Aut disce aut doscebe.
男は理解した。理解したからこそ、受け止めきれなくて情緒がパンクした。呆然としたままリナに手を引かれ、広間の外へと連れ出される。
最初に居た場所は、どうやら地下だったようだ。階段を登ると地面があり、開けた空が見えた。夕陽が沈みゆくほうに目をやると、徒歩十秒の近距離に、古ぼけた小屋が建っている。
リナはきしむ玄関ドアを開けて、すぐそこの食卓へとドスケベ催眠おじさんを誘う。
木目そのままの、がさついた丸テーブルと椅子――ごくごく庶民的な装いのそれこそが、今宵の宴の席であった。
「すみません。【転生システム】が起動できると誰も信じてくれなくて、参加者が集まらなかったのです。正式な祝宴は後日改めてやり直すので、今夜はリナの拙い料理で許してくださいね」
所狭しと並べられたサラダやスープ、肉料理の数々。パンや麺類、なかには米を使ったものも見受けられるけれど、日本のそれとはどこか違った風情の品々を、柔らかなランプが照らしている。
てらてらと輝くおいしそうな誘惑を受けて、生まれたて(?)のドスケベ催眠おじさんの肉体は、困惑を押しのけ腹の虫をかき鳴らした。
「どうぞ、お召し上がりください!」
リナに促され、ドスケベ催眠おじさんはたまらず料理を口に運ぶ。異国料理、いや異世界料理のはずなのに、どこかおふくろの味がして、なぜだか涙がこぼれそうだった。
夢中でかき込んでいると、飲み込んだ肉と自前の顎肉が同時に喉を圧迫し、鼻からフガフガと情けない音が鳴る。今度は別の意味で泣きそうだった。
ああ、僕は本当に――
「お口に合いますか? ドスケベ催眠おじさん様」
――本当に、ドスケベ催眠おじさんになってしまったのだと。
これは罰だ。ドスケベ催眠おじさんは思った。散々ドスケベドスケベ言わせて、ゲーム世界の住人を笑いのネタにしてきた報いを受けているのだと。
「ふふふ……」
いや、違う。リナの慈愛に満ちた笑顔を見て、ドスケベ催眠おじさんは考え直した。
これは祝福だ。神の恩寵だ。自分を慕い料理を振る舞ってくれるひとがいて、上等な服が着られて、夜も明るい部屋で暖かいごはんが食べられる。
天罰がこんな優しい顔をしているはずがない。
「うっ……ううぅ……」
「どうしましたか? 喉に詰まりましたか?」
「イヤ……美味しくて……」
「まぁ。光栄です!」
元より、彼は一度死んだはずだった。突然トラックに跳ねられたわけでも、悪役令嬢にハメられたわけでもなく、ごく普通に寿命で死んだ。神様が実在するとしても、これといって特別扱いしてやる理由の全くない人間、それがドスケベ催眠おじさんなのだ。
にもかかわらず、こうして「二度目」があり、生きてメシを食える。まさに望外の幸せと言っていい。
仮に罰だとしても、お釣りがくるくらい罪滅ぼししてやる。彼はムートポスという新天地における二度目の人生を、おふざけ抜きで生きると誓った。
ちょっと名前がおかしいくらい、何だというのだ。絶対名前なんかに負けたりしない!
「お飲み物はどうされますか、ドスケベ催眠おじさん様?」
「うぐぁ……ッ、そ、そう……ですね……」
それはそれとして、やっぱり呼び名への戸惑いもあるドスケベ催眠おじさんだった。
「伝承を辿っても、ドスケベ催眠おじさん様の食の好みの記載が見つからなくて。ブレイブチキンと魔力補充薬をよく口にされていたことだけは分かったのですが」
ブレイブチキンは入手が簡単なわりに体力回復効果の高く、ゲーム時代も愛用したコスパ抜群アイテム。現実となったこの世界では、甘辛く味付けした鶏の丸焼きとして、いまドスケベ催眠おじさんの前に供されている。
「魔力補充薬であれば、よく冷えたのが沢山あります。お飲みになりますか?」
「じゃあ、それで……」
他にムートポスの飲み物も知らないので、ドスケベ催眠おじさんは適当に頷く。紫色の液体を警戒しつつ口に含むと、ぶどう味で意外にイケた。
腹は満たされ、喉も潤った。転生直後より、いくらか落ち着きを取り戻したドスケベ催眠おじさんは、意を決して質問する。
「リナさん、いくつか聞きたいことがあるんですけど」
「どうぞ何なりと!」
リナは当然のようにドスケベ催眠おじさんを知っているが、当のドスケベ催眠おじさん本人は、ドスケベ催眠おじさんがムートポスでどういう扱いになっているか、まだよく知らない。ゲーム画面越しのドスケベ催眠おじさんしか知らないドスケベ催眠おじさんは、ドスケベ催眠おじさんを知る人から直接ドスケベ催眠おじさんのことを聞いておく必要がある。まずはリナが口にしていた、ドスケベ催眠おじさんの「伝承」について紐解いていこう。
話の流れとは関係ないがオマケでもう一度……ドスケベ催眠おじさん。
「僕はついさっきまで、死んで――眠っていたから、状況がわからないんです」
「無理もないことです。ドスケベ催眠おじさん様の活躍した時代、睡神時代から百年ほどが経過しておりますから」
ヒュプノスナントカはよく知らないが、要するに、ここは自分の知るゲームの世界から、さらに百年後の世界ということ。今ここにいるドスケベ催眠おじさんは、「復活した百年前の英雄」ということになる。
「邪神ヒュプノスとの千夜にわたる死闘の末、眠りにつかれたドスケベ催眠おじさん様の御霊を、われわれムートポスの守人が代々お守りし、今に至ります」
邪神ヒュプノス――懐かしい響きに記憶が蘇る。千夜にわたる死闘とは、恐らく裏ボスに因縁つけて千回ボコボコにしたアレのことを言っているのだろう。
眠りの魔法を得意とするヒュプノスにわざわざ催眠勝負を挑んだものだからズルズル長引くこともあった。すさまじく無駄な泥試合は、「死闘」と美化され伝えられたようである。
そして、ゲームをやめてしまい、遊ばなくなってしまった期間のことは、「眠りについた」と解釈されているらしい。
「だとすると、ゲーム――あっ」
ゲーム時代、と言おうとして、しまったと口を抑えた。
ここはもはやゲームの世界でなく、ここにいるリナも意思なきプログラムではない、血の通った人間なのだ。
ゲームという単語が伝わらないならまだ良いが、この世界が虚構だと告げるような意味にとられれば、あまりにも失礼に過ぎる。
しかし結果的に、それは杞憂に終わる。
「ご心配なく。『ゲーム』という概念は存じております」
「そうなの?」
「ドスケベ催眠おじさん様が、この世界を一種の『遊戯』として認識し、ゲーム機なる道具を用いて間接的に干渉しておられることは、神託を通じ承っております」
僕ってそんな超次元生命体みたいな謎の存在だったの、と呆気にとられるドスケベ催眠おじさん。
納得すると同時に、訂正しておかねばならない事実がひとつある。
「あー、いまはゲームじゃなく、直接? 自分の身体として現在進行形で生きてるといいますか、おのれの目で世界を見ているといいますか、要するに……」
ドスケベ催眠おじさんが言葉を選んでいると、理解の早いリナが引き継いだ。
「まぁ! つまり今回は、真のドスケベ催眠おじさん様、ご本人が! 直々に! 御自ら! ムートポスに降臨なされたと! そういうことなのですね!?」
「こ、降臨……そう、なる……ん、ですか、ねぇ……?」
大興奮のリナを前に、ドスケベ催眠おじさんは曖昧な返事しかできなかった。肯定する根拠も、否定材料も、ドスケベ催眠おじさん本人は持ち合わせていない。
悲観的に考えると「実は今あなたが見ている光景は死後摘出された脳が培養液のなかで自己生成している夢に過ぎません」とか「お前は自分の前世が地球人だったと思い込んでいるドスケベ催眠おじさんなのだ」とか、可能性を考え出したらきりがないけれど、確かめようもない。
本当のところは神のみぞ知る。魂とか生まれ変わりとか、ドスケベ催眠おじさんの専門外なのである。今はとりあえず、リナがそう言うならそうなんだろう、と思っておくくらいで良い。
話を戻そう。
「これは身に余る幸運……! リナは有志以来初めて、真のドスケベ催眠おじさん様と言葉を交わしたムートポス人となるのですね……!」
リナは自らの身体をかき抱き、ぶるぶると興奮にうち震えている。ドスケベ催眠おじさんは危機感を覚えた。
どうしよう。このままでは、特に何もしていないのに無限にドスケベ催眠おじさんの株が上昇してしまう。気まずくなったドスケベ催眠おじさんは、少しでも自分を凡人に見せるために提言する。
「あの、歓迎していただけるのは嬉しいんですが、僕はそんな『様』付けで呼ぶような立派な人間じゃないですよ」
「とんでもない! ドスケベ催眠おじさん様が立派でなければ、誰が立派と言えましょう。呼び捨てにするなど、とてもとても……」
恐縮するリナ。しかしドスケベ催眠おじさんはどうしても呼び名をもう少しマイルドにして欲しいので、しつこく食い下がる。
「おじさん、という言葉には敬称が含まれているので、様を付けなくても成立しますよ」
「なんと! お恥ずかしながら、これまでムートポスの民はお名前の意味を知らずにのうのうと過ごして参りました」
現状、なんらかの不思議な力が働いて(あるいは日本語対応のゲームだったからという身も蓋もない理屈で)普通に会話ができているけれど、リナが喋っているのはムートポスの言語で、ドスケベ催眠おじさんの母語とは違う。
人名である「ドスケベ催眠おじさん」はムートポス語で「ドスケベ」「催眠」「おじさん」を意味する現地の単語に翻訳されることなく、そのまま意味不明の異世界語の羅列として伝わっている。
NPCが理解していなかったのと同様、リナもまたドスケベ催眠おじさんの命名の由来となった日本語を知らないまま、発音だけネイティヴで呼んでいるのだ。
「お名前のもつ意味をご教示いただければ、早急に歴史の教科書へ追記するよう、学者たちに進言いたします!」
「ンアアアアァーッすいませんやっぱいいです! 名前を覚えてもらえるだけで! もうそれだけですっごく嬉しいので!」
日本語への理解が深まることは、すなわち「ドスケベ」の由来がバレてしまうリスクと同義。それは非常にまずい。
意味も知らないドスケベを連呼させるのも気の毒だが、ムートポス人が今まで勇ましき英雄の名として使っていた単語の一部を急激にドブの底へ叩き落とすのも、同様に残酷なことである。
何よりドスケベ催眠おじさん本人が一番いたたまれない。
「意味とか全然! ええ! まったく知らなくていいやつですんで!!」
「そうですか……? リナはとても……とっても興味があったのですが……」
残念そうに眉を八の字にするリナさん。色んな意味で申し訳なく思うドスケベ催眠おじさん。彼は転生初日にして、あらゆる種類の罪悪感をコンプリートする勢いである。
「呼び捨てがだめなら、略称はどうですか? ドス催……いやドス眠……単に『おじさん』って呼ぶ手もありますけど」
「そんな……栄誉あるドスケベ催眠おじさん様を略して呼ぶなど畏れ多い……」
略すのもダメとか、どうすりゃええねん。ドスケベ催眠おじさんの胸に、怒りに似たやるせなさが去来する。こんな長くてまどろっこしい名前を毎回繰り返すなんて、ムートポス人はおかしいと思わないのか?
もしかして、あれか? 「ジークフリート」とか「ギルガメッシュ」みたいなことか。あれも長めの名前だけど、それでひとつの単語と最初から思っていれば抵抗はない。ジクフリとかギルガメとか略すほうが違和感がある。
たとえジークフリートという単語の意味が「胸筋ムチムチお兄さん」とかだったとしても――そんなことは絶対にないだろうけど――意味を知らない人はカッコイイ外国語だなぁとしか思わない。
じゃあ並べてみよう。案外なじむかもしれない。
ジークフリート。
ギルガメッシュ。
ドスケベ催眠おじさん。
やっぱり最後だけ違うじゃないか!!!!!