第2部 Tokyo Ophionids - 1
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安海ナオの毎日は高校生になって半年が過ぎても、何も変わりはしなかった。
平日の朝は登校して、授業が始まるのを待って、放課後になるまで座っているだけ。
席は教室の一番後ろ、窓際の隅の席。
顔を傾ければ、すぐ傍の窓ガラスには、黒い髪をロングにして憂鬱な顔をしている自分の姿と、始業前の時間に仲の良い子同士で輪をつくってガヤガヤと、あるいはヒソヒソと喋っているクラスメイトたちの姿という、いつもの光景がうっすらと映り込んでいる。
そんな自分の姿も、教室の様子も、窓の向こうの景色もとっくに見飽きてしまった。
同級生たちは毎日、噂話に余念がない。
この間、文化祭の縮小が決まったばかりだったというのに、今度は二年生の先輩たちがずっと楽しみにしていた修学旅行まで中止になってしまったらしい。
泣いてしまった先輩もいたみたいで、朝から教室はその話で持ち切りだった。
例の予報がスマホをけたたましく鳴らした日から、最近はそんなことばかりだった。
SNSのアプリを開いても、タイムラインへ不意に割り込んでくるニュースは不安を煽るようなものばかりだったし、それでも否応なく目に入ってきてしまう。
それにも関わらず大人たちは「平常運転」を続けようとして、結局なにも解決しない。
成績のことや部活のこと。人間関係のことや大学受験、更にその先の将来のこと。
ただでさえ悩まなくてはならないことが多いのに。
文化祭や修学旅行まで出来なくなってしまって。
せっかく高校生になれたのに。
一生のうちのたった一度きりの機会なのに。
どうして自分たちの代だけ、こんなことになってしまうのか。
クラスの子たちの会話には、そういう声に出されない言葉が見え隠れしている。
ナオはずっと窓を見ていた。
朝の時間どころか休み時間になってもクラスの誰とも目を合わさず、授業中でも気がつけば窓の外を何気なく眺めてしまっている自分がいた。
せめて海が見えたら良かったのに。
どこか遠くからやって来て、どこか遠くへ出かけていく船でも見えたら良かったのに、
背の高い灰色のビルに周りを囲まれた学校から見える景色といったら、同じく灰色のコンクリートで固められた猫の額ほどの校庭だけだった。
東京タワーがすぐ近くにあると言っても、見えなければ無いのと同じだった。
だからといってわざわざ出かけていって見ようとは思わない。
クラスメイトたちは放課後に連れ立って、そこまで遊びに行くことがあるみたいでも、ナオは学校が終わったら部活もせず、すぐに帰って奉仕活動をしていた。
そんな彼女を遠巻きに見ながら、口さがなく耳打ちし合う同級生たちが自分のことをどう思っているかは知っている。入学式の次の日からそれは始まっていた。中学校の時と同じだった。「あの子の家ってあの宗教やってるらしいよ」「知ってる、お父さんがハマってるんだって」「っていうか幹部なんだって、あの宗教の」「あの子も巫女とかやってるらしいよ」「うわ、なにそれ、キッショ」
悪意のある噂話にいちいち取り合う気にはなれなかった。
どうせ言ったって分かりはしないし、それどころか言い訳をするだけだろう。
何も分かろうとしない人たち、分かるつもりもない人たちに何かを弁解しようとは思わなかった。事情も知らないで、勝手な決めつけをする人たちに、媚を売ってまで取り入ろうとは思わなかった。それに、どうせ他に話題ができれば、すぐに飽きてしまうだろう。それは中学の時だってそうだった。
今もそうしているように、気にしなければいい。
黙って、無視して、関わり合いにならなければ良い。
本当なら教室へ来るのだって、授業が始まる直前にしたいくらいだったが、父の手前、できるだけ元気に明るく通学して見せなければならなかった。
母がいなくなった時からナオはずっとそうしていた。
毎朝早めに家を出て、夕方できるだけ早く家に帰る。
ナオには帰る家があるし、帰らなくてはいけない。
できるだけ、家が空っぽになってしまうことのないように。
父より早く出て、父より早く帰って、夜遅く戻る父を出迎える。
学校にいる時間は決して短くなかったが、別に永遠に続くわけでもない。
ただ、始業前のこの不毛な時間が嫌いなだけだ。
彼女にとって誤算だったのは、お金持ちのクラスメイトが一人また一人と数を減らしていく今になって、その噂話が盛り返してきたことだった。
一ヵ月前、夜中にスマホがけたたましく鳴った。
予報だか警報だか知らないけれど、ナオは飛び起きてしまったし、怖くなった。
父からもセミナーの人たちから常々聞かされていたナオだってそうだったのだから、他の人たちならもっとそうだろう。
警報は翌朝には解除されていて、通学途中に電車の中や街で見かけた大人たちはまだ緊張した面持ちでいたし、クルマや人の往来だっていつもより少ない気がした。
教室のクラスメイトたちは朝から不平たらたらだった。
数ヵ月以内に竜星群が落下する可能性(あくまで可能性でしかないのに)があるというだけの話が、翻訳ミスで今すぐ落下してくるという話に擦り変わっていたとかで、そんなバカバカしい話で貴重な睡眠時間を奪われてしまったら誰だってやっていられない。
毎日同じ仕事をしているだけの大人たちとは違って、ただでさえ学生は悩みが多いというのに、これ以上なにを増やすつもりだろう。
同級生たちは近づいてきた期末試験の話をしたり、部活の大会が迫っているという話をしながら、スマホとお互いの顔を交互に見ながら、ためらいがちに頭の上の話をしていた。
竜星群が離れた海に落下したなんてニュースは、どこかの国がミサイルの発射実験をしたなんていう話と同じようなもので、いちいち誰も気にかけない。大人たちも自分たちに関わりがあることだとは思ってなかったし、少なくともナオやクラスメイトたちのような高校生が気にすることじゃない。
世界中で起きていることだ、とは誰だも知っている。
いつかは来るかもしれないとずっと言われていた。
けど、本当に自分たちの身に降りかかってくるなんて、誰だって思いはしないだろう。
結局、学校も短縮授業とかリモート授業とか騒がれただけで、何も変わらなかった。
大人たちだって、いつもと変わらず、毎日の仕事に行っている。
ナオが生まれるより前に起きたというパンデミックの時は、わざわざ学校まで行かなくてよかったらしい。一週間前くらいに台風で学校が休校になっただけで嬉しかったナオからすれば、そこのところだけは少し羨ましかった。
それでも、一度あふれ出した不安感は簡単には消えてなくならない。
漂い始めた風潮に唆されるように引っ越していくお金持ちの家の子がクラスにいたりすると、口には出さなくても目に見えない重圧感みたいなものは日に日に膨れ上がっていく。
ふわふわと漠然とした、それでいて息苦しい空気。
そういうものが肩や背中にのしかかって、でもすぐに何か起こるわけでもないから中途半端に緩んだ気だるさが広がって、やるせないフラストレーションだけが溜まっていく。
高校生だって大人たちが思っているほど何も知らないわけじゃない。
SNSやショートムービーのアプリを開けば、いつの間にか頭に入り込んできてしまう。
でも、だからって何かできるわけじゃない。
空から隕石みたいなものが降ってくる、と言われてもどうすることもできないから。
自分たちではどうしようもないことをいくら考えたって仕方がないから。
大人たちだって仕事のことしか考えてないし、だったら高校生だって同じだ。
ずっと友達と楽しい話をしていたいし。
部活に全力を注いで、仲間たちと大会に出たいし。
同じ趣味の人たちとつながったり、交流したりしたい。
推しているバンドや配信者のイベントで盛り上がりたい。
自分たちには関係ないことで、自分たちの楽しみを邪魔してほしくない。
そう思っていても。そう考えようとしても。
それでも、ふとした弾みに嫌な想像が頭をよぎってしまうから。
そういうものから少し目を逸らして。ちょっとした息抜きとして。
目につく誰かの悪口を言い合ったり、噂話をするのはちょうど良いのだろう。
今日も、クラスの子たちが小さな声で何かを囁き合っている。
それが彼女のことなのかどうかは知らないし、ナオも気にしてない素振りを続ける。
お父さんが言っているように。セミナーの人たちが言っているように。
どうせ、いつかは竜の御星様が降って来る。
誰も逃げられない。避けられるはずもない。
そうすれば、みんな、いなくなる。
後には、いい人だけが、やさしい人たちだけが残れば良い。
そうして、ナオがぼんやりと窓を眺めているうちに。
電子音のチャイムが鳴った。
鐘なんて学校のどこにもないし、鐘そのものを見たこともないのに、その音を真似し続けることにどれだけの意味があるのだろう?
何もかもが無意味で、不毛で、変わり映えのしない毎日だった。
いずれやって来る終わりに気づかない振りをして。
何事もないかのように平静を装って。
それこそ教室に象どころか例の竜がいたって、みんな無視し続けるだろう。
今日も形だけの一日が流れていく。
ナオにとっては全てが出来の悪い茶番劇だった。
それでも他の人にとっては大事な型稽古らしい。
担任の教師がやってきて、型通りに始業前のホームルームが始まった。
どうせ、いつもと同じ当たり障りのない中身のない話だろう。
そう思って、ナオは窓を眺めたまま担任の話を聞き流していた。
けれど、そのうちクラスメイトたちから小さなどよめきが上がって、ホームルームが普段と少し違った様子であることに気がついた。
「転校生を紹介します」
担任の美術教師はどこか苛立たし気にそう言った。
それでナオは同級生たちが朝から話していた噂話が何だったのか分かった。
転校する生徒はいても、転校してくる生徒は初めてだった。
「入って」
教師に呼ばれて、廊下から教室へ姿を現したのは当たり前だが見知らぬ男の子だった。
黒い髪に、日焼けした顔や手。アスリートみたいに活発でシャープな雰囲気で、清潔感もあったけど、着慣れていないのかブレザー制服やネクタイはどこかちぐはぐとした印象で、率直に言ってあまり似合っていなかった。それに男子としては少し小柄な感じがした。
もっとも、女子と違って男子の成長期はこれからだという話はナオだって知ってはいた。
「自己紹介して」
担任に促されて、男子はまず名前を言った。
「布良セージと言います」
そこで一拍置いて、何かを言い淀んでから後を続けた。
「オーストラリアのケアンズから来ました」
ヨーロッパのオーストリアではなく、オセアニアのオーストラリアです。
転校生は訊かれてもいないことをスラスラと説明した。
「日本には本当に子供の頃いただけです。日本語はあまり得意ではありませんが、努力します。よろしくお願いします」
そう言って、帰国子女だということを短い時間で存分にアピールした男子生徒はぎこちないお辞儀をした。あまり慣れていない動作だと丸わかりだった。
「それだけ?」
担任の教師に念を押されても、本人は前を見ながら「はい、以上です」と短く、はっきりと答えただけだった。教師は聞こえるように大きな溜め息をついて、後を引き取った。「布良君はご家庭の事情で当分の間、本校へ通うことになりました。不慣れなことも多いと思うので、みなさんで助け合って仲良くしてあげてください」
普通に聞いている分には、生徒同士の友情を期待します、というありがちな話だったが、実際には、とにかく自分に余計な仕事が増えないように生徒同士でどうにかしてください、という意味で言っていることはナオも含めて教室の誰もが理解していた。
それから、担任の教師はそわそわと扉の方へ見やりつつ、「転校生の席は」と口にした
クラスの皆は既に空いた机がある教室の中を見回した。
「空いているところに座りなさい」
最終的に教師は投げやりな言い方をした。教師に限らず、最近は皆そういう感じだった。
転校生だけは迷うことなく真っ直ぐに教室の一番後ろまでやってきた。
そして、元からずっと空いていたナオの隣の席に座ってしまった。
クラスメイトたちが小さくざわめいて、ナオは勿論それを迷惑に感じた。
「よろしく」
転校生がこちらに振り向いて声をかけてきたが、ナオは下を見たまま返事をしなかった。
向こうは特に気にする様子もなく、机に教科書やノートを並べ始めた。
教科書を見せてくれ、なんて言われたらどうしようかと思っていたので、ナオはそのことだけは少しほっとした。




