もう休もう?
綾乃の笑う顔は好きだった。
どこか儚げで、だけど向日葵のような明るさのある笑顔。
綺麗だけど親しみのある、柔らかな笑みが彼女にはよく似合っていると、昔から密かに思っていたりしたものだ。
それこそ綾乃に対し劣等感を抱く前。出会ったばかりの、友人にすらなる前からずっと。
だからその笑顔だけは変わらないでいてほしいと思ってた。
身勝手なことは百も承知だけど、優しく笑う幼馴染のまま、僕は彼女から離れたかったのだ。
だけど、今は―――
「なんでって…ああ、私、笑ってたんだね。ごめんねみーくん。今の私、ちょっとおかしくて。なんだか色々と歯止めが効かなくなってるみたいなんだ」
変わり果てた笑みを浮かべ、心の底から楽しそうに嗤う綾乃がそこにいた。
「歯止めって…なんで…なんでそんな…そんなふうに…」
今の綾乃がおかしくなってるのは確かだ。
無垢な子供のように楽しげな笑みを浮かべながら、発する言葉には渚に対する明確な悪意がにじみ出ている。
優しさとは掛け離れた、いっそ醜悪ともいえるその顔は、普段の綾乃とは似ても似つかない。
いっそ別人だと思えたら、どんなに良かったことだろうか。
「…湊、やめときなさい。あと、あまり喋らないで。あの子はもう、これまでの綾乃じゃない…なにをしてくるか、もうわからないわ」
だけど、それはできなかった。
否定したくても、この場には渚がいる。
僕同様、ずっと一緒に育ってきた幼馴染の渚が。
「う、ううう…」
彼女は目の前の女の子を明確に綾乃として認識している以上、この子は霧島綾乃に違いないのだ。
確かに最近は過激な行動に出ることが多かったけど、それでもこんな強硬手段を通り越した蛮行を行うような子じゃ絶対になかったはず。
「う、ぎぃ…!」
意識してしまったからか、不意に背中がひどく痛んだ。
刺されたのは間違いないけど、どれくらい包丁が僕のなかに食い込んでいたのだろう。
多分ドアの影に隠れての不意打ちだったから、そこまで勢いは付けられていなかったはずだけど、ドクドクと体からなにかが抜けていく感覚が怖くてたまらない。
身体の震えが収まらないし、指先の感覚はもうなくなりかけている。
傷が深いのか、浅いのかすら判別が出来そうにない。
ただ、出来たからといって、なんの意味があるんだろう。
この場には凶器を持った綾乃がまだいるのだ。
傷一つついてない状態でピンピンしてるときた。
おまけに普段の彼女とは掛け離れた、一種の錯乱状態ときたら説得も通じそうにない。
逃げる様子もないうえに、さっきまでの発言を聞く限り、僕を殺そうとしているのは間違いなくて―――
(殺そう、と…)
…僕は、死ぬんだろうか?
眼前で倒れている、夏葉さんのように―――
「ひっ…」
その事実に気付いた途端、全身をどうしようもない悪寒が駆け巡る。
殺される?僕が?綾乃に?どうして?
怒りで燃えていたはずの思考が、疑問と恐怖で塗りつぶされた。
違う。こんなことを考えてはいけない。
今必要なのは勇気だろ。漫画の主人公のように立ち上がって、綾乃にもうやめろって掴みかかるんだ。
男だろ、僕は。
それくらいやれよ、やれ!!!
「ひ、ぁぁぁ…」
「湊、落ち着いて!暴れちゃダメだってば!」
だけど、身体は言うことを聞いてくれない。
ガタガタと震える足はまるで生まれたての小鹿みたいで踏ん張りがまるで効かないし、立つどころか膝を立てることすら出来そうにない。
体を鍛えようと運動部にはいったのに、こんな肝心なときにどうして…!
「いいんだよ、みーくん。立たなくて。もう休もう?」
みっともなくもがく僕の頭上から、声が降ってくる。
「辛いよね、痛いよね?ごめんね。だけど、これしか渚ちゃんに勝てる方法思いつかなくて。私と一緒に向こうに行こう。そうしたら、ずっとずっと一緒にいられるから。それに―――」
それは、先ほどまでの狂気を孕んだものではない、よく知ったあの子の声。
「佐々木さんだって、きっとみーくんのことを待ってるよ」
だけどそれはこれまでのどんな言葉より、僕の胸を抉るものだった。