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第2部 Tokyo Ophionids - 4

 *


 ナオにとって、学校はますます煩わしい場所になった。

 転校生は毎朝ナオとだいたい同じくらいの時間に教室へやってきて、必ず挨拶してきた。

 ナオはそれを毎回無視したが、転校生は気にする素振りもなかった。

 気にする必要もなかったのだろう。

 他のクラスの子たちは当たり前に転校生と挨拶を交わすようになっていた。

 先生たちもいつのまにか転校生の存在を当たり前に思っているみたいだった。

 入学してから半年も経っているのに未だにクラスに一人でいるナオと、転校して来て間もなく自分だけの立ち位置を確保してしまった転校生。

 登下校以外ではほとんど日の光に当たらず、いかにもおとなしそうなナオと、日焼けしていて、いかにも活発そうな雰囲気な転校生。

 国語や日本史はそれなりに得意でも、数学や物理化学、それに体育なんてやりたくもないナオと、日本語の文章を読むことは苦手でも理数科目や体を動かすことは得意な転校生とでは何もかもが正反対で、対照的だった。

 本来だったら、全く縁のない、関わり合いになることはない人同士だった。

 別に、自分と全く違う人間がいること自体はナオだって否定はしない。

 というより、他の人のことなんて別にどうでもいいし、興味もない。

 そういう人たちがどこか別のところで、勝手に騒いでいるなら好きにすれば良い。

 ナオには関係ないし、関わるつもりもない。

 ただ、うっとうしいので近くに来てほしくないだけだ。

 わざわざ隣の席に座ってほしくないだけだ。

 それなのに。

 休み時間になったらクラスの子たちは転校生と話し始めたりして、ナオの席の周りに人が集まって来てしまうことになってしまった。

 普段はあれだけ序列にこだわって、クラス内の暗然としたグループ分けにも敏感なくせに、国語も日本史も全然できない転校生には〝一軍〟の人も〝二軍〟の人も普通に話しかけるようになっていて、そこだけ緩衝地帯になっているみたいで、なんだかおかしかった。

 でも笑ってばかりはいられなくて、そうやって転校生の席の周りに人がいると、ナオはスマートフォンを見るフリをしてやり過ごすこともできないから、通話がかかってきた風を装って教室を出てしまうしかない。(時々、本当にセミナーの人からかかってきたりはするから、あながち嘘でもない。)

 ただでさえ学校なんて憂鬱な場所なのに。

 転校生が隣に来たせいで、信じられないとばっちりを受けている。

 ナオはただ静かに毎日を過ごしたいだけなのに。

 お昼休み。ナオはさっさと教室の喧騒を後にして、廊下へ出てしまう。

 前からそうだったけれども、教室はいよいよ気を休められない場所になってしまっていたから、彼女はとにかく人の流れを避けながら校内を歩き続けて、校舎一階の外れにあるテラスへ出た。

 そこはすぐ近くに大きな木が植えられていて、落ち葉も少なくない場所だった。

 ベンチもあるにはあったが、風雨に曝されてあまり清潔には見えなかったし、泥や砂が絡んだ落ち葉がたくさん載っていて汚い感じがするし、最近はコンクリートの地面に落ちた実の匂いがひどくなってきて、お昼休みのテラスだというのに、人がいない理由も分かってしまうというものだった。

 九月だからまだ気温は30度を超えていたし、時折吹く風はジトジトしていた。

 いつも長袖の制服を着ているナオからすれば、本当なら一秒でもこんなところに長居はしたくない。屋根も壁もエアコンもない屋外みたいな場所なんて絶対に嫌だったが、さりとて他に他の誰かの声や視線を感じずに済む場所があるわけでもない。

 結局、学校で一番落ち着ける場所なんて、ここぐらいしかなかった。

 ナオはできるだけ日陰に入ったベンチへ歩み寄ると、その上から落ち葉を手で払って、ハンドタオルを広げて座った。膝の上に自分でつくったコンパクトなお弁当箱を広げた。

 すると、空から小鳥たちが降りて来る。最近はすっかり憶えてしまったみたいだった。

 ナオは、お弁当とは別に用意して来たパンの切れ端を撒いてあげる。

 そうすると、小鳥たちはよちよちと地面を歩いて、ナオの足元までやって来る。

 パン屑を啄む小鳥たちを見ているご、いつの間にか肩の辺りが軽くなっている。

 ナオはそっと息を吐いた。

 日差しはきつく、どこか土の匂いがするこのテラスを見つけてからというのも、ナオは昼休みになると、色々なことを我慢しながら、ここで一人の時間を過ごしていた。

 でも、そんな束の間の休息も今日までだった。

 ガラス扉がスライドする音がした。

「へぇ、こんなところがあったんだ。うわ、落ち葉が結構あるんだな」

 素っ頓狂な声と共に、誰かがテラスへ出て来る気配がした。

「そうか、東京にはまだ温帯落葉樹林のバイオームが残ってるんだ」

 小鳥たちが一斉に飛び立っていった。

「Hello. ここにいたんだね」

 転校生が屈託なく笑って言った。

 どういう風の吹き回しなのだろう。

 テラスへやって来てナオの静かな時間を破ったのは、あの転校生だった。

 お弁当に蓋をして、立ち上がりかけていたナオは相手と目が合ってしまって、嫌な思いをしたが、転校生は悪びれることなく片手を挙げて、気さくに声をかけてきた。

「良いところだね。そりゃAC(エアコン)が利いてる部屋の中は快適だけどさ。こういう、その土地ならではの植生を見ながら時間を過ごすっていうのも悪くない選択肢だよね」

 ナオは新しいテラスの利用客を視界に入れないように努力した。

 転校生なんて、今もっとも会いたくない相手だった。

 というより、ほとんど転校生のせいでナオは教室の自分の席にいられなくなったようなものなのに、どうしてここでの静かな時間まで転校生に乱されなくてはならないのだろう。

 そう思ってしまったら、急に腹立しく感じてしまう自分を抑えられなかった。

 父もセミナーの人たちからも汚い言葉を使うと心が汚れるとずっと言われてきたが、それでも転校生をわずかに「ウザい」と感じてしまった。

 だが、当の転校生はそんな彼女の内心など露ほどにも知らない様子で樹の根元に近づくと、落ち葉の一枚を拾って一瞥してから樹を見上げて言った。

「これ、もしかしてイチョウの樹? 珍しいんじゃない?」

 ナオは勢い良く座り直し、無言でお弁当箱を開けた。

 転校生の言葉は無視した。

 元々、誰かが来たらナオはさっさと場所を明け渡して、どこか別のところへ行くつもりだったけれども、今はもうそんなことをする気にはなれなかった。

「ケアンズには一本もないんだよ。そりゃシドニーまで行けば生えてるんだけどさ。でも、数が減ってる、ってウッドワースが言ってた。東京にはまだいっぱいあるのかな」

 知らない。興味ない。どうでもいい。

 そんなことより、さっさとここからいなくなってほしい。

 だいたい樹なんて、いちいち気にしたことない。

 どれも全部一緒にしか見えないし、それを知ったからといって何か変わるわけでもない。

 セミナーのお手伝いで、フラワーショップに何回も行ったことがあるから、贈呈用や献花用の花の名前なら幾つか知っているけど、でも、それだけだ。

 道端に実際に生えている植物のことなんて気にしたことない。

 もっさりとしていて、鬱陶しいし、虫がいそうで、わざわざ関わり合いになりたいとは思わない。誰だってそうだし、そんなことを気にするのは一部の奇特な人だけだ。

 フツーじゃない人だけだ。

 転校生はナオの答えがないことなんて全く気にしてないみたいだった。

 指と指の間でイチョウの葉柄をくるくると回しながら、転校生はナオの傍までやって来ると、「ここ、いいかな?」と訊いてきた。

 ナオは当然、返事をしなかった。

 転校生は何も言わず隣に座ってきた。

 ベンチに載っている落ち葉や砂も避けようとはせず、いきなりスラックスのお尻をつけてしまって、ナオは他人事ながら思わず顔を顰めてしまいそうになった。

「ウッドワースって、子供の頃、カリマンタン島へ行った時に知り合った植物学者なんだけどさ。その時、言ってたんだ。イチョウって、ニューヨークにも北京にもベルリンにも、それこそ東京にも当り前に植えてあって誰も気にしてないけど、裸子植物のかなり古い系統の種なんだって。いつだったっけな。たしかペルム紀、古生代の末期だから、約3億年前ってところかな。イチョウはそれくらい昔に地上に現れた植物で、ほとんどの元の姿のまま現代まで『生きている化石』なんだって。中生代の地球全体がもっと温暖だった時代には世界中、色んなところに生えてたみたいなんだ。氷河期に入ってからは気候変動の影響でほとんど絶滅しちゃったらしくて。国際自然保護連合《ICUN》は今でも野生種のイチョウを絶滅危惧種に指定してる。実際、世界中の街に植えられているイチョウも、もともとは中国東部に唯一残っていた種を燃えづらいからとか見栄えが良いとかいう理由で、人間が寺院やストリートにあちこちに植えていった結果、海を越えて増えてったものなんだってさ。絶滅の危機に瀕していた生物種が人間によって世界中に分布するようになっていったっていうのはかなり興味深い事例だと思うよ。逆の例はいっぱいあるけど。まだ生態系保護とか生物多様性とか言い出される前の話なんだから、なおさらね」

 そんな風に訊いてもいなければ聞いてもいないことを勝手に喋り続けながら、転校生はランチボックスからサンドイッチを取り出して齧りついた。そして、食べながら更に好き勝手に話し続けた。

 そういえば、そこら辺に落ちてるのって、たしかギンナンって言うんだっけ。食べられるんだっけ。ちょっと匂いは、なんというか少し個性的だけど、きっとおいしいんだろうね。そういえば、イチョウと同じ裸子植物だけど針葉樹じゃないっていう近い系統に、熱帯辺りに良く生えてるソテツがあるけど、あの種も幹や実にデンプンが豊富で、時間をかけてちゃんと加工すれば食べられるって聞いたことがあるな。そっちの味はどうなんだろう。食べたことある?

 転校生は話の終わりにナオへ問いかけてきたが、彼女は全くそれを無視して、残り少なくなったお弁当に視線を落としたままにしていた。

 転校生は相変わらず気にもしないでお喋りだった。

「それにしても、イチョウとソテツって系統が近いと言われても、分子生物学的にはそうなんだろうけど、見た印象はだいぶ違うね。ソテツは常緑樹で、いつ見たって大きく変わりはしないけど、イチョウは今みたいに黄葉するし落葉もする。この樹も今は半分くらい色が変わってるけど、もう少ししたら全体に広がるんだろう。折角だし見てみたかったな」

 そうして、転校生はしげしげと樹を眺めていたが、ふと何かに気づいた様子で、急に立ち上がって「待てよ」と呟いた。

「今はまだ9月だろう。なんでこの樹の葉はもう黄色くなってるんだ?」

 言うなり、転校生は木に近づき始めた。右手のスマートウォッチを見ながら、もう一方の手で幹に手を当てて、樹冠を見上げ、ぶつぶつと独りで何かを言っている。

「平均気温は30度前後だ。朝でも夜でも10度を下回ることはない。地球温暖化の影響で、二十世紀に比べると落葉樹の落葉時期が遅くなっているって論文(ペーパー)は幾つか読まされたけど、これじゃ全く反対だ。それとも、逆に落葉が早くなるっていうケースを取り上げたリポートがあったっけ。春と夏に光合成をし過ぎて土の中の養分を使い果たしてしまうと光合成ができなくなって、余分な光エネルギーが活性酸素を生み出し、葉の老化を早めてしまうっていう。でも、数か月単位で早くなるようなものではなかったはずだし、だいたい竜星群が降り始めて(アフターオピオニズ)からは温暖化のモラトリアムで……」 

 転校生のおかしな言動をナオは尻目に見ていた。

 実の匂いが強いところにわざわざ近寄っていくなんて、ナオだったら絶対にしたくなかった。しかも、意味の分からない独り言を呟きながらなんて尚更だ。

 でも、転校生はナオの胡乱な視線には全く気付かず、梢の先に手を伸ばしていた。

「葉が黄色くなるメカニズムはどうだったかな。確か葉緑体のクロロフィルが分解されて、緑の色素が薄くなった結果、黄色い色素が後に残るんだったっけ。でも、この葉の色はどうなんだ。シドニーで見た時は、もっと鮮やかだった気がする。だとしたら、これは黄葉してるというよりは枯れてるだけなんじゃないか」

 ナオはやっとお弁当を食べ終わって、顔の辺りをタオルで扇いだ。

 元から少食なのでお弁当箱も小さな物を選んでいるのに、ナオは食べるのにも時間がかかってしまうタイプだったから、まとわりつくような暑さの中で、少なからず汗をかいてしまうのが大変だった。どうでもいいよかったが、転校生はまだ一人で何かを言っていた。

「葉の一部だけが変色して斑になっているわけじゃない。ペロスタチア病やカビの類じゃなさそうだ。葉が黒ずんでいないし、穴が開いたりしてるわけでもないから炭疽病(アンスラクノス)の線も薄い。ウッドワースは他に何て言っていたっけ。いや、そもそもイチョウは頑丈な樹なんだろう。そう簡単に病気にかかって枯れてしまうような植物だったら世界中で街路樹に選ばれてはいないはずだ」

 ナオはお弁当箱の蓋を締めて、手持ちの小さなバッグにしまった。

 日差しが鬱陶しいテラスから一刻も早く離れてしまいたくて、ナオは立ち上がった。

 転校生はまだ樹を見上げていた。でも、それはナオには関係ないことだった。

 ガラス張りのスライド式ドアを後ろ手に締めて、外から校舎の中へ戻って来た時、ナオは思わず安堵の溜め息を吐いた。

 スマホを見ると、教室へ戻るにもまだ時間は早かった。

 セミナーの人は校内にもいて、SNSでメッセージを送って来る。それに手早く定型句で返信しながら、ナオは廊下をゆっくりと、時に立ち止まったりしながら、時間をかけて教室まで歩いて行った。

 ナオがクラスの前までやって来たのは、ちょうど電子音声の鐘が鳴る直前のタイミングだった。クラスメイトたちはガタゴトと机や椅子を動かしながら、自分の席についているところで、ナオはその慌ただしさに紛れるように自分の席へ戻った。

 転校生は先生が来る直前に滑り込むように走って帰って来て、周りの子たちから「どこ行ってたの?」と訊かれて、笑って誤魔化していた。

 ナオは素知らぬ顔で教科書とノートを整えていた。


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