら、今日という日に限って、父が早く帰ってくるという。
いつもなら嬉しい通知なのに、ナオは汗をかいていた。
クラスの子たちのせいで、何より布良セージのせいで、こんなことになってしまって
本当に嫌だった。
できるだけ急いで帰ったが、ナオが玄関の前に辿り着く頃には、軒先にライトが皓々と灯っていた。
暗くない家に帰るなんて何年振りかも思い出せなかったが、とにかく今はそれどころじゃなくて、玄関の鍵を開ける手間すら、もどかしく感じてしまったナオは開錠の音が鳴るのと同時に、靴を揃えるのも忘れてダイニングへ駆けこんだ。
「おかえり、ナオ。今日は遅かったんだね。ちょうど心配していたところだったんだよ」
出迎えてくれた父はジャケットを脱いだスーツ姿にターナーを片手に持って、エプロンを着けていた。
「今日はお父さんが晩ご飯つくるからね。こんな時間まで疲れただろう。ナオは休んでいいからね」
まだ家族が三人だった頃は、週末になると父が必ずご飯をつくってくれた。
母はそれにいつも怒っていたが、ナオは父のつくるご飯がおいしくて好きだった。
ナオはスクールバッグをリビングのソファに預けて手伝おうとしたが、断られてしまった。代わりに父はナオの背中を優しく押して、ダイニングの椅子を引き、座らせてくれた。
それに気恥ずかしさを感じながらも、どこか嬉しくて、ナオはフライパンにターナーを入れる父の背中を見ながら、キッチンから届く他愛のない話に相槌を打っていた。
それは、後から思い出そうとしても何を話したのか何も思い浮かばないくらい、なんでもない、どこでもあるような、ありふれた話題だった。
でも、ダイニングを照らすペンダントライトの明かりは日頃ナオが父を待っている時には薄暗く感じてしまうのに、今日はとても暖かく感じられて、ナオは足をぶらぶらとさせながら、ごはんが出来上がるのをゆっくりと待っていた。
「お待たせ、ごはん出来たよ」
父が料理をきれいに盛り付けたお皿をテーブルに並べて、ナオはお箸やお茶を用意した。
揃って「いただきます」を言って、父は例によって竜のお星さまへ祈りを捧げ始め、ナオはそれが終わるまで目をつむって待っていた。
それから二人で笑い合って、食事を始めた。
普段より少しだけ早い晩ごはんは、いつもより少しだけゆったりと、でもいつもと変わらず和やかに進んだ。
父は色々と話をしながらもお腹が空いていたのか、どんどんお皿を空けていったが、ナオはあまり箸が進まず、もっぱら父の話に頷いていた。
「そしたら珍しく事務所に教祖様がひょっこり顔を出したんだよ。それで、お父さんに言うんだ。最近ずっと遅いんじゃないか、セミナーのこともいいけど自分の体も大切にしなさい、って。お父さん、感動しちゃったよ。今まで働いてて、上の人からそんなやさしい言葉をかけてもらったことなんてなかったからね。やっぱりセミナーは良いところだよ。だから、そんなセミナーのために頑張りたいんですって言ったら、自分だけじゃなくて家族のことも考えろ、って怒られちゃって。でも、そう言われてみたら、急にナオの顔が頭に浮かんできたんだ。それでみんなに謝って、今日は早めに帰らせてもらったんだよ」
そうだったんだ、とナオが申し訳なさそうにしていると、父はかぶりを振った。
「いいんだ、いいんだ。ナオだって高校生になって色々忙しいだろうしね。それより、お父さん気づいたんだ。帰ってきて、部屋の中が真っ暗だと、こんなに寂しい気持ちになるんだって。お父さんはナオにいつもこんなしんどい思いをさせてたんだね」
ごめん、と頭を下げる父に、今度はナオが首を横に振る番だった。
「ありがとう。ナオは本当に良い子だね」
顔を上げた父は代わりに目尻を下げて、しみじみと言った。
ナオはそれにまた、できるだけ柔らかく笑ってみせた。
似たようなやり取りは今まで何度も繰り返してきて、ほとんど決まりきった形のものになっていた。
父はそれを憶えていないのかもしれないし、ナオだって全部を憶えているわけではなかったが、それでも二人しかいない家族には必要なものだと思っていた。
「ところで、ナオ、さっきからあまり食べてないように見えるけど。あまりお腹が空いていないのかい。具合が悪いのか。それとも、お父さんの料理、まずかったかな」
むしろ、さっきから食事が進んでないことを言われてしまう方が、ナオにとっては決まりが悪かった。
思わず父から視線を逸らしてしまい、良い言い方が何も思い浮かばなくて、咄嗟に「クラスメイトとお茶を飲みに行った」と言ってしまったが、少なくとも嘘ではなかった。
すると、父は驚きを交えつつ、嬉しそうな声をあげた。
「あぁ、そうだったんだね。友達とお茶しに行ってたんだ。いや、お父さん、そういうのはすごく良いと思うよ。ナオには前から、ずっと家のことを気にしてもらってるし、やっててもらってて、お父さんもすごい助かってるんだけど、それはそれとして、ナオにはもっと学生らしいことをしてほしいなって思ってたんだ」
父はそこで、はたと気づいた風に表情を一転して曇らせた。
「そうか、それじゃあお父さん、余計なことしちゃったな。せっかく友達と楽しんでたのに、お父さんが早く帰って来たせいで、ナオもゆっくりしてられなかったんじゃないかな。本当に悪いことをしたね。ナオ、今度から遠慮しないで、ちゃんと言ってね。家のことは心配しなくて大丈夫だから。お父さん、自分でもできるって知ってるだろう。それよりナオには、今だからこそできる青春を謳歌してほしいんだ」
曖昧な笑みで頷きながらも、どこか浮かない表情をしているナオとは裏腹に、父はまた頬を緩めていた。
「それにしても、ナオも花の女子高生だもんな。女の子同士でお茶会、スイーツを食べながら楽しくお喋りなんて、うんうん、お父さんとても良いと思うよ」
父のその言い方は少し気持ちが悪かったが、クラスに友達がいると言ってしまったのはナオだった。
二人は晩餐を再開し、ナオも意識して、できるだけ食べるようにしたが、やはりお腹がいっぱいなのはどうにもならなくて、ただ父はそれ以上なにも言わずに、自分の食事を続けながら以後も色々な話をしてくれた。
最近入ってきたセミナーの人たちとの面白い会話に触れたところで、父はわざとらしいくらい大きな笑顔をつくって言った。
「最近、教祖様に言われて、セミナーの外でいろんな人たちと会ってるんだ。特に、あのデンゲイの、共辰者の方々とたくさん話す機会を貰ってね」
日本ではなかなかお会いできない人たちだからね。
そう聞いた時、ナオは胸の辺りに小さな痛みを感じた。
「VVの好意なんだよ。国内ではまず共辰者に出会えないって言ったら、国際的な共辰者のオンラインミーティングに招待してくれてね。お父さん、共辰者の人と話したことなんてなかったから、何を言われるんだろうって少し緊張しちゃってたんだけど、蓋を開けてみたら全くの杞憂だったね。みなさん、本当に気さくで、紳士淑女の方々ばかりだったよ。本当なら、お父さんみたいな普通の人が、恵まれない境遇にいる生きづらい共辰者の方々に配慮しないといけないのに、かえってお父さんの方が気を遣ってもらっちゃったくらいだよ。とにかく、みなさん、どの方も本当に親切で良い人たちだったし、何より普通の人たちだったよ。変わったところなんて全然なかったな」
父は画面越しに初めて会った人たちの印象を語りつつ、ミーティングが国際色豊かな場であったと、ハワイやカナダ、ブラジルをはじめ、色々な国や地域の名前を挙げて説明してくれた。
「日本には長い間デンゲイの共辰者はいなかったけど、今は成瀬アケル君も居るし、世界を見れば、そういう仲間たちが大勢いるんだから心強いよね」
ナオもアメリカやイギリス、それにドイツ、フランス、イタリアといった有名な欧米の国は聞いたことがあっても、それ以外の国のことはよく知らなくて今一つ想像が湧かず、海の向こうの世界にはそういう人がたくさんいるのだと思えば、ナオが知っているそういう人は一人しかいなくて、その顔をつい思い浮かべてしまったのがイヤだった。
「共辰者の人たちも政府の圧力で他の仲間たちと実際に会ったりするのは難しいし、集まったりするなんて許されないらしいんだ。だから、V.V.を介してミーティングできるのは、共辰者の人たちからしても、かなりありがたいみたいなんだよね。V.V.は力があるから、政府の監視の目をうまいことかいくぐって、共辰者の人たちを支援してるんだ。そうして、共辰者の人たちは国内で一人でいても、オンラインで国外の仲間たちとやりとりして、自分の不安や悩みを聞いてもらったり、お互いに励まし合ったりしてるんだね」
ナオは今までと同じように、笑って相槌を打とうとした。
でも、上手に笑顔をつくることができなかった。
代わりに、脳裡に浮かんできたのは3階から見た夕方の海辺だった。
「それでね。もちろん組織なんて堅苦しいものじゃないから別にリーダーってわけじゃないんだけど、他の皆から明らかに慕われてるって感じの人がいてね。座長というか、まとめ役というか、いつも皆の中心にいるみたいな感じの人で、それで、その人がまたスゴいんだよ。本当に話が面白くてね。着眼点が良いし、発想もユニークで、表現だってなかなか思いつけないようなものがポンポンと出てくる。それでいて、さりげない気遣いもできる方でね。ミーティングの間は皆、その人の言葉に笑わせられたり、慰められたりしてたんだ。ただ、その人は顔に、なんていうかエスニックな仮面をつけてるんだよ。最初に見た時は、お父さんもびっくりしちゃったんだけど、ちゃんと理由を説明してくれてね。なんでも、その人が生まれ育った太平洋の、ポリネシアだったかメラネシアだったかインドネシアだったか忘れちゃったんだけど、とにかくその地域の文化を象徴する装身具なんだって。自分自身のルーツや民族に誇りを持っているから、他の文化の方に変に思われたとしても、恥じることなく正々堂々と身に着けて、胸を張って自分たちの文化を発信していきたいって、そう言うんだよ」




