第2部 Tokyo Ophionids - 13 - ④
「テルミが私にも見ておいてくれって言った理由がわかってきたわ。テルミはあのレポートのことを褒めてたのよ。自分で身の回りの問題に気づいて、自主的にリサーチを進めて、原因を推察し、改善策を提言する。表現や考察にまだ未熟な部分はあるけど上出来だ、って。きっと今まで出会ってきた色んな分野の研究者たちから良いところを吸収してきたんでしょうって言い方もしてた。私は専門外だったけれど、だからこそとても興味深くレポートを読ませてもらったわ。まさか、こんなにも早く、あなたから何かを教わる機会が来るなんてね。すごいわ、セージ」
「なんだよ、急に。そんなに大したものじゃないだろ」
セージは背筋にかゆいものを覚えて、身もだえした。
だいたい、テルミからそんなことを言われたことは今まで一度たりとも無かった。
「謙遜する必要はないわ。実際、あなたは良いリサーチをしたんだから。そのこと自体は評価されて然るべきよ。でも、だからといって、正当な手続きを無視して、立場や人間関係を利用した不当な手段を用いて良い、ということにはならないでしょう?」
「なんだ。褒めたと思ったら、お説教の前座だったってこと?」
セージは肩透かしを食らった気分になったが、おかしいと言えば明らかにおかしかったので、むしろ納得できてしまった。
「いい、セージ? あなたは自分の力で自身のデンゲイを宥めて、故郷の同年代の子たちが通う普通の学校に通ってるのよ。イヤな教師がいたって問題なく、友達をつくって上手くやっていけてるし、学校の植物が抱えている問題だって、あなた自身の才覚と努力で明らかにして見せた」
「それくらい、やろうと思えば誰だってできることだよ」
「いいえ。誰だって出来ているように見えることは、セージ、だからといって簡単なこととは限らないわ。こんなことはあまり言いたくないけど、共辰者の子なら余計にね。世界にはまだまだデンゲイと共辰してしまった人々を学校どころか社会から引き離しているところはいくらでもあるの。だから、あなたが、テルミや私とも関係なく、もちろん国連とも関係なく、あなた自身の力と意志でやっていけている。それはとても重要な意味をもつのよ。それなのに、あなたの言うとおりにしてしまったら、折角ここまで、あなた自身の工夫と努力でやってきたことの全部が水の泡になってしまうじゃない。自分自身の実績に自分で傷をつける必要なんて、日本式の言い方をするなら、モッタイナイでしょ」
「でも、テルミはさ」
「テルミだっていつも強引なやり方をしてるわけじゃないの。きちんと正規の手続きを踏んで、正当な手段で掛け合って、複数の方面から話を回して、何度試してみてもダメで、それでもどうしても通さなくちゃいけないという時に限って、初めて手段を選ばないことを考えるんだから」
「結局、同じ結果になるんだったら早い方がいいよ。その間、皆が苦しい思いをするんだったら尚更じゃないか。初めから思い切ってやっちゃった方が絶対に良いって」
「分かりやすい極端な変化に飛びつくのはお薦めしないわ。SNS映えするのはそうなんでしょうけど、そういうのに飛びついてくるのはその場だけ知ったかぶりするような野次馬でしかないんだから。次の話題ができたら、すぐに忘れてしまうような人たちよ。そんな人たちに向けて、いくらアピールしたって世の中は良い方向には変わらない。世界を本当に変えていきたいと思うなら、結局、地道な努力を続けていくしかないの。あなたは頭が良いんだから、少し考えればちゃんと分かるはずよ」
「そんな悠長なこと言ってら樹が枯れちゃうよ。それじゃ遅いから言ってるんだけど」
「あなたの心配はわかるし、身近な自然を大切にしたい気持ちも尊重したいと思ってる。でも、セージ、私はあなたを心配してるの。テルミを見てたら分かるでしょ。剛腕を振るえば、その分だけ人から反感や恨みを買うことになる。仮に、UNOPから学校側へ要請を出したとしても、それは、あなたの嫌いな担任教師の頭一つどころか校長まで飛び越すことになるのよ。そうしたら、その人たちの面子は丸潰れだし、責任だって問われかねない。そうなれば学校内でのあなたの立場だって悪くなるかもしれない。そういう覚悟はあなたにはあるの?」
「別に大丈夫だよ、そんなの。ずっとあの学校に通うわけじゃないんだからさ。竜星群が来たら、あぁ、いや、来なかったとしても、どっちにしろそれで終わりでしょ。まさか今更、日本に残れなんて言わないよね?」
セージが投げやりな言い方をすると、アイノは柔らかく微笑んだ。
「安心して。今のところそんな話は聞いてないから。UNOPがトーキョーの学校に何かを勧告するなんて話も聞いていないけど」
「じゃあ、もういいよ。自分でなんとかするから」
「そうね、そうした方がいいわ。今回の通学任務には、あなたにそういうことを学んでもらうという趣旨もあるんでしょうから」
「学校で一番勉強することになるのが他のどんな科目でもなくて、社会のしがらみだとは思わなかったけどね」
「私も、他の大人達も、一番勉強した科目よ」
アイノが事もなげに言うので、セージはもう乾いた笑いを立てるしかなかった。吊られて笑い出したアイノと一緒にひとしきり体を揺らすと、セージは気を取り直して言った。
「今度、用務員の人が出て来るらしいから直接交渉してみるよ。なんだったら仕事を手伝ってもいいし。ウッドワースから教わった剪定の仕方も役に立つかもしれない」
「なんだ、ちゃんと手配は考えてたんじゃない」
「仕事を進める時は想定される最悪のケースをケアする。それと、リカバリーが利くうちはミスじゃない、だっけ。テルミがいつも言ってるやつ」
「良く憶えてるのね」
「別にそんなんじゃないよ。でもイチョウの樹も、クラスのあの子も、このまま見て見ぬふりもできないからさ」
「なら聞かなかったことにしておくわ」
「そうしておいてよ。まぁ、樹はともかく、あの子の方はもうできることなさそうだけど」
「そう? 私にはそうは思えないけど」
「なに、アイノが代わりに話してくれるの?」
「そんなわけないでしょ。よく考えてみて。学校の中じゃ話しづらいこともあるってことでしょ。ギュウドン仲間の友達とはどうやって仲良くなったの?」
「そりゃ、牛丼食べながら色々話してさ」
「じゃあ、その子ともそうしてみたら? もちろん、ギュウドンも悪くはないと思うけど、もう少し女の子が喜びそうなオシャレなカフェでね?」
「あぁ、そういうこと」
言われてみれば、とセージは天井を仰いだ。それから、スマートフォンのウォレットを意味もなく立ち上げ、次いでポケットの中の物理的な財布を探った。
「まぁダメ元で試してみるのは悪くないかもね。たださ」
「なに?」
「さすがに、一日五〇〇円じゃどこにも行けないよ。牛丼だってちょっと足りないくらいだったんだからさ。この五〇〇円って金額、テルミが決めたんだろうだけど絶対テルミが若い時の物価だって。今時、日本円の五〇〇円じゃ何も買えないよ」
「だから、なんなの?」
アイノが眉をひそめてしまったので、セージも内心ばつが悪かったが、このままではどうにもなりそうになかったので、言ってみるだけ言ってみるしかなかった。
「だからさ、その、ちょっと日本円の現金を貸してよ」
「呆れた。何を言い出すのかと思ったら」
アイノは口を半開きにしたまま露骨に顔を背けて、ゆっくりとかぶりを振った。
「あなた一六歳になったんだから手当をもらってるんでしょう?」
「そのはずだけど」
「そのはずって?」
「艦でやってる分にはそんなに意識なんてしないからさ。全部自由なわけでもないしね。それに日本の店だと、いつも使ってる決済アプリが使えなくて困ってるんだよ。まだクレジットカードだって作れないしさ」
アイノはもう一度これ見よがしに溜め息をついてから、セージに向き直った。
「いい、セージ? 前にも言ったと思うけどお金の管理はちゃんとしなきゃダメよ。こういうことは学生の時からきちんとしておかないと」
「そういうのはまた今度聞くからさ。別に意味もなく散財しようって話じゃないんだ。学校から一番近い駅の複合施設に入ってる良い感じのカフェだって、ちょっと覗いてみたけど、一日五〇〇円なんかじゃ絶対足りなかったよ」
「なんだ、しっかり見に行ってるんじゃない」
「いつもアイノがカフェって言ってるからさ。気になって見に行ってみたんだよ」
「そう。ならいいけど。でも、だからといってそんな簡単にお金を借りるなんてダメよ」
すっかり態度を硬化させてしまったアイノも、そこで少しだけ留飲を下げた様子だったが、結局結論は変わらなかった。
「いやいや、二人分だよ。オレ一人で行くんじゃないんだ」
「驚いた。相手の分まで払うつもりでいるの?」
「こっちから話し合いの場をセッティングするなら、そうなるもんなんじゃないの?」
「なぁるほど。セージは学校で色んなことを学んでるみたいね。なら、最後まで自分の力でがんばってみたら?」
「なに怒ってんだよ。このプランを提案したのはアイノじゃないか」
「別に怒ってないし、提案はしたけど資金援助するとまでは言ってないから」
「ねぇ頼むよ。任務の遂行に必要だって思えば必要経費みたいなもんだろ」
「ならテルミにそう言えばいいじゃない」
「テルミに言いたくないから、アイノに言ってんるじゃないか。だいたいテルミは絶対に経費なんて認めないよ。協力してくれたっていいじゃん」
「イヤよ。というより私だって日本円は持ってないの。折角上陸したのにどこかへ食べに行ったり、遊びに行くような時間はなかったんだから。両替する暇もなかったのよ」
セージはわざとらしくそっぽを向いたアイノと、しばらくの間睨み合っていた。
このまま根競べを続けても良かったが、首を縦に振ってもらわないと困るのはセージの方だった。なにかしらの交換条件を持ち掛けるしかないと考え、スシのお土産でも差し出すべきかと思案しかけたところだったが、救世主は意外なところから現れた。
「ありますよ、日本円」
脇から急に口を挟んできたのは聞き覚えのある怜悧な声だった。
セージとアイノが揃って振り返ると、テーブルのすぐ傍に医療班のチーフが立っていた。
「マリア、あなた何時からそこに?」と目を泳がせながら問うアイノ。
「『イチョウの樹も、クラスのあの子も』の辺りからです」マリアは平然と答えた。
「そ、そうなの。もっと早く声をかけてくれて良かったのに。でも、どうして現地通貨を?」
「医薬品の買い出しがありましたから。当直を残して医療班全員で行ったのです。こういうことは出来るだけ大人数で一気に取り掛かってしまった方が効率は良いですから。人手は多いに越したことはありません。実際、一度の外出で済みました」
「そうだったの。作業が順調そうで何よりね」
「ですが、些細なこととは言え、問題点も残りました。両替した現地通貨が使い切れなかったのです。大部分は皆で行ったテンプラレストランの支払いにあてたのですが、それでもまだ少しあります。それも学生が一日デートするのにちょうど良いくらいの金額です」
「デートじゃない」「デートじゃありません」
異口同音にマリアの言葉を否定しながらも、セージは期待を込めて医療班チーフを見ていたし、反対にアイノはまたとない申し出を断ろうとしていた。
「マリア、とても素敵なニュースに聞こえるけど、でもそれは艦のお金でしょう。きちんと経理に戻さないと」
「問題ありません。これは私のポケットマネーです」
「どういうこと?」
「経費として申請しようとすると、ややこしいものもあるのです。この中途半端な金額ではUSドルにもAUドルにも戻すことはできませんから、共辰者が有効活用してくれるならそれに越したことはありません」
セージはささやかなガッツポーズをとったが、アイノはまだ抵抗を続けていた。
「ありがとう、マリア。でも、子どもの教育にあまりそういうのは良くないと思うの」
「もう子どもという年齢でもないでしょう。制限よりも経験が重要な時期です」
「それはそうかもしれないけど」
マリアの返す言葉にアイノは二の句を継げず、セージは深々と頷いた。
なまじロコラに乗ってからのまだ付き合いの短いマリアの方が、この間の夜間飛行のこともあってか、よっぽど今のセージについて良く分かっている。
アイノだって一度でもいいから、メラ・デンゲイと一緒に空を飛ぶ機会があれば、セージが幼い時分に比べてどれだけ変わったのか、すぐにわかるはずだった。
マリアは二人に滔々と告げた。
「私もかつてそうだったから分かります。悩める思春期の青少年には時に助けが必要です」
セージは小声で「財政金融措置」と付け加えたが、案の定アイノに睨まれてしまった。
「心配する必要はありません、アイノ。これは未来という資産形成、前途明るい未来世代への先行投資なのです。共辰者、これは寄付でもなければ施しでもありません。先日のフライト同様に、必ず成果を持ち帰ること。約束できますね?」
「期待に応えられるよう全力を尽くします」
国際的な競技大会に臨むスポーツ選手が宣誓するような態度と仕草をセージが示すと、マリアは貴重な笑顔まで見せて、すっかりご満悦の様子だった。
そして、医療班のチーフがさながらオリンピアの女神のように鷹揚な仕草で、ポケットから物理的な財布を取り出すと、セージは雰囲気を壊さぬよう、できるだけ恭しい態度でそれを受け取った。その間アイノはずっと苦々しい顔で腕組みをしていた。
「まったく、あなたたちは」
「別にいいではありませんか。青春の1ページを送らせてあげるくらい」
「なに、青春って?」
「だから、デートなんでしょう。クラスの女子と」
「だから」
デートじゃない。デートじゃありません。
重ねて異口同音に否定する年の離れた姉弟のような二人を見るマリアの顔には、不可解の一語が浮かんでいた。




