イケメンにしか許されないムーヴメント
一度出してしまえば、二度目は簡単。だって文字通り、目を瞑っていても出せたんだから。
「《スリープスモッグ》! 《スリープスモッグ》! 《スリープスモッグ》!」
杖先からドバァッと放出された薄緑色の煙が、ケヴィンに襲いかかる。
「ぐっ、クソぉ――!」
平時ならば、ケヴィンは対魔騎士として日々鍛錬を積んできた肉体で軽々と回避することができた。しかし、中途半端にかかってしまったなりかけの催眠が、ケヴィンの足をふらつかせ、自由を奪う。
「ハハハ、踊れ踊れェ! さもないと、青臭いケツに鉛の弾が食い込んじゃいますよォ!」
「てめッ……キャラ変わって……! あと鉛の弾じゃねぇだろ……ッ!!」
律儀にツッコんだケヴィンは、また少し催眠の煙を吸い込んでしまった。現実となったこの世界では、魔法は単に接触して効果を発揮するのみならず、経口接種により人体へさらなる深刻な影響を及ぼす。
「クソ、クソ、クソおぉ…………!!」
睡魔で判断力を奪われ、漏れる呼吸を止められないケヴィン。このまま俺は負けるのか。あの変態クソじじいを、英雄と認めなければならないのか――
「――畜生がああああああああああああ!!!」
一際大きく叫んだケヴィン。思わずビクッとなるドスケベ催眠おじさん。
ケヴィンは血走った瞳で、自らの手の甲に唇をつけ――
「お、おい、ケヴィンさん、な、何する気」
「ン゛ン゛ッ!!」
――盛大に自らの肉を噛みちぎった。
「ぶっぐるぁあああー!! いってぇなクソがあああああああ!!」
その奇行にもとれる自傷行為はしかし、抜群の効果を発揮する。激痛がケヴィンの意識を現実に引き戻し、催眠状態から脱したのだ。
「ペッ、ペッ――あースッキリした。もう同じ手には乗らねぇぞ……」
流血する手を木剣に添えて、ギラつく瞳で向かってくるケヴィン。いまだ眠りの煙霧はそこらに漂っているが、ズキズキと継続的に疼く傷口が、彼に戦意を思い出させてくれる。
ドスケベ催眠おじさんは、その手があったか、と唸る。
ロールプレイングゲーム「ムートポス〜天と地と海の物語〜」のバトルシステムにおいては、「状態異常は原則ひとつしか付与されない」というルールがあった。例えば既に「麻痺」にかかっている者は、「毒」に侵されることはない。
ケヴィンの行動をシステマチックに解釈すると、彼は自ら「出血」の状態異常を付与することで、「睡眠」の進行を防いだ。彼が血を流し続ける限り、新たに催眠にかかることはない――ゲームには無かった自傷行為が、ゲーム的にも有利に働いたのだ。
現実のムートポスに生きる血の通った人間が、感覚的に導き出した鮮やかな解答。ドスケベ催眠おじさんは感服した。
「やだ……かっこいい……イケメン……」
「何だお前、男色のケもあんのかよ。英雄サマはお盛んだな」
ケヴィンは痛みなど意にも介さず、ドスケベ催眠おじさんをからかう余裕すら見せる。ゆらりと不敵に、されど油断なく慎重に間合いを詰めてくる姿が、あまりにもカッコよくて、眩しくて――だからこそ悲しくなる。
――僕はこの状況に対処できる。
それは人里離れた山奥の天才児が、独力で既知の数学公式を発見したのを見たような嬉しさと虚しさ。
彼は間違いなく自分より賢い。にもかかわらず、自分は教科書を読んだというだけで、彼の知識量を上回ってしまっている。生まれの違い、学習環境の違いだけで。良い先生がひとり居れば、彼はあっという間にそんなところは飛び越えていけるだけのポテンシャルがあるだろうに。
ケヴィンが導いた解答。それを上から無慈悲に塗り潰す「解答への解答」を、ドスケベ催眠おじさんは持っている。英雄の、極限まで鍛えた主人公キャラクターならではの無法。
――《ナーサリーナイトメア》――
「なんだ? 回復魔法……?」
ケヴィンの足元から立ち昇る、柔らかな青い光。どこからともなく、川のせせらぎや鳥のさえずり、柔らかなハープの音色が聴こえてくる。
滅多に使うことがなかったから、後世にも伝わっていないらしい。ドスケベ催眠おじさんが、出血催眠解除への応じ手として繰り出したのは――回復と催眠の複合魔法。
「……ッ、血が……!」
警戒を強めた頃にはもう遅い。ケヴィンの傷口は塞がり、血は止まり、ついでにHPも回復して。
「ふぁ……」
ケヴィンは目をトロンとさせ、糸の切れた人形のように地に伏せる。
こうしてドスケベ催眠おじさんの名誉をかけた決闘は、呆気ない幕切れを迎えた。
◎ ◎ ◎ ◎ ◎
ケヴィンは夢を見ていた。少年の頃の夢を。忌々しいスラム生活と、そこから救い出してくれた、ひとりの恩人のことを。
「おや、ボクちゃん、あんたも一人なのかい」
お人好しの老婆。ゴミ溜めを漁る薄汚いガキに、手を差し伸べる根っからの変人。
「帰るところが無いならウチに来な。何よりも尊い仕事を手伝わせてやるよ」
仕事は退屈だった。毎日だだっ広い石室の床を磨き、天井にフワフワ浮かんでるオバケみたいなやつがちゃんとそこにいるか見張るだけ。
見張りはともかく、床は自分の顔が映るまで丁寧に拭かないと許しをもらえないので、めんどくさいことこの上ない。
ゴミを漁るよりマシなので、最初の一週間は大人しく従っていたが、とうとう聞いてしまった。
「なあバアさん、こんな作業に何の意味があるんだよ」
「ふふふ、ついに興味を持ちやがったねぇ!」
これが間違いだった。途端に老婆は黒々とした鉄球みたいな目玉を輝かせて、睡神時代の昔話を始めた。
やれドスケベ催眠おじさん様はカッコイイだの、やれドスケベ催眠おじさん様は強いだの、口を開けばドスケベ催眠おじさんの話しか出てこなかった。おまけに一度エンジンがかかると数時間は止まらない。
なんでもバアさんは若い頃、邪神ヒュプノスに焼かれた村から、ドスケベ催眠おじさんに命を救ってもらったそうで、以来ドスケベ催眠おじさんにベタ惚れしているらしい。
「ほんとに……素晴らしいお方だよ」
ただ、そんなバアさんを観察するのも、まぁ、悪くないと思った。
◎ ◎ ◎ ◎ ◎
試験を受けられる年齢になると、俺は対魔騎士に志願し、入団テストに合格した。新人ながら給金もちゃんと出る。これでバアさんの作る薄味のメシも多少はマシになるだろう。
「おいバアさん、帰――」
給料袋を片手に開けたドアの向こうで、バアさんが胸を抑えて床に転がっていた。
◎ ◎ ◎ ◎ ◎
「ケヴィン……あたしゃもう長くないよ。こんな死にかけに構わず騎士さまのお仕事を」
「ババアのくせに生意気言ってんじゃねぇ。何か、何か欲しいモンはねぇのか。バアさんにも夢や希望のひとつやふたつあるだろ!」
バアさんは蚊の鳴くような声で言った。
「会いたい。もう一度……あのお方に会いたいねぇ……」
◎ ◎ ◎ ◎ ◎
俺は魔術教本を読み漁り儀式を行った。【転生システム】はうんともすんとも言わなかった。
床を磨いてもう一度儀式を行った。【転生システム】は沈黙している。
魔力補充薬をがぶ飲みして何度も何度も儀式を繰り返した。何も起こらない。
床を叩いた。壁を殴った。天井に石を投げつけた。
床は震えた。壁は響いた。石は霊体をすり抜けて落ちた。
足踏みしているうちにバアさんは弱っていく。
「クソがッ! 畜生がッ! このハゲデブおやじ!」
バアさんの自室の肖像画を引っぺがし、憎たらしいにやけ面に唾を飛ばす。
「聞いてんのか英雄! ムートポスの民がひとり、今にも死にかけてるぞ! 勇者なら助けに来い!」
バアさんの蔵書、英雄譚や伝記物の類を棚ごと崩して床にぶち撒ける。
「呼んでるぞ! 求めてるぞ! 会いたいって泣き叫んでる! てめぇが惚れさせた女だろ、最後まで責任とれ!」
もはや荒らすものがなくなった部屋で、頭を掻きむしり叫び散らす。
「クソ! クソ! クソ! なんで転生しねぇんだ! もう英雄ごっこには飽きたってか! やるだけやって勝ち逃げかよ! ムートポスはてめぇのお砂場か!?」
何度も書き直した魔法陣の図案が、紙クズとなって部屋中に散乱している。
「ヒトの努力は! 想いは! 受け継いできたものは、意味ねぇのか! バアさんが続けてきた守人は、何十年分の人生は、全部ムダだったっていうのかよ!」
新品の騎士鎧が、ガラクタみたいにピカピカしている。
「責任とれ! 責任とれよぉ! バアさんがムダにした何十年、要らないなら返してくれよおおおぉぉぉ!!」
バアさんは死んだ。
◎ ◎ ◎ ◎ ◎
俺が次の守人ということになった。でもそんな仕事に意味は無いから、二度と床を磨きに行くことはなかった。騎士の仕事だけ真面目にやって、自分の手でムートポスを守って、そんなことが十年は続いた。
「センパイ! 守人のくせに何サボってんですか!」
いつからか赤ん坊みてぇな小ちゃいガキがまとわりついてきて、勝手に見習い守人を名乗り出した。こんなほっそい手足じゃゴミ漁りも騎士もできないだろう。俺は石室の鍵を投げてよこし、ハッタリをかましてやった。
「喜べ、見習い卒業だ」
ガキは馬鹿みたいに喜んだ。俺の方便を真に受けて床掃除を始めた。十年分のホコリをせっせこ片付ける姿は間抜けだった。
でも、なんだか、あまり見ていて楽しくなる間抜けさじゃなかった。
「……ま、せいぜい頑張れや」
バアさんの遺品もそのままになっていていい加減邪魔だったので、部屋ごとガキにくれてやった。最初はガキを居候させてやる形だったが、女児誘拐とか根も葉もない噂が流れ始めてから俺だけ他に寮を借りて出て行った。あの部屋の絵だの本だのをどう使うのか知らないが、それなりに楽しむだろう。ガキは冒険ものが好きだからな。
それから、さらに十年が経ち……
◎ ◎ ◎ ◎ ◎
「……んぁ」
ケヴィンは現代、もとい現実に戻ってきた。傷ひとつない全快状態で目覚めたケヴィンを、ボコボコにアザを作ったドスケベ催眠おじさんが心配そうに見下ろしている。
「よかった、意識が……」
時間経過でそのうち目覚めることはドスケベ催眠おじさんも知っていたが、それはそれ。後遺症が出ていたりやしないかと、ソワソワ指を動かしている。
「……負けたのか、俺」
「そうですよ。センパイは負けたんです。ボッコボコに完全に完膚なきまでに負けたんです。大口叩いておきながらあっさりオネンネさせられた気分はどうですかー?」
リナはものすごくネットリした感じで煽ってくるが、ケヴィンは怒る気にならない。むしろ、この夜空のように澄み渡る心地だった。
「あー! やっぱすげえなー英雄は! 催眠魔法の手際が違う。詠唱省略でバンバン撃ってくるもん。そんなんできねぇよフツー」
ケヴィンは上体を起こし、ドスケベ催眠おじさんが差し伸べたムチムチの手を掴んで立ち上がる。
「認めるよ。あんたは正真正銘、本物の、ドスケベ催眠おじさんだ」
ドスケベ催眠おじさんは、喜んでいいのか、恥じるべきなのか分からず、微妙な愛想笑いでふんわり誤魔化した。
「でもよ……ひとつだけ……ひとつだけ言わせてくれ……」
ケヴィンは、こみあげてきたものを抑え込むように、額に手のひらをつけて喉にグッと力を込めた。
「どうして……どうしてアンタは……」
――草っ原をそよぐ風に乗せて、言い切ってしまおう。
「どうしてバアさんが生きてる内に……目覚めてくれなかったんだよ……」