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第2部 Tokyo Ophionids - 3

 *


 英語の授業の日。外国人教師が教壇に立って、授業の始まりから終わりまで英語で話すことを強いられるタイプの嫌な授業。

 ナオは朝から憂鬱だった。ナオだけでなく、クラスの子たちもきっと。

 この授業では毎回あらかじめ指名されていた生徒が三分間のスピーチをしなくてはならなくて、ただでさえ人前で話さなくてはならない上に、慣れない英語を話して笑われたりすることも考えると、ナオはこの授業が一番嫌いだったし、おそらくこの点に関してだけはクラスの他の子たちとも意見が一致していると思う。

 別に英語なんて話せなくたって、この国では何の不自由もしない。

 今のご時世、海外旅行なんて簡単にできるものではないし、できたとしても外国に行きたいなんて思わない。家を何日も空けるなんて想像しただけで目眩がしそうだったし、実際ナオは小学生の時も中学の時も、一度も遠足や修学旅行に参加しなかった。

 別に外国語なんて出来なくたって、困ることなんてない。

 誰だってバカにされると思っているから口にこそ出さないだけで、英語だろうと中国語だろうと勉強したって役に立たない、と本当はみんな知っているはずだ。

 それは別に語学に限った話じゃなくて、勉強自体、どれだけやったって何の意味もない、ムダなものだった。みんなわかってはいるけど、それが世の中の風潮だから、誰にも言い出せない、誰にも変えられないだけのものでしかない。

 どうせ、竜のお星さまが頭の上に降ってきたら。

 どれだけ勉強していようと、いくら真面目に働いていようと全部、無意味だ。

 竜星群は世の中の嘘を全て壊してしまう。

 それなのに、チャイムが鳴って生徒はそぞろに席へついて先生はやってくる。

 学校で、本当のことに気付いているのはナオだけみたいだった。

 そして、その時も外国人教師はいつものように少し遅れて教室へ入って来た。

 転校生のことは聞いていたらしく、ルーチンワークと化した英語での始礼の挨拶を終えると、外国人教師はナオの隣の席に座った生徒と気軽な英会話を始めて、すぐに予定を変更して、彼に自己紹介を兼ねたスピーチをするように言った。転校生は初め気乗りがしない様子だったが、教師に強く奨められて、渋々ながらも引き受けざるを得なかったようだ。

 その様子を見て、クラスの少なくない子たちが意地悪く、ほくそ笑んだ。

 今日スピーチするはずだった子は面倒なことが先送りになったことで胸をなでおろしていたし、他の子たちは笑いやイジりの対象を見つけたと内心喜んでいるのが分かった。ナオだって転校生の慌てふためく姿を想像していた。

 いくら帰国子女と言ったって、いきなり言われて3分間もスピーチなんてできるはずもない。教壇の上に立ってクラスの皆の前で話すなんて日本語でだって出来ない子はいるだろう。それに、海外で暮らしていても日本語学校に通っていたから現地の言葉は全く話せない、という帰国子女の子は実際にいたのだ。

 クラスの皆が様々な期待を込めて見守る中、果たして転校生は流暢な英語で3分間の自己紹介どころか10分以上の講演会(スピーチ)をやってのけた。

 語学には全く堪能でないナオからしても発音が滑らかだということはわかったし、それには生徒たちどころか外国人教師でさえ、その英国風(BBC)発音に舌を巻いている様子だった。

 転校生はそんな皆の当惑を他所に、不自然なくらい簡潔な自己紹介の後、妙にリラックスした雰囲気で、彼が幼い頃からずっと見てきたという「海」について語り始めた。

 彼が乗って来た船の出航地、ケアンズの沖合にあるグレートバリアリーフ。

 スノーケリングやダイビングで垣間見た美しいサンゴ礁の光景と、そこに住まう色とりどりの小さな生き物たち、ウミガメやイルカの数々。豊かな生態系と激しい生存競争。

 西海岸のパース郊外にあるシャーク湾では生きる化石とも呼ばれるストロマトライトを見た、と転校生は滔々と語った。

 光合成を行った最初期の微生物とされるシアノバクテリアが昼間は光合成を行い、夜間に砂や泥の上に増殖して広がっていき、層状の岩を成していく不思議な光景を目の当たりにして、地球が現在の形になるよりずっと前から続いている生命の営みに思いを馳せた。それと同時に、生物と非生物との間について考えさせられた。

 インドネシアの小さな島を訪れた際には、2m以上にもなる巨大なトカゲ、コモドドラゴンを見かける機会に恵まれた。海によって大陸から隔てられた小さな島々では他の地域では見られない珍しい生態系が発達することがしばしばある。ダーウィンが取り上げたガラパゴス諸島が世界的には有名だが、例えばニュージーランドでは大型の肉食哺乳類が生息していなかったため、モアのような大型の鳥類が繁栄していたし、モーリシャスにはドードーがいた。残念ながら、自分たち人間が狩り尽くしてしまったので、今はもう会うことは出来なくなってしまったけれども。

 ともかく、海はよく生命の源と言われるし、実際、現在の陸上生物は皆、海から上陸してきた。海は決して隔壁ではなく、むしろ揺り籠となることで、島々に数多くの多彩な生物たちが育まれてきたという意味でも、海は生物多様性の源である。

 このニッポンという国も四つの海に囲まれていて、他の地域と同じように独自の生態系があるだろうから、是非ニッポンの固有種を知っていたら教えてほしい。

 そう、海は単なる障害物ではない。

 交通の路でもあり、豊かな生命や資源を蓄えた宝物庫でもある。

 大昔から、人類はアウトリガーカヌーやガレー船、双胴船や帆船といった様々な船に乗って世界中を旅し、交易を行ってきたし、現在では内燃機関だけではなく自然エネルギーを併用する形で様々な船舶、艦艇が航行し、海上を行き来して、人や物、資源を運んでいる。

 港には多くのコンテナが積まれ、たくさんの機械や車両が動き回り、物資を必要としている人々に届けるため、大勢の人々が働いている。

 沿岸や沖合では皆の食卓に美味しい魚介類を届けるために漁船が働いている。

 困ったことにマラッカ海峡やアデン湾では二十一世紀も半ばに近づいた現在でも海賊が出没して、船乗りたちを困らせているし、それらを取り締まるため各国の軍艦がパトロールを続けている。

 海底には地殻やマントルで生じている現象やその状況を知るための手がかりが数多く埋まっているし、熱水噴出孔や海溝深くの深海には調査が依然として進んでいない生態系があって、そこでの探査や研究を地道に続けている人たちもいる。

 海は単に海洋学の対象というだけでなく、生物学や地球科学の最前線(フロンティア)でもある。

 このように海は人々の生活の舞台であり、文明の揺り籠なのだ。

 もちろん、普段は都市に住んでいて、揺れない陸の上に建てた家に寝泊まりしている人たちにとって海はあまり身近には思えないかもしれない。

 そういう人のために、海は週末のレジャーを提供してくれている。

 もっともメジャーなマリンスポーツの一つにサーフィンがあるけれども、これは本来ハワイ先住民の伝統的なスポーツであり儀礼であったもので、自分もそのロングボードを使ったアクティビティーに親しむ機会があったが、とても興味深く楽しいものだった。

 クラスメイトの皆さんにとっても、海が親しみやすいものでありますように。

 転校生がそう締めくくった時、真っ先に拍手を送ったのは外国人教師だった。

 一拍遅れて同級生たちも半ば慣例として拍手をする中、転校生のスピーチは、発音こそイギリス人風の訛りがあるとは言え、まるでTEDのスピーチのようだったと教師はしきりに褒めちぎり、一体どこで習ったのかと隣の席へ戻ってきた帰国子女に尋ねると、転校生は「たまたま研究者たちの発表を間近で見る機会があったので、それを真似ただけ」とこともなげに答えた。

 それを聞いた教師は「模倣は学習の第一歩にして上達の近道」とますます喜び、それから英語の授業というよりは殆ど生物か地理の授業みたいだった転校生のスピーチ内容について捕捉をしたり、やや専門的な単語については日本語を用いて(この授業中に日本語を使ってはいけないと最初に決めたのは教師自身なのに)説明したりした。

 ナオは転校生が話す英語の半分くらいしか聞き取れなかったが、大して興味も持てなかったので相変わらず窓を見たまま、教師の解説だっていい加減に聞き流していた。

 他のクラスメイトたちはまず、外国人教師のはしゃぎ振りと、これまで日本語で行っていたとぼけた言動とは打って変わった転校生の様子に困惑した。

 これまでどこかとぼけた言動を続けていた転校生がアメリカ人の英語教師には手放しで褒めちぎられたことに半ば反感を持ちながらも、それはそれとして転校生に対しては決定的に見方を変えざるを得なくなったようで、そういうところも含めてナオには全てが軽薄で、ばかばかしくて、どうでもよいものだった。(そもそも外国人教師の喜びようはどちらかと言えばまともに英語が通じる人がようやく来たという喜び方に近い気がした。)

 授業の残りも上機嫌にこなした外国人教師は終わりのチャイムと共にほくほく顔で帰って行くとすぐに、これまで転校生に声をかけたことのなかった人まで集まって来て、口々に賞賛の言葉を口にして質問攻めにした。 

 発音良いね、やっぱり海外生活長いから? どこで英語習ったの?

 発音を気にしたことはなかったな。たまたま自分に英語を教えた人がイギリスで勉強していた人だったから、こういう喋り方になったってだけで。船の上では皆それぞれの母国語の特徴が出た話し方をするから、それが当たり前だと思ってた。自分みたいなのはむしろ少数派で、どこの出身か分からないって言われたこともある。そもそも英語が通じない場所なんていくらでもあるし、中国語やアラビア語、タミル語の方が通じたりすることもあるから。自分も簡単な単語しか知らないけどね。まぁ、最終的にはお互いの言いたいことがお互いに伝われば十分だと思ってるよ。

 アーティストや配信者(ストリーマー)はやっぱり海外の方が好き? 日本のは?

 残念だけど、日本のアーティストはあまりよく知らないんだ。よく見ている動画は、そうだな、ボオテス・チャンネルってアカウントを知ってるかな。ハワイのオアフ島を拠点に活動してるパフォーマー兼インストラクターで、みんなから導師(マスター)ホクレアって呼ばれてる人のアカウントなんだけど、彼の動画はいつも見ているよ。ハワイの美しくも過酷な自然と、楽しいけど厳しくもあるアクティビティーを紹介する、ってコンセプトのチャンネルなんだけどね。こないだのバショウカジキのフィッシングに行く回はとてもエキサイティングだったよ。それに、彼はその、あのデンゲイの共辰者であることを公表していて、うまく言えないけど勇気あることだと思う。なんというか、そういう意味でも色々と視野が広がる動画を発信してると思ってるよ。

 デンゲイってあのなんか怖いヤツでしょ。それよりスポーツはやっぱりサーフィンが一番得意なの? サッカーとか野球とかは好き? 部活はもう決めてるの?

 最近は機会に恵まれなくて、サーフィンは殆どできてないんだ。他のスポーツは、そうだな、船の上で時々セパタクローをやったりしていたよ。(セパタクローなんて誰も知らない種目だったが、東南アジアでは人気のあるバレーとフットサルを併せたような球技らしい。案の定、クラスの子たちは皆きょとんとしてしまって、転校生は慌てて説明を追加する羽目に陥っていた。)

 クラスの子たちから寄せられる質問に、転校生は屈託のない笑顔で、あらかじめ考えていたような優等生的回答を続けていた。けれど、意識しているのかいないのか、自分自身や家族に関する問いには明確な答えを避けていることにナオは気づいていた。

 ただ、何が良いのか他の人たちもやってきて、話も集まりもさっぱり終わりそうになかったので、隣のナオは仕方なく席を立たなくてはならなくなってしまった。

 ナオにとっての良いニュースは転校生の次にスピーチする人が自分ではなかったことくらいだった。


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