第2部 Tokyo Ophionids - 11
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料理の皿、というより丼が運ばれてきた時、セージは大いに戸惑った。
牛丼という料理が牛肉と玉ねぎを醤油ベースのソースで煮込んたものを米飯の器にかけたものだということは、物心つくかつかないかのうちに日本を離れたセージでも知っている。だが、更にその上にスライスされたプロセスチーズらしきものが載っているという事態は想定外だった。
隣の様子を伺っても、太田と細川は既に箸の先を丼に突っ込んで、中身を熱心に口の中へかきこんでいる真っ最中で、セージの当惑に気づく素振りもない。
もちろん、サンドウィッチのパンにチーズが挟まっているというのは日常的な光景だったが、米飯、それも醤油ベースのソースにチーズという状況は、ずっと海外、というより海上にいたセージには馴染みのないものだった。
だが、思い起こしてみると、以前、日本のオキナワへ行ったことがあるという船員からタコライスという料理について聞いたことがあった。
メキシコ出身の人々が北米に移り住み、そこから世界各地へ広まったというタコスは、薄く広げたトウモロコシ粉のパンを油で揚げた下地の上に、挽肉や刻んだトマトやレタス、それにチーズを載せて、サルサと呼ばれるスパイスソースをかけて食べるもの(もっともメキシコ人の船員に言わせれば、それはあくまで数あるタコスの一種類に過ぎないらしい)だが、タコライスはそうした具材をトウモロコシ粉の下地にではなく、ライスにかけたもので、食べた本人曰く、なかなか美味かったという。
いずれにせよ、それまでの自分の出自や経験によって、どれだけ目の前の料理が奇異に見えたとしても、現地の食文化は尊重しなくてはならなかった。
覚悟を決めたところで、また別の問題が浮上した。
どうにも箸の扱いに慣れないのだ。
四苦八苦するセージを見て、また二人はにやにやと笑っていた。
セージは憮然として、店員に声をかけ、スプーンを用意してもらった。
それから仕切り直しとばかりに目を瞑って、同級生のように丼の中身をかきこみ始めた。
意外と言うべきか、僥倖と言うべきか、ネガティブな感覚が込み上がって来ることはなく、あっという間に丼は底を見せた。
先に食べ終わっていた二人も、セージの食べっぷりに今度は無邪気な笑顔を見せた。
店員に一声かけてから、三人は店を引き払った。
帰り道、既に陽は沈んでいた。
内心わずかに心配していた自転車は無事だった。
セージがカギを外している間、太田も細川も待ってくれていた。
二人はこれから塾へ行って、まだ一年生なのに大学受験の対策をするのだと言う。
食べている短い時間の間に、辺りの光景は夕方から夜へと様変わりしつつあった。
急速に明度を落としていく街並みを見やりながら駅まで歩いていく道中、セージは二人と、他人が聞いたらどうでもいいような雑談を朴訥と交わした。
「そういえば」
ふと、大事なことを思い出したかように太田が言った。
「なに?」
自転車のハンドルを手で押すセージは振り返って先を促した。
「竜星群がどうとか担任が言い出した時、やたらと反応してたけど」
「あぁ」
どう説明したものか、セージは迷いながら日本語を組み立て、発音した。
「あんまり呑気なこと言ってるからさ。つい言ってやりたくなったんだ」
「なんでそんな風に思うわけ?」
「なんでって、それが今一番フォーカスされてるトピックだからだよ。SNSでもマスメディアでも、トーキョー方面に竜星群が落ちるんじゃないかって、来るとしたらどんな対応ができるのかって、少なくとも英語圏ではここ数ヵ月ずっと話題になってる。でも、当事国であるはずの日本に来たら、全然そんなことないみたいだね。なんか調子狂うよ」
「本当に来るって信じてんの?」
「信じる、信じないの問題じゃないよ。現在まで出てきている観測結果を検証していけば、大規模竜星群が落下する可能性は十分考えられる状態なんだ。これは有りか無しかの二進数の問題じゃないんだから、最悪の事態も有り得ると想定して」
「あんまりこういうことは言いたくないんだけど」
「なに?」
「やめた方が良いと思うよ」
「どうして?」
セージが何の気の無しに疑問を口にすると、太田はぽつぽつと喋り始めた。
そういう話をしたがる人はいるよ。思想つよめの大人たち。
ウチの担任だって似たようなもんだけどさ。
自分は正しいって信じ込んでて、いつもその話ばかりしているキショいヤツら。
だから皆、そんな話はしないし、そういう話をしている連中には近寄らない。
そっちだって、そんな風になりたくないでしょ。
「そりゃ、そういう困った人たちはいるかもしれないけど、でもそれだけで、自分たちが何も考えなくていい理由にはならないんじゃないかな」
「じゃあさ」
太田は溜め息をつきながら、そう言った。細川は黙って頷いていた。
「そもそも、そんな話したからって、ウチらみたいな高校生に何ができんの?」
「それは」
「結局さ、降ってくるんだか来ないんだか分かんないような変な隕石なんかより、絶対に来るって分かってる中間テストとか期末テストとか、二年後の大学受験とかさ、そういう方がずっとリアルな問題なんだよ。勝手に警報とか鳴らされて睡眠時間削られるどころか、見たかった番組とか配信とか潰されてさ。そりゃウチらみたいなのにとってはどうでもいいけどさ、上のグループの人たちからすれば、楽しい部活もできなくったりしたし、それどころか、ずっと楽しみにしてた修学旅行とか体育祭が中止されたら、ふざんけんなってなるんじゃないのフツーは」
「そういう、問題じゃないよ」
「そういう問題だよ。ウチらは青春時代の思い出とかそんなの諦めてるけど、そうじゃない上の人たちにとって一番の関心はそこだからさ。誰だってSNSにキラキラしたストーリー載せて、いっぱい承認されたいんだよ。こっちはまだ一年だから良いけど、二年の先輩とかバチキレてる人もいるみたいだし、良く思ってる人なんていないから。それなのに、そっちが竜星群がどうとか、あの担任と一緒になって言い始めたらさ、皆、不快に思うよ。何だか良く知らない、ワケわかんないものに、普通だったら、ごく当たり前にずっと続いていくはずだった平穏な日常を壊してほしい、なんて思ってる人いないんだよ。いや、海外じゃどうなのかなんて知らないよ。でも、どうにもできないのに不安だけ煽られたって、どうしようもないだろ。こっちの気も知らないで勝手なことばかり言われたら、誰だって良い気分しないだろ?」
太田は感情的になって声を荒げたりはしなかった。
細川も足元を見ながら、時折「うん」だとか「そう」だとか頷いて、静かに相槌を打っていただけだった。
全く想定していなかった観点から問題提議をされて、セージは純粋に困惑していた。
何と答えたらいいのか、すぐには何も思いつかなかった。
今まで国連職員や研究者たちがそんな話をしているところを聞いたことはなかったし、セージもまた他の大人たちとそんな問題点について話し合う機会を持ったことはなかった。
「まぁ、分かるんだけどね。そっちの言うこともさ」
言葉に詰まっていると、セージが落ち込んでいると思ったのか、太田はそう声をかけて来た。細川もわざわざ回り込んできて肩を叩いてきた。
こういう時にどう言うべきなのか、やはり分からず、セージは思わず空を見上げたが、高架と高層ビルの隙間に一番星すら見つけることはできなかった。
それからは、ぽつりぽつりと大して意味のある訳でもない話をしながら、三人で並んで道路を覆うように続く高架の下を歩いた。
二人とはモノレールの駅へ登る階段の前で別れた。
塾にはここから更に移動して通っているらしい。
クルマではなく、モノレールや鉄道といった公共交通機関の利用が一般的、というのは如何にも東京へ来たという感覚だった。
セージは一人、埠頭へ引き返した。
彼が水上バスに乗り込む時、既に海上は夜の帳に包まれていた。
日本には「秋の日は鶴瓶落とし」という諺がある、とテキストに書いてあった。
だいたい三週間前までいたケアンズでは少しずつ気温が上がり始める頃だったが、この蒸し暑い東京の九月は秋と言えるのだろうか。
気温や湿度はともかく、少なくとも天文学的には夏至を過ぎれば秋ではあった。
対岸の人工島や工業地帯が戴く東の夜空には、菱形の星々が濁った大気に揺れている。
それらの幽かな瞬きはぺガサス座だろうか。
全天の星座なんてとっくに身体が憶えているはずなのに、今一つ自信が持てないのは、見知った南半球の空に見える星々とはすべてが逆しまに見えるからだろうか。
未だ馴染まない北半球の夜の海を水上バスが爆音とともに進んでいく間、あるいは岸壁に見える橙色の灯光が後ろ髪も引かずに流れていく間、セージは一人、窓辺に映る自分の顔と自問自答していた。
揺れない陸地で一日の大半を過ごすのは良い。
生まれた日本の学校に通うのも悪くはない。
だが、最近はずっと己の半身である竜と共辰していない。
今はただ空を飛び、星の光を浴びていたかった。




