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第2部 Tokyo Ophionids - 8

 *


 数日後、ナオは担任の先生から呼び出しを受けた。

 言われた通り、放課後にバッグを持って美術準備室を訪ねると、美術教員の担任はオフィスチェアに浅く腰掛け、デスク上のPCモニターを見ながら「もう一人来るから」と、わかっているだろうと言わんばかりの態度であごをしゃくって、ナオにも待つように言った。

 何を言われるのか、というより何を言ってもらえるのか、薄々感じてはいたので、ナオはそのままカバーがかけられたイーゼルや、雑然と並べられた石膏を眺めていた。

 イーゼルの傍には小さなスツールがあったが、担任の先生は仏頂面でスマートフォンをいじったり、デスクの上の白い大きなモニターに向かっておしゃれなマウスを動かしたりしていて、特に何も言ってはくれなかった。

 ナオは立ったまま、数分ほど美術準備室を見学していた。

 やがて、〝もう一人〟がやって来た。

「こんにちは」

 遅れてやって来たのに悪びれもせず、準備室のドアを後ろ手に閉めた(微妙に隙間が空いたままだった。)転校生はナオを見て「やぁ」と独りで笑顔を見せると、例によって一方的に友好的な態度を先生にも向けて、ぬけぬけと言った。

「先日送ったレポートの件でしょうか?」

 担任の美術教師はそれには答えず、仏頂面で転校生に注意した。

「先生のところにやって来て、『こんにちは』はおかしいでしょ。普通は『失礼します』でしょ。ちゃんと言いなさい」

「何に失礼するんですか?」

 転校生が本当に分からないという風にきょとんとして言ったので、先生はこれ見よがしに大きなため息をついて、ナオは思わず笑い出しそうになった。

「だから、目上の人に対する声のかけ方としておかしいでしょって言ってるの」

「どこの国へ行った時も、人と会ったら挨拶の言葉を交わしてきました。ケアンズでもポートモレスビーでもウェリントンでも。スラバヤやペナン、ムンバイへ行った時だってそうです。だから、日本でも同じようにしています。人と会っても黙ったまま軽く頭を下げるだけ、というのはどうにも落ち着かなくて。何か問題が?」

「問題しかないでしょうが。常識で考えたらどうですか。日本に来たんだったら、ちゃんと日本のやり方に従いなさい」

 来て早々、転校生が先生と言い合いになっているので、ナオは内心おかしくて仕方がなかった。これなら先生もきつく言ってくれるに違いなくて、すっかり安心したナオはまた笑ってしまったりしないように表情筋を引き締めることに専念した。

「先生はホームルームで『日本は遅れている。海外のやり方を見習え』と言っていました。自分は先生の言うことを実践しているだけなのですが」

「そんなの、言い訳にしか聞こえないよ。だいたい先生が言っているのはそんなアジアの話じゃなくて、欧米先進国での話ですよ」

「なら、ヘルシンキやハノーバー、ブレストやポーツマスでもそうだったと言ったら納得してもらえますか。もちろんハリファックスやボルチモア、サンディエゴにロングビーチだって同じです。ついでに言えば、アンカレッジでも、ガラパゴスでもそうでした。自分は日本に長く留まることはないと思うので、また別の国へ行った時、日本式のやり方を変に思われたくありません。もっと言えば、ケアンズやウェリントン、それにポートモレスビーはアジアではなく、オセアニアです」

「いいんだよ、もう。そういうのは」

 先生が露骨に顔をしかめて、投げやりに言った。それはちょうど自分が思っていたことと全く一緒だったので、ナオは無意識に頬を緩めてしてしまった。すると、それを先生に目ざとく見咎められて「なに笑ってるんだ」となぜかナオまで怒られてしまった。

 それから、先生はパソコンのモニターを指して言った。

「それと、これもだよ。なんなの、これ」

 そっと横目で見てみると、モニターは横書きの文書ファイルが表示されていた。

 おかしなことに、そのファイルは二段組で日本語の文章と英語の文書が並べられていて、ナオの位置からは何が書いてあるのかまでは分からなかったし、知りたいとも思わなかったが、他にも転校生が昼休みや放課後に撮っていたと思しき校内の樹の写真や、気持ち悪い色の斑点がついた植物の写真がいくつも貼り付けてあって、更に、ここ最近の天気図らしきものや何かのグラフまで見えて、ナオは思わず後ずさりしたくなった。

 ところが、当の転校生は先生が何を言いたいのか全く気付かないでいるらしく、怪訝な顔つきをしながらも、さも当然のような口振りで答えた。

「なにって、レポートです。学校の植物を見ていたら不自然に枯れている樹木が幾つも認められたので調査を行いました。結果、この現象は季節外れの黄葉ではなく、近頃立て続けに東京方面へ上陸していた熱帯低気圧が海水を巻き上げたことによって、塩害が引き起こされた可能性が極めて高い、という結論になりました。このまま放置していては幹の形成層まで死んでしまうのではないか、と懸念しています。イチョウは絶滅危惧種ですから適切な処置が速やかに求められる、と。冒頭の概要(アブストラクト)にそう書いたはずです」

「あのねぇ!」

 先生はいきなり机を叩いて大きな声を出した。ナオは驚いて、びくりと肩を震わせてしまった。さすがに転校生も面食らったみたいだった。

「君たちはなんでそうやってフツーにできないんだよ!」

 ナオは初め聞き違いかと思った。

「二人でこそこそなんかやってるって情報はこっちにも入ってきてるんだ!」

 先生はもうほとんど怒鳴っているみたいで、ナオは顔を上げることもできなかった。

 頬が熱くなって俯いたまま、じっとして立っていた。

 それでいて、先生の口にした言葉が頭の中でぐるぐると回っていた。

「余計な仕事を増やしてばっかで何なんだ。ただでさえ、つまんない事務仕事ばっか積まれて忙しいっていうのに。ホント政治はなにをやってるんだよ。そんなんだから、いちいち私たちが声をあげてやらなきゃいけないんじゃないか。おかげでこっちはまともに制作の時間もとれやしないんだぞ。だっていうのに、君たちはなんなの。木なんかどうだっていいよ。どれだって一緒じゃないか。なんでもかんでも、こっちに持ってくるんじゃないよ。それどころじゃないんだ、こっちは。こんなの用務員にでも言っておけばいいでしょ。君たちも下らないことばっかりやってないで、ちゃんとフツーにしてなさい!」

「木は一緒ではないです。イチョウの野生種は絶滅危惧種ですが、人間が栽培種として世に広めたから現在も存続しています。そういった歴史を踏まえれば、学校の敷地内に植えられた樹だって大切に取り扱うべきだと思いませんか?」

 ありえないことに、転校生は感情的になっている先生に向かって抗弁し始めた。そんなことをされたら大人は余計怒り出すに決まっている。本当に無理だと思った。

「だから、どうだっていいって言ってるだろ!」

 案の定、先生は本格的に怒鳴り始めた。

「みんなができてることがなんでフツーに出来ないんだよ。余計なことばっかして、ホントにさ。高校生としてもっとフツーにしてろよ。常識を考えろって言ってんの。TPOをわきまえろってこと。他人に迷惑をかけない。他の人が不快に思うようなことはしない。社会で生きていく上でこれくらい当たり前のことでしょ。なんでわかんないかなぁ。もう子どもじゃないんだからさぁ。君たちはそこのところが全くできてないんだよ!」

 やっぱり聞き間違いじゃなかった。先生はナオを転校生と同じ括りで扱っていた。

 ありえないと思っても、大人の男性に怒鳴られている状況で何かを言えるほどナオは無神経ではなかったし、とにかく怖かったからバッグの持ち手をぎゅっと握って黙っていた。

 それなのに、何もしていないのに、先生の怒りの矛先はナオにも向かってきた。

「どうしてウチのクラスには、こんなのばっかりやって来るんだ。転校生はともかく、安海君なんて入学してからもうずっとこの調子じゃないか。どうしてさっさとクラスに溶け込めないの。なんでみんなと一緒に仲良くできないの。あげくの果てに、なんか昼休みにこそこそ何かやってるとか、他の子が他所で言い触らしたら、誰が責められるか分かってんの。他の子の保護者から何か言われるのは先生なんだよ。そっちの家庭の事情に踏み込むつもりなんてないけどさぁ。竜子場の影響を受けた子じゃないかって言われて、毎回毎回、苦しい言い訳考えなきゃいけないこっちの身にもなってよ!」

 ショックだった。

 お母さんに殴られた時みたいに頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなった。

 怒ったらいいのか、悲しめばいいのか、分からなくてナオは泣きそうになった。

 その時、また口を開いたのは転校生だった。

「関係ありません」

 転校生の口調はこれまでの一方的に友好的なものとは打って変わって冷ややかだった。

「竜子場が、いえマナが人間の肉体や精神に異常をもたらす、というデマゴーグは竜星群後の時代(アフターオピオニズ)初期から世界中に広がっていますが、長期にわたる大規模な調査の結果、これらは全て否定されています。国連竜星群機関《UNOO》が取りまとめた最終報告でも竜子場が人体に対して中長期的な悪影響を及ぼすことはない、と明言されているんです。だからこそ、UNOPは竜子場という言葉が本来の学術的な意図から離れて帯びてしまったネガティブなイメージを払拭するためにも、マナという、当事者である共辰者側の立場へ寄り添った呼称へと変更するべきだと提言しています。それはともかく、科学的手法によって既に十分な知見が得られているにも関わらず、偏見を是正するどころか、竜星群の被害を受けた人々に対して竜子場の影響を受けている、などといった典型的な風評被害が後を絶たないことについて、国連機関は明確な差別行為であり、人権侵害に当たる、と声明を発表しています。況して(マッチモア)、クラスの雰囲気に馴染まないからと言って、竜子場の影響を受けているだなんて誹謗中傷を行うことは明瞭(はっきり)と否定されるべきです」

「いいんだよ、そういう専門家ごっこは!」

 先生が大きな声で転校生の言葉を遮った。その言葉自体はナオも同感だったが、もう気楽に頭の中で頷いていることはできなかった。

「君はね、政府の言いなりになってるマスコミの言う事を鵜呑みにしてるだけなんだよ。真実を知らないし、知ろうともしない。だから、そうなるんだ!」

「マスコミではなく、国連機関による学術的な調査と研究の結果を言っています。そもそも、どこの発表であったとしても人権侵害が許容されて良い筈がないです」

「だから、そういうのはいいって言ってるだろ。いちいち言い訳するな!」

 先生がまた怒鳴って、ナオは本当に耳をふさぎたくなった。

「だいたい、だったらデンゲイとかいう化け物はどうなるんだ。どうせ考えたこともないんだろうけど、あれだってNATOが極秘で開発した天体兵器だって疑惑があるんだよ。政治権力に支配されてるメディアは報じないけど、海外では有名なんだ。竜星群だって本当に自然災害かどうか分かったもんじゃない!」

「そんなことを言っているのは英語圏でも、ごく一握りの陰謀論者か、デマゴーグに扇動された人たちだけです。だいいち、NATOに属していないユーラシアの国々もNATO側と同じように、デンゲイやその共辰者を公に認めて『保護』したり、場合によっては」

 転校生はそこでわずかに言いよどんだ。

「破壊したりしています」

「そう、それだよ。デンゲイの共辰者。NATOは新兵器で人体実験をするために、人身売買をやってて、貧しい国の子どもたちが犠牲になってるんだ。君らはね、そういう世の中の現実を知らないから、そんな口を利いてられるんですよ。わかったか!」

 勢い込む先生に対して、転校生はいかにも呆れたような溜め息を吐いた。

「わかりません」

「いい加減にしろ。なんなんだ、その態度は!」

 先生は激昂して、机を何度も叩いて叫んだ。

 ギスギスどころではない最悪の空気で、どうしてナオがこんなことに巻き込まれなければいけないのか、わからなかった。

 ナオは関係なんてなかった。転校生が勝手に一人でやっていただけだ。

 それなのに、いつの間にか二人でやっていたことにされていて、本当に悲しかった。

 でも、それを言い出せる雰囲気なんかじゃなかったし、もうこれ以上、悪く言われたり、怒られたり、怒鳴られたりすることに巻き込まれたくなかった。

 ナオはたすけてほしかった。

 だれでもいいから、なんでもいいから、この状況からナオを救い出してほしかった。

 先生と転校生が口論したいなら勝手に、ナオの知らない見えない聞こえないどこか別の場所で勝手にやっていてほしかった。

 どうしてナオがこんな思いをしなくてはならないのか、わからなかった。

 どうしてこんなイヤなことばかりが起こるのか、わからなかった。

 どうして誰もたすけてくれないのか、わからなかった。

 だったら、もう。

 全部なくなってしまってほしかった。

 本当に、もうすぐ竜星群が降ってくるっていうなら。

 今すぐにでも降って来て、全部おわりにしてほしかった。

 なにもかも、全部こわしてしまってほしかった。

 ナオはバッグの持ち手を、ずっと握りしめていた。

「これ以上、非科学的な陰謀論について議論するつもりはありません」

 転校生は強い口調でそう言った。

 先生が感情的になればなるほど、転校生の態度はより冷淡なものになっていったが、そういうところが先生の神経を余計に逆撫でしているのは明らかだった。

「こちらがお願いしたいのは、傷ついた植栽に対して適切な処置をとるよう、学校の上層部に話を通していただきたい、ということだけです。先生がお忙しいなら、仲介だけしていただいて、後の交渉はこちらでやります」

「だから、わかったような口を利いている暇があったら、ちゃんと世の中のことを、社会の仕組みを勉強しろって言ってるんだろうが。子どもだからって、なんでもかんでも先生に言えば良いわけじゃないってことくらいわかれって言ってんの!」

「既に用務員の方へのコンタクトは試みています。しかし、最近はあまり学校に来ていないと聞きました。会うことすらできない状態です」

「そりゃそうでしょ。コストカット、学校経営の合理化って言って、人を減らされて、本来なら用務員がやるようなことまで、こっちはやらされてんだから!」

「なら、植栽の管理は誰が担当しているんですか?」

「知るか、そんなもの!」

 先生は怒鳴ると、極めて苛々した様子でモニターに向かって激しくマウスを動かして、転校生が出したと思しき文書ファイルを削除した。

「どうせ竜星群が降って来たら、全部なくなって終わりなんだよ。バカで無能な愚かな政府のせいで、この国はもうおしまいなんだ。だからお前たち、それまでもうこっちに問題を持って来るな。仕事を増やすな。二度と余計なことをするな、わかったか!」

 ナオと転校生は呼び出されたはずなのに、怒り狂った先生に美術準備室を追い出された。

 ほとんど入れ替わりのようにやってきた別の美術担当の先生が、沈痛な面持ちでいるナオと転校生を訝しげに見比べていたが、もう何も思えなかった。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 ナオは頭の中を真っ白にしたまま、おもむろに歩き出した。

 歩いている間、ずっと誰かに話しかけられているような気がしたけど全く耳に入らず、ただ今にも泣き出したい気分に駆られながら歩いていた。

 そして、靴箱までやってきたところで、声は言った。

「ちょっと自転車を取って来るから待ってて。今、話したみたいに、マナ、というか竜子場の影響がどうとか、そんな誹謗中傷なんて気にする必要ないし、あんまりひどい状況が続くなら然るべき場所へ通報した方が良い。この国の窓口がどこなのかは知らないけど、知人に訊いて信頼できる機関を紹介することはできると思うよ」

 ナオはそこでやっと我に返った。

 そして、ずっと転校生がついてきていたことに気がついた。

 初め、ナオはどうして転校生が一緒にいるのか分からなかった。

 それくらい、ナオは気が動転していた。

 でも、次の瞬間、頭に浮かんのだのは。

 他のクラスメイトの胡乱な視線。ヒソヒソと交わされる噂話。

 もし、誰かに見られたら。

 きっとナオはまた何か言われてしまう。

 そしたら、また先生はナオを呼びつけて怒り出すかもしれない。

「それから、デンゲイと共辰者のことなんだけど。国連竜星群機関(UNOO)には適切な情報共有プログラムがあるんだ。もしよかったら是非見てみてほしい。本当はクラス、というか学校の人たち皆に見てもらいたいくらいなんだけど」

 もうこれ以上、転校生と一緒にいたくなかった。一緒だと思われたくなかった。

 だいたい、デンゲイだとか共辰者だとか、そんな話をよりにもよって今、転校生なんかの口から聞きたくなんてなかった。

 ナオは駆け出した。

「あっ、ちょっと待って!」

 転校生が驚いても、ナオは一切振り返らず、必死に走り続けた。

 校門を抜けた辺りでもう息が上がってしまって走ることができなくなっても、少しでも転校生から離れようと、脇目も降らずに早足で駅まで歩いた。

 地下鉄の改札へ続く階段は真っ暗だった。

 電車が行ってしまった後なのか、ナオの他には誰もいなくて影も見えなかった。

 あっという間に走り過ぎてしまった街は夕方でもまだ少しだけ明るくて、ささやかな数の街灯が少しずつ点き始めた頃だったが、それはナオとは関係のない世界のことだった。

 ナオは一人、階段を下りて行って、自分の荒れた息遣いだけが聞こえた。

 暗闇の中でも、学校にいるよりはずっと安心できた。


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