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【書籍化】呪い子と銀狼の円舞曲《ワルツ》  作者: 悠井すみれ
四章 暗闇に差し伸べられた手
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夢に見た姿が目の前に

 地下室への入り口は、屋敷の中でも主に使用人が出入りする区域に設けられていた。扉と言わないのは、床を四角く切り取った穴と呼んだほうが正確だからだ。


 外というか上から見れば、綺麗に床材を貼って取っ手も備え付けて、まだしも屋敷の一部に相応しく整えられている。でも、中に入って、しかも入り口を塞がれてしまうと、そこはひたすらの闇だった。


 自分の手指さえ見えない真っ暗闇の中で、宵子(しょうこ)は膝を抱えて身体を丸めていた。そうしていないと、四方から()し掛かる闇に押しつぶされてしまいそうだった。


(怖い……それに、寒い……)


 ひんやりとした空気は、倉庫として酒や食材を保管するのには良いのかもしれない。人が長時間過ごすことを想定していないから、床や壁の一部は土を固めたままになっているのも、合理的なのだろう。


 でも、閉じ込められた宵子にしてみれば、冷たい床や壁から忍び寄る湿気が気持ち悪くて恐ろしい。あまりに暗いので、手足に触れるのが自分が纏った着物の裾や(たもと)なのか、それとも虫や(ネズミ)が這ったのかも分からない。


 地下室の入り口は、今の宵子にしてみれば頭上を塞いだ天井だった。

 奥深くへと降りる階段の半ばに這うようにして、懸命に厚く堅い木材を(こぶし)で叩いたのも、最初だけのこと。腕に伝わる感触は鈍く、地上では入り口の上に何か重いものを載せたのだろうと気付いてしまったからだ。


 声が出せない宵子が暴れても、その音は重石(おもし)となった米櫃(こめびつ)か何かが吸収して誰も気づかない──あるいは、無視できるていどのものになってしまうのだろう。


 疲れ果てて膝を抱えた宵子がここにいるのを、どれだけの人間が知っているのだろう。

 みんな、忙しく立ち働いているから、いつもと違うものの配置を怪しく思う暇さえないかもしれない。


(このまま忘れられてしまったら、どうしよう……!)


 地下室の入口は、毎日開けられるものではないのを宵子は知ってしまっている。飢え死にするまで放っておかれるなんてことはないだろうけど、たとえひと晩だけでも、ひとりきりで耐えるにはこの闇も寒さも恐ろし過ぎる。


 それに、暁子(あきこ)の部屋から引きずられてここに閉じ込められた時のことを思い出すと、心臓が氷の手で掴まれるような心地がする。


春彦(はるひこ)兄様。お父様や暁子に逆らえないから、よね……?)


 春彦は、いつもの穏やかでにこやかな笑顔のままで、宵子を地下室に突き飛ばしたのだ。来客を迎えるために纏っていた洋装が汚れるのを避けたのか、彼自身は階段を降りることさえしないまま。

 その時に床についた手が、ひりひりと痛む。すりむいたのかどうかも分からない掌をさすりながら、宵子は唇を噛んで涙を堪えた。身を守るように膝を抱えると、足首の鈴が小さくりん、と鳴る。


 春彦のことを恨んではいけない、と思う。でも、春彦でさえあの調子なら、この屋敷に宵子を気にかけてくれる人はいない。誰も彼女を探さないし、まして助けようとはしてくれないだろう。


(誰か……どうか……!)


 心からの叫びは、誰の耳にも届かない。声に出せないのだから当たり前だけど。銀の髪と宝石の青の目が脳裏に煌めくけれど──星よりも遠い、幻の輝きだ。あの方は、クラウスは、彼女の存在さえまだちゃんと知らないのに。


 目を閉じても、宵子を取り巻く闇の濃さはまったく変わらなかった。その事実に絶望して俯くと、頬を涙が伝う。暗いだけでなく静寂が支配する地下室では、涙が滴る音さえ聞こえそうだ──そう、思ったのだけれど。


(──え……?)


 頭上から聞こえる物音に、宵子は顔を上げた。もちろん、目に映るのは相変わらずの一面の闇。でも──音が、聞こえる。


 複数の人間が言い争う、荒々しい声。男の人の──父や、春彦のそれも混ざっているような。でも、彼らが使用人が働く区域に足を踏み入れることは滅多にないはず。しかも、今は来客に対応している最中のはずなのに。


 不安も恐れも忘れて、宵子は()の気配に耳を澄ませた。


 やがて、聞こえるのは人の声だけではなくなった。慌ただしい足音と振動も、間近に伝わってくる。さらには、重いものを動かす物音も響いてきて、宵子は思わず後ずさった。


(何? 何なの?)


 暗闇の中にいると、どんな音もより大きく恐ろしく聞こえてしまうものだ。何か争う気配を感じるからなおのこと。

 だから、宵子は凍り付いたように地下室の入り口が開くのを見上げた。痛いほど首をもたげて。祈るように縋るように、胸もとに隠したクラウスへの手紙を押さえて。


 細く空いた隙間から入る光は、最初は矢のように鋭く宵子の目を射った。眩しさに目を細めても、視界は白い。彼女のほうへ、人影が降りてこようとしているのだけが辛うじて見える。


(誰。兄様でもお父様でもない……?)


 すらりとした長身の男の人。その人は、いったい誰だろう。突然差し込んだ光に、目が痛むのを感じながら宵子は不思議に思った。こんな人が、屋敷にいただろうか。

 着物ではなく、洋装を纏っている。父や、夜会で見た紳士たちのように()()()()感じではなく、見事に着こなして。階段を駆け下りる足取りも軽やかで若々しい。

 何より──その人が(かんむり)のように(いただ)く髪の色は、輝く銀。闇に慣れた目には、()()見た時よりもいっそう眩しく見える。青い目の美しさも、宵子はよく知っている。何度も夢に見たから。


「ああ──そこにいた(ドゥ・ビスト・ダ)


 その人の声も、そうだ。ドイツ語の辞書をめくっては、あの声が紡いだらどう聞こえるのだろうと想像を膨らませていた。


(嘘。まさか。どうして……!)


 夢に見た眼差しが、声が。今、宵子の目の前にいる。目が覚めては、勝手な妄想だと顔を赤らめていたのに──闇を(はら)うような綺麗で眩しい笑顔のクラウスが、宵子に手を差し伸べてくれている。


「シャッテンヴァルト伯爵! 突然、このようなところまで立ち入られるとは、無礼な……!」


 父の怒声が聞こえた時には、宵子はクラウスの腕の中に収まっていた。

 父の──男の人の低い声に険しさが宿ると恐ろしいものだ。普段なら竦んでしまっていただろう。でも、今はクラウスの(たくま)しい胸が頼もしい。


(温かくて、どきどきする……)


 宵子自身の胸がうるさいほど高鳴っているのはもちろんのこと、クラウスの胸に押し当てられた頬から、彼の鼓動が伝わってくる。宵子のそれよりもゆっくりとして力強い、どくん、どくんという音が、彼女を落ち着かせてくれる。


 父は、春彦と同じく地下室の階段を降りようとはしないようだった。宵子を抱えたクラウスからは見上げる位置になるのに、彼は屋敷に主人に対しても怯まず、堂々と言い返した。


「私が無礼なら、貴方がたは非道なのでは? この方は、暁子嬢にそっくりだ。なのに、着ているものも手の荒れようもまるで違う。……この方はどなたです。どうして、このような扱いを?」


 クラウスの身体の動きで、宵子の顔を覗き込んだのが分かった。


(私のことを、そんなに見てくださって……!?)


 荒れた手にまで気付かれていたなんて。喜べば良いのか恥じらえば良いのか分からなくて、宵子はクラウスの腕にしがみついた。

 真っ赤になった顔を見せたくなかったからだけど──そのほうが、彼に密着することになってしまうことに気付いて、頬がますます赤くなる。


「それは……その娘は、確かに当家の娘ですが」


 宵子の反応はともかく──クラウスの詰問に、父は言い淀んだ。代わって進み出るのは、春彦だ。


「その御方は、ご病気なのです。病弱で──とても社交ができるお身体ではありませんので、ご紹介しておりませんでした」


 相変わらずのにこやかさと爽やかさに、宵子は思わず目を見開く。彼女を地下室に閉じ込めたのはほかならぬ春彦なのに。もちろん、クラウスはそんなことは知らないだろうけれど──疑わしいとは、思ったようだった。

 宵子を抱くクラウスの腕に力がこもり、身体に伝わる動きで、地下室を見渡したのが分かる。あの宝石のような青い目に、薄暗く湿った空間はどのように映ったのだろう。


「病気を治す気があるとは思えないが」


 ぼそりとこぼれたクラウスの呟きは鋭く険しく、父も春彦も咄嗟に返す言葉がないようだった。ふたりが息を呑んだ隙に、クラウスは宵子を抱え上げた。


(え!?)


 外国の殿方すれば、宵子は子供のように小柄なのかもしれない。でも、人ひとりを抱えたままで階段を上るクラウスの足取りはまったく乱れがない。まるで、宵子なんて羽根ていどの重さでしかないかのように。


 気付けば、目と口をぽかんと開けた父の顔が間近にあった。宵子のように呪いを受けた訳でもないのに、父の口からはああ、とかうう、とかうめき声が漏れるだけで、意味のある言葉は出てこない。


「伯爵閣下。何をなさいますか。その方を降ろしてください」


 それでも春彦は、クラウスの前に立ちはだかろうとしたけれど。宵子を抱きかかえる腕が緩むことはなかった。


「失礼ながら、我が国は日本よりも医学が進んでいる。私の友人にも医者がいるし──この御方の治療は、私に任せていただきたい」


 それだけ言うと、クラウスは靴音を高く響かせて玄関ホールへと足を進めた。もちろん、宵子の爪先は床につくことなく、彼に抱えられたままだ。


(あの。これは、いったい……?)


 上着の(えり)をそっと握る、宵子の指先に気付いたのだろうか。青い目が彼女を見下ろし──そして、ふわりと笑んだ。


「心配いらない。どうか信じて欲しい」


 こんな優しい笑顔と言葉を向けられて、どうして首を振ることができるだろう。小さく、けれどはっきりと。宵子が頷くと、クラウスは笑みを深めた。


 そのころには、もう真上(まがみ)家の屋敷の外に出ていた。馬車回(ばしゃまわ)しには、クラウスが乗ってきたらしい馬車が待っている。


「私の家に連れて行く。貴女には休息と栄養が必要そうだ」


 そして、土を一歩も踏むこともないまま、宵子はその馬車にそっと詰め込まれたのだった。

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