小麦畑でつかまえて
若い女の笑い声が響く。周波数が高くて耳障りだ。
若い女の笑い声が響く。さっきとは違う周波数、しかし同じく耳障り。
笑い声のする方向は見ず、その女たちと僕以外が周りにいるかを確認した。
ここで君は、「僕が彼女たちをどうにかしてしまう話」を想像しただろうか。もしそうならごめん。もしどうにかなってしまうとしたら、それは僕だよ。こんなにも耳障りな声、めったに聞けるもんじゃないからね。
と、存在しない誰かに語りかけて気分をごまかす。そんなふうに空想にふけって、気に入らないものから目をそらすのは、僕の昔からの癖だった。
話がそれてしまったね(と、再び君に呼びかける)。彼女たち以外に人がいるかを確認したのは、その笑いの対象を確認するためなんだ。幸い……といっても、それがどれくらい幸いなことか、君がすんなり理解できるか知らないけど。ここは夏の海岸で、僕以外にも人で溢れていた。
大丈夫。僕じゃない。
若い女の笑い声が響く。合わせて、若い男の笑い声が響く。周波数なんて関係なかった。
うん、最強の空想を使おう。僕の一番のお気に入りのやつ。そうそう、「君」は二番目のお気に入りだって、前にも言ったっけ。
目を閉じる。閉じた瞬間、光は消える。一秒経てば、音が消える。二秒経って、気配が消える。
目を開ける。そこには僕が独りだ。
まず、その眩しさに驚いた。反射的に光を右手で遮る。
砂浜を埋め尽くし、海と僕との間を邪魔する人の群れ。それが消えたとき、太陽の光とはこんなにも多方向からやってくるものなのか。
徐々に手を下ろし、細めていた目をゆっくりと戻す。
白と青ばかりだと思っていたけど、案外他の色も混じっている。赤いパラソル、黄色い浮き輪、黒い流木、あとはビーチボールだけでも4色ある。消えたのは人だけなのだから、当然のことだった。
ただ、音に関しては全く一変してしまった。波の音と風の音、それだけが聞こえる。
スニーカーを脱いで、靴下も脱いだ。もともと海のにおいを嗅ぎに来ただけだった。サンダルで来ればよかった。
砂浜に足を踏み入れると、熱したフライパンに卵を落としたときのような音が聞こえた。痛いぐらいの熱が、砂の動く音をそういうふうに聞こえさせたんだろう。そういえばさっき、筋肉質の男が砂の熱さをうるさく訴えていたけど、もちろんそんな、誰かに伝えたいほどの熱さというわけではなかった。
砂を見ながら水を目指して進んでいく。
砂の色が白から黒になる境界。そこで僕は、もう目の前が海であることに気づいた。
自分の格好を見てどうしようかと迷う。そのまま進んでもいい。でも、替えの服はないし、海パン以外で海に入るのは気が引ける。
結局、ズボンの裾をまくり上げて足首までをつけることにした。
冷たい。砂の熱とは違って、これは本当に、誰かに伝えたい冷たさだった。
いつの間にか、ふくらはぎまで濡らしていた。それと、自分でも馬鹿だと思うけど、海水を両手で掬って一気に飲んでみた。もちろん、声に出してしまうぐらいに塩辛かった。ただ、誰かに伝えようとは思わない当たり前の塩辛さでもあった。
水を飲みたくて少し急ぎ足で砂浜を横切る。自動販売機までやってきて、そこに500円硬貨を入れる。そして、水のところのボタンを押す直前になってやっぱりスポーツドリンクに変えた。ペットボトルの落下音に続いて、硬貨が重なっていく音が聞こえる。波と砂以外の音を聞いたのは久々だと感じた。
ペットボトルは一瞬にして空になった。
海水にやられていた喉が快感に震える。その代わり、足にこびりついた砂が不快でたまらなくなってくる。
乾けば落ちるだろうと思って、もう一度砂浜に足を踏み入れる。水分が砂に吸われていく。
僕は上を見上げた。もちろん、眩しすぎて目を開けていられない。
人間、目をつむると平衡感覚を失うもので、僕はそのまま倒れてしまった。砂浜だから少し痛いぐらいで済んだ。
ギリギリまで細めた目でも空が青いってのはちゃんと分かるもんだ。
横を見れば、小さなエビみたいな、よく分からない生き物が砂の上を跳ね回っている。なんていうんだろう、この生き物。
僕は波の音を聞きながら、片足のふくらはぎをもう一方の足のすねにこすりつけて砂を落としていた。するともう、耐えられないくらいに眠くなってきた。
目が覚めると、僕はスポーツドリンクを買った自販機の横のベンチに座っていた。
太陽光は、空想に入る前といくらも変わらない位置から降り注いでいる。
若い女の笑い声が響く。
さて、帰ろうか。
駅前で友人を待っている。待ち合わせ時刻を五分過ぎている。
その友人に限って約束をすっぽかすようなことはないと思う。もしそういうことがあったとしても、それは約束そのものを忘れていたとか、そういう不運としか言えないことが原因に違いない。それか僕の方が約束の内容を間違えているとか。
今日がどんな予定だったのかを、もう一度頭の中で思い浮かべる。思い浮かべようとしたんだ。
そのとき、誰かが僕の肩を叩いた。
「おそいよ。」
そう言って僕は振り返った。もちろん、肩を叩いたのが友人だと思っていたからね。
だけど、いま目の前にいる二人組のオバサンは、そんな僕の態度なんて関係なく、宗教勧誘のパンフレットを無理やり押し付けてきた。
いやね、宗教そのものにどうこう言うつもりは毛頭ないんだ。神頼みなんていくらでもしてきたし、ふと畏れ多いモノの存在を感じることだってなくはない。
ただ、それをなんでこう、いかにも怪しげに説明したり、勧誘したりするかな。例えば、「今日はよく晴れていますね。」なんていう明らかな事実でさえ、この二人の言葉なら本当かどうか怪しんでしまう。
僕は徐々に二人との間を空けて、お辞儀すると同時に彼女たちに背を向けた。
たとえどんなことでも、断ることそのものが苦手だ。気が滅入ってしまう。
僕はため息をついて、目を閉じた。
二秒後、目を開ける。そこには僕が独り。
正確に言うと、「人間」は僕一人だった。さっきまで人ばかりが目立っていた噴水の周りには鳩がたくさんいる。
鳩の動きというのは、よく観察すると面白いもので、なんでこうもカクカクとした動きなんだろう。あとで調べてみよう。
鳩たちの間を進んで、噴水の端に腰かける。周りにはベンチがあるけど、なんとなくここの方が気分がいい。
駅を見る。コーヒーショップの外向きの席に銀色のノートパソコンが置いてある。
僕には理解できない。外から丸見えなのによく集中できるよね。そもそも僕は自宅が一番集中できるけど。もしかしたら彼らはどこでも集中できる超人で、たまたま僕が見かけたのがコーヒーショップの外向きの席だったってだけかもしれない。
とか、そんなふうに思われると考えると、やっぱり僕はあの席で集中なんてできない。
突然の轟音。
いや、それは電車の通り過ぎる音だったから徐々に大きくなった音のはずだけど。それでも、僕には突然の音に聞こえた。
あまりの音の大きさに気を取られていて、地面が揺れていたことに気づいたのは電車が過ぎた後だった。人がいないから音も揺れも大きい。
こんなにも大きなエネルギーを生み出す人間という生き物が、偉大にも、恐ろしいようにも思える。同時に、そう思うのは僕が人間だからかもしれない、とも思う。
例えば僕がティラノサウルスだったとして、同じようなことを思うだろうか。彼らはその大あごで車すら粉砕できるという。電車も同じように破壊できることだろう。自分より弱い対象に畏れのような感情を抱くはずがない。
その逆もまた然り。僕がアリだったなら、電車も人間もそんなに大差あるもんじゃない。
見上げた高層ビルだって、どこかの星の巨大生物からすれば、チョコスティックぐらいの存在かもしれない。
ただし、その先、高層ビルの上には青い空が遥かに広がっている。この空の大きさといったらもう、それを上回るものを全然想像させてくれないんだ。
いけない。空を見ていると、また転んでしまう。ここは砂浜じゃないから、転んだらきっとすごく痛い。
ポケットの中の携帯電話が震える。すぐに止まったから着信じゃなくてメッセージだ。
携帯電話を取り出して、まずは現在時刻を確認する。待ち合わせ時刻を十分過ぎたところだった。
メッセージは友人からだった。
「母が入院と聞いて、君との約束をすっかり忘れていた。申し訳ない。」
電車が通り過ぎていく。
音も、揺れも、空想のそれよりずっと小さかった。
再びメッセージを受信する。
「軽度の肝炎らしくて、入院は二週間ほどらしい。約束破ってしまって本当にすまない。」
うん、不運としか言えない。そこにはひとかけらの悪意もないわけだ。
「僕のことは気にしないでくれ。お母様にはお大事にと伝えておいて。」
送信ボタンを押す。
真っ白な天井だった。
そこが僕の家の、僕のベッドの上でないことは確か。
天井が違うから気づいたわけじゃない。
マットレスが硬すぎた。次に匂い。そして、瞼の向こうの光の加減。
つまり、目を開ける前にはもう、非日常の幕開けを覚悟していた。
天井を見つめるのをやめて、顔を横に向ける。窓の外には曇り空が広がっていた。ただ、空の下には、ビルの先っぽの方が覗くばかりだった。
上体を起こす。
足元に机があって、それが少し気になったけど、今はそれより窓の外の様子を確認したかった。
そこには、ただただ普通の街並みがあった。だけどその景色のほとんど全部が僕の視界の下にあった。
ここは何階なんだろう。
そう思ったからか、ここが今どこであるのかについてやっと興味が湧いた。
ぐるりと見回して、窓のある方向以外をカーテンで囲まれていると理解した。
小さなテレビがあったので電源を入れてみる。電源ランプは点くのに、肝心のディスプレイは暗いままだ。でもまあ、僕には日ごろからテレビを見る習慣がないから問題じゃない。
だいたい分かった。
ここは病院……病室だ。
事故かなんかにあって、知らない間に手術をして、それで入院。たぶんそういうことなんだろうと理解し、自分の身体をざっと確認してみる。着ているのは入院用のパジャマだった。でも僕の知らない傷は一つもなかった。もし、体の中の異常が原因だったなら、僕には確認のしようがない。
ベッドから降りて、そこにあったスリッパを履き、立ち上がってみる。何の違和感も感じない。
カーテンを開ける。この部屋には僕以外の患者がいないようで、全てのベッドが丸見えだった。
病室の外に出る。人の気配が一切ない。
少しばかりの恥じらいと勇気を持って、別の病室に入ると、そこのカーテンも全部開いていた。
こうなったらもう、全部の病室、それ以外にもよく分からない部屋、とにかく目につく場所を一つ残らず確かめてやった。
誰もいなかった。
それをはっきり理解した僕は、全力で笑った。今まで生きてきた時間、そのうちのどの瞬間よりも力強く笑った。それはもう、多分、産声の叫びなんて遥かに凌ぐほどに。
ずっと空想してきた。それと同時に、実際もしそうなったら、どうせ恐怖とパニックばかりに襲われるんだとも思っていた。だけど、「実際もし」が本当に「実際」になってみればどうだ。
最高に爽快だった。
僕はそこら中のナースコールを押して回った。もちろん誰も来ない。
もう一回、これでもかと笑ってやる。
窓の外を見ると、ちょうど今雨が降り始めたところだった。
エレベーターの前に来て、ここが6階だと初めて知る。あと、この病院が8階建てであることも同時に知った。
僕の経験上、大きな病院の最上階にはたいていレストランがある。結構おいしいんだよね。と言っても、今お腹が減っているかと言われるとそうでもない。
7階はどうなってるんだろうか。
ホスピス、つまり、緩和治療が行われているとすればここだろうと思った。
興味はある。だけどもし、7階の患者だけが例外的にこの世界にも存在していたら。そう思うと、僕はエレベーターの上矢印ボタンを押せなかった。
エレベーターが降りる。扉が開く。
普段なら人でごった返している病院の1階。でも今は、僕独りだけの空間だ。
いろいろと見て回ろうかとも思った。ただ、透明な自動ドアの先が土砂降りなのを見て、今いる場所への興味は急速に失われた。
ずっと思っていたことがある。
僕らは雨が降るとき、傘をさす。雨がっぱ派の人もいるかもね。どちらにせよ、あれば使うことに変わりはないと思う。でもよく考えてみると、なんで僕らは雨に濡れたくないんだろう、という疑問が湧いてくる。
本当に嫌なのは、雨に濡れた姿を人に見られることだと、僕は思う。
のっぺりとした髪。体に張り付いた衣服。アゴから滴り落ちる雫。そういったものを見られるのは、僕にとってはとても嫌なことなんだ。濡れた靴下の気持ち悪さとか、バッグに入れていた資料が濡れてしまうことなんかより、よっぽど。
でもほら、今は僕しかいないわけで。だから僕は吸い込まれるように外に向かった。
自動ドアの前でスリッパを脱ぐ。裸足の方が絶対気持ちいいと思った。
ドアが開いた瞬間、勢いよく駆け出す。何段か階段があったけど、一足に飛び越える。
着ていたパジャマは一気にビショビショになった。パジャマのボタンを全部、思い切り引きちぎる。
道路には車もバイクも自転車も通っていない。もちろん、歩行者だって誰一人いない。そのことを、360度全体について、足を止めずに回転しながら確認する。
車道の真ん中に立つ。クラウチングスタートの姿勢をとる。目指すはだいたい50m先の信号機だ。
3、2、1……と心の中で数えて。「パァン」というスターターピストルの音は声に出してみた。
雨が前からぶつかってくる。そして、髪や服にぶら下がる水滴をその場へ置き去りにしていく。
30mぐらい走ったところで小石を踏んづけてしまった。正に激痛ではあったけど、我慢して残りを走りぬける。
ラストスパートも一切速度を緩めなかった。目標地点を過ぎて、初めて足から力を抜き始める。摩擦や空気抵抗といった忌々しい力によって、僕の身体はどんどんその運動エネルギーを奪われる。せめてもの抗い(になっていないかもしれないけど)として、完全に静止してしまう前に勢いよく倒れこんでやる。
とてつもない痛み、小石を踏んづけたときよりも強い痛みを覚悟していた。
ベッドの上だった。
目を閉じれば、感じ慣れた光の加減。それに、背中に当たるこのベッドは、病院のそれよりずっと柔らかい。あ、あとは天井もいつもの見慣れたやつだった。
まあ、確かに「非日常」ではあったわけだ。それが日常にありふれた非日常であるだけで。
それに思わぬ収穫もあったろう。
空想が現実になってしまっても、とりあえずしばらくは嫌じゃないと分かった。それだけでも、この夢には価値があったと、僕は思う。
「君」が現実になったらどうなんだろうね。いつかそれを知る機会が来るのを楽しみにしてるよ。
そうだ、君がいる間に言っておかないと。君が僕のそばにいるときのほとんどは、僕が君を必要としたとき。だから、君は勘違いしているかもしれない。
僕は別にこの現実が嫌いなわけじゃないよ。ただ、ときどき、現実よりも美しいものを空想したくなってしまうんだ。
例えば、ライ麦畑……いや、日本だと小麦畑あたりにした方がリアリティがあるね。とにかくね、僕にはね、広い小麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。小麦畑のつかまえ役。
これは借り物の空想だけど、まったく美しい空想だと思う。
そういう美しい空想に助けてもらうことで、それほどでもない苦しみなら忘れられる。そう、それくらいには、この世界は美しい。
僕はそう思うよ。
「ライ麦畑でつかまえて」からインスパイアされた、オリジナルの作品として書いています。
しかし、最終部分にてかの作品から引用しており、なおかつ特に許可をとったわけではないので、何か問題がありましたらすぐに削除いたします。