傷
切りつけられてようとしている幼馴染を見て、動くことの出来ない僕はきっと、男として失格なのだろう。
ヒーローならきっとこんな時は腹を抑えて、無理矢理にでも立ち上がり、やめろそんなことをするなと叫ぶはずだ。
だけど、僕は違う。
ヒーローなんかではない、ただの人間である自分にできたことは、血の止まらない中、スローモーションで動く綾乃の凶刃が渚に届こうとしているのを、ただ呆然と見続けることだけだった。
「っつ!こ、の…!」
僕はなにもできずにいたけれど、渚は違った。
強引に体を動かし、綾乃の振るう包丁の切っ先をかろうじて回避したのだ。
「渚!」
「大丈夫、湊はじっとしてて!」
なけなしの力を張り上げて渚の名前を呼ぶのだが、返ってきたのは強い口調で僕の身を案じる声だった。
大丈夫なんだろうか、そう思ったのも一瞬のこと。ポタリと床をつく雫の音に、僕は思わずハッとする。
「渚、血が…」
「じっとしててって言ったでしょ…!大丈夫、こんなのかすり傷だから」
そう言って、渚はグッと指で頬を拭う。どうやら掠めていたらしい。
命には別状はないのだろうけど、彼女の綺麗な顔に傷がついたのだと思うと、ひどく心が痛んだ。
「かすり傷、かぁ。ふふ、その割には結構グッサリいったと思うけどね。これは傷が消えないんだろうなぁ。ふふっ、ふふふふ」
「…………なにがおかしいのよ」
そんな僕の心情を知ってか知らずか、綾乃は楽しそうに笑っている。
語っている内容にちっとも笑えないし、共感もできるはずもない。
なにがそんなに嬉しいんだという憤りの感情だけが痛む腹の底から湧き上がる。
それは渚も同じらしく、ひどく真剣な声で彼女も綾乃に問いかけていた。
「だって、当然じゃない。顔に傷がある女の子なんて、誰も寄ってきやしないもん。あんなに綺麗で人気者だった渚ちゃんが、たった一本顔に線が入っただけでこれからずっと人から敬遠されて生きていくんだって思うと、もうおかしくてたまらないよ。もっと早くこうしていれば良かったかなぁ」
ケラケラと。すごく愉快そうに綾乃は話す。
なにが楽しいのか、わからない。
「あや、のぉっ…!」
この時になってようやく、僕は本当に心の底から綾乃のことを憎んだんだと思う。
これまでは僕にのみ彼女の感情が向いていた。そのことに関しては、恋愛感情以外は少なくとも受け入れていたのだ。
綾乃がこうなってしまったのは、きっと僕のせいなんだと、そう言い聞かせてきた。
だけど、これは違うだろう。
渚は綾乃にとって、一番の親友と言える仲だったじゃないか。あんなにいつも一緒で、ずっと仲が良かったじゃないか…!
「なんで、わらってるんだよぉっ…!」
そのことが、本当に。
どうしようもないほど悔しくて。
綾乃を憎いと思うと同時に、同じくらい悲しかった。