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うちのパーティありがちでして   作者: 阿古あおや
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運命に右手を捧げた日 後編

 「こっちこっち。すまないね、ちょっと借りているんだ」

 声は、斜め右上からした。


 弾かれた様にそちらを見れば、塀の上にちょこんと、騎士の人形が座っている。

 それはこの時期なら、どこででも見かけるありふれた装飾だ。


 …ありふれた騎士人形は、動いてしゃべったりしないけれど。


 「今、彼らが魔道具でずらしている空間から、さらに君たちを切り取った。

 君だけ切り取ろうと思ったんだけど…非常に言いにくいんだが、君だけじゃ、死ぬだけだからさ」


 やれやれと肩を竦める人形の言葉に、慌てて振り向く。

 ぽかんと口を開けて、クロムは俺を見ていた。

 あ、クロムはお化けとか苦手なんだっけ。怖くて固まってる?


 「おいおい、僕はお化けじゃないよ?」

 「…じゃあ、なんなんですか?」


 これが、俺が戦闘による興奮で見ている白昼夢でないのだとしたら。

 あいつらを惑わしたモノが、今度はこっちに接触してきた?


 「まず、彼らについて謝ろう。まさか、聖火騎士団が惑わされるとはね。

 全員が汚染されているとは言いたくないけれど、戦力としてはもう駄目だな。

 深く潜られると、僕でも汚染されているか否か見えない。

 敵かもしれない味方は、敵よりも厄介だ。そう思うだろう?

 ファン・ナランハル・アスラン」


 「あなたが、黄昏の君の使い魔でない保証もないですが」

 俺の名を、知っている。俺がなんだか、わかっている。

 信用するのは、危険だ。


 けど…なんというか、嫌な感じはしない。

 これがすでに相手の術中に堕ちているせいだとすれば、相当にまずい状況だ。


 「君は本当に、おかしいなあ」

 手を振りながら、声が弾む。笑っているようだ。


 「おかしい?」


 「ああ。普通はね、いきなり斬りかかられて、殺されかけたらね、何も考えられなくなるよ。

 まして、助けてくれたのかもしれないものを疑ってかかったりしない。

 君はそういうふうに育てられたのもあるだろうけど、元からちょっとおかしいよね」


 ちゃちな脚をプラプラさせて、騎士人形は言葉を続ける。


 「たまにいるんだよね。そういう人間が。恐怖を感じないわけじゃないし、痛みもある。

 なのに、あっさりとそれを越えていってしまう、頭のおかしい人間がさ。

 何度も死線を潜って身に着けたとかじゃなく、天然物のおかしさと言うのかな。

 本当に死ぬまで、自分が死ぬとは考えもせず、全力で動ける。

 絶望に支配されない、狂人と紙一重の強靭さ」


 なんで俺は、こんな騎士人形に罵倒されているのか。

 まあ、似たようなことは、親父や祖父ちゃんからも言われことがあるけれど…


 「そういう人間はね、たまにいる。

 中には一生、自分がそういう人間だと気付かずに過ごす者もいる。生まれた国や場所によっては、死の危機なんてものと死ぬまで無縁だしね」


 「えーと、それで?」


 「さらに君はもうひとつ、珍しい特性を持っている」

 ぴ、と騎士人形は俺を指差した。

 その手はただの棒を丸く削ったもので指はないから、指差すはおかしい表現かもしれないけれど。


 「君には、神の加護がない」


 「え?氏族と国の守護神たる雷帝の加護は、血統的にあると思いますけど」

 「それがね、ないんだよ。とてつもなく珍しいことに」


 普通、誰しも神の加護はある。

 生まれた国の守護神の加護があり、うちみたいに代々神を祀っていれば、その血に加護が宿る。


 それが、ない?


 まあ、確かに俺は癒しの御業が効きにくいとかあるしなあ。

 そうか。それが原因だったのか。

 でも、なんでないんだろう?自動的に付与されるものでないとしたら、いつ、どこで加護が着くんだろう?

 自動じゃないなら、誰かがやっているわけで、御使いが生まれた子供一人一人を回ってつけて回っているとか?


 それなら付与が漏れていたことは納得する。でも、もっといそうだよなあ。

 騎士人形の口振りじゃ滅多にないみたいだけど。


 騎士人形は俺を見て、ますます嬉しそうに足をぱたつかせた。


 「それそれ、その反応」


 目を瞬かせて騎士人形を見る。

 激しく反応したつもりはないのに、なんなんだ?


 「普通はね、神の加護がないなんて聞いたら、それで今こんな目に…とか、まあ、そこまで行かなくても、がっかりするよね。

 神々は、いつまでも見守ってくれる親で、その加護がないというのは、親に見捨てられたようなものだし。

 けど、君ら本当に加護のない人間は、それをまったく気にしないんだよね」


 可笑しそうに、騎士人形は肩(?)を震わせる。そんなウケることか?


 「ねぇ、ファン。

 君たち人間は、とてつもなく強い個体もいるよね。それこそ、君の兄のように」

 「そりゃあ、まあ…」

 「けれど、過去、魔王と呼ばれるような魔族の侵入があった時、そうした強者はどうなったか、君は知っている」


 過去、五回。


 世界は、大規模な侵入を経験している。そのたびに灯の英雄が現れ、魔王だの邪神だのと言う連中は倒されてきた。


 その物語の中には、その時代にすでにいた英雄と呼ばれるような人々が無残に討ち取られる描写が必ずある。


 それは、それだけ魔王が強いことを強調しての演出でもあるだろう。

 けれど、物語ではなく歴史としてみても、軍勢を率いて討伐に向かった将軍が、あっけなく戦死した記録は様々な形で残されていた。


 「何故、彼ら彼女らは敗れたんだと思う?」

 「それは…」


 灯の英雄ではなかったから。

 そう答えるのは簡単だけれど、そうじゃない気がする。


 「そこで勝てたら、ただの魔族としてしか記録に残らないから?」


 「なるほど、そういう考え方もあるね。じゃあ、何故、ただの少年少女に過ぎない灯の英雄が、歴戦の勇士を簡単に殺すような魔王を討ち取れたんだと思う?」


 「それは…」


 両者を別ける、根本的なものは灯の刻印だ。

 つまり、灯の英雄であるか、そうでないかの差。

 けれど、騎士人形の口振りだと、そう言うことじゃない…と匂わせている。


 「おっとおっと、そんなに考え込まないで。君、こういう問いかけすると何年でも考えちゃいそうだしね。先に正解を言っておこう。ああ、そんな顔しないで。普通、思い至らないから」


 塀の上に、すくりと騎士人形立ち上がった。

 本来なら、後ろから棒で支えなければ立てないはずなのに、支柱を背負っている様子はない。


 「それはね、神の加護が関係する」


 「負けた将軍らには、加護がなかったってこと…?じゃ、ないんですね。たぶん」

 なら、その逆?

 加護がないから、勝てる?


 「そう言う事。神々の加護は、基本的にどんな人間も持っている。

 遥か遥か大昔、君たち人間が『人間』としてこの世界に誕生した時からの関係だ。

 神は人を守り、人は神を祀る。

 けれど、言い方を変えれば、人の頸には神の付けた鎖が巻かれているのさ」


 人と猿を隔てるのは、神の加護の有無だと唱える学者もいる。

 神の加護、と言えば聞こえはいいけれど、つまりは神が猿をいじった結果、人間と言う動物ができたのではないかと。


 人の痕跡は、ある時突然にこの世界に現れた。


 物語では、神が育てた千個の種のひとつから人間の男女が生まれ、それからその男女が種を神からもらって育てると、たくさんの人が生まれた、と語られている。


 ただ、この物語、くれる神や育てる植物が国によって違うんだよな。


 アスランやカーランなら雷帝からだし、西方では地母神ニーメの事が多い。

 キリクやクトラでは、ヘルカとウルカが舞を踊るときに飛び散った汗が蕎麦の実におちて、そこから人間が生えてきたことになっている。


 「その鎖は、加護を授ける神に繋がっている。

 そして神は始源の創造神に同じような鎖で繋がれている。

 かつて、神々が滅びと戦ったとき、なんでマースなんていう何を司るかもはっきりしない神が先頭に立ったか…それはね、マースは始源の創造神に造られた神ではないからさ」

 「ええっと、確か、創造神の妹神が生み出した神…なんですよね」


 娘じゃなく、妹。

 神話では、何もない空間に卵が現れ、そこから創造神が生まれた。


 …空間があるならなにもなくはないじゃん、と俺は思うけれど、それはもう何千年も議論されている矛盾だ。とりあえずはそうだったと言う事にしておく。


 殻は大地に、満ちていた羊水は海になり、カラザの上半分は弟神…つまり黄昏の君となり、下半分は妹神になったと語られている。


 つまり、妹神の生みだしたマース神は創造神の影響を受けないのか。

 妹神もまた、創造神の創造物ではないから。


 「そう。彼女が、兄を止めるために自分の全てを使って生み出した、唯一始源の創造神に造られた神ではない存在。

 故に、創造神の鎖が繋がっていないんだ。

 創造神の鎖は、創造主に逆らうことを阻害する。しつけの悪い犬が思いきり鎖を引かれて悲鳴を上げるように、逆らえば首が締まる。

 人も同じさ。創造主に逆らえない神の鎖が繋がっているから、創造主に与するものに逆らえない。

 逆らおうとすれば、腕は鈍り足は止まる。

 ただの魔族ならそんなことはないけれどね。人が人同士で殺し合えるように」


 つまり、神の加護を持たない人間じゃないと、魔王と呼ばれるような存在と戦っても、必ず負けるって言うことか…

 けれど、灯の英雄もひとり戦ったわけじゃない。仲間と力を合わせ、最後は軍を率いて戦ったはずだ。 


 「うーん、今までの子の中で、一番君は話が早いというか、説明し甲斐がないなあ。もっと、ぽっかーんとして聞いて感動してほしいよ。

 まあ、いいか。何故、マース神の刻印は灯の刻印と呼ばれるのか。

 それは、マース神によって授けられても、その加護の印ではないからさ。マース神がその母ともいえる妹神より、灯と言う形で受け継いだ御力だ。

 なので、マースと言う神の名を刻むのではなく、灯を象る。

 そしてその灯は、創造神の鎖を保持者と繋がる鎖へと置き換えるんだ」


 「…!」


 「伝承に語られる味方の強化はその副作用だ。

 創造神は、創造物が偉そうに祝福を与えるのを嫌う。その縛りがなくなるからね。

 神々の加護が阻害されず届くわけだ。

 まあ、味方の強化についてはそれだけじゃないけどさ」


 騎士人形は手を上から下へと下ろした。加護が届く様子を演じているんだろうか。

 そして僅かにかがんだ体勢から、すっくと背を伸ばした。

 そもそも、騎士人形に関節はなさそうだけれど。服の下はどうなってるんだろう。


 「ただし、灯の刻印の保持者には絶対の条件がある。

 特定の神の加護がないことだ」


 黒い二つの点は、俺をしっかりと見つめ、離さない。

 神の加護を受けていない人間を、その視線で捕えようとするかのように。


 「どの神にも属さないゆえに、許される力なのさ。

 だって、その加護する神から繋がる鎖は、さらに創造神に繋がっているからね。

 逆らえば神の首が締まるだけだ。そうなれば、加護は呪いに転じる。

 それじゃ駄目なんだ。創造神の鎖が繋がる神では意味がない」


 「そんなの…」


 刻印は御業を強化し、保有者にしか使えない御業も存在する。

 兄貴の雷帝の刻印における『万軍の主』のように、神が強力な御業を刻印を通して振るってくれるものもある。


 けれど、その話が本当なら…灯の刻印はマース神の御業じゃなく、保持者の御業ってことになるのか?


 それなのまるで、灯の刻印保持者は…

 神じゃないか。創造神に繋がっていない、全く新しい神。


 「そう、その通り。もっとも、君も良く知る通り、灯の刻印は保持者を強化したりはしないけどね。神に等しい存在になるだけで、神に等しい力は持てない。

 寿命が延びたりもしないし、不老にもならない。紛い物だ。

 ただ、人が神に剣を向ける為には、紛い物でも神が必要なんだよ」


 表情は、墨でちょんちょんと書かれた点三つだけだから変わらないはずだけれど、騎士人形はなんだか少し苦しそうに見えた。


 「君たち人間は、あと千年もしないうちに自ら神の鎖を引きちぎるだろう。

 けれど、まだ駄目なんだ。まだ、神と戦うためには、神が必要なんだ。

  だから、僕はその為の生贄を毎回求める」


 「生贄…」


 「灯の英雄。彼ら彼女らは、そうして語られていく。

 けど、ただの子供に、僕は、戦いを強いる。

 己の血を流し、家族の、仲間の屍を抱き、それでも前に進めと、世界を救えと犠牲を強いる。

 まさに悪神だ。加護がないのはあの子たちの罪でも何でもないのに」


 灯の刻印は、保持者の強化はしない。

 過去、五人の英雄たちは易々と勝利を掴んだわけじゃない。

 愛する人が殺され、住んでいた国が滅ぼされ、それでも諦めずに戦ったその足跡は、きっと血の色をしている。

 それを、このひとは、己の悪行と認識している。


 それでもなお。

 罪を、犯そうとしている。

 

 「もう一度問おう。ファン」


 騎士人形は、三つの点で俺を見つめた。


 「ここで死ぬのが君と彼の運命。けれど、それを捻じ曲げるかい?」


 「もとからの運命に従った方が、遥かに安穏な人生であったとしても?」


 「君が選ぶ運命の先に、数多の屍が積み重なり、血が流されたとしても?」


 「それでも君は、諦めないと言うのかな?」


 

 「諦めない」



 騎士人形の目にあたる点をしっかりと見据えていたら、言葉は自然に口から出ていた。


 このひと…が、なんであるのか。きっと、そうなんだろうな。

 黄昏の君の使い魔だって言う可能性も捨てきれない。


 けど、違う…と思う。

 それは、ただの直感だ。根拠も何もない。


 死にたくないから、可能性にすがる?それももちろんあるけれど。

 今、このひとの言おうとしていることに従わなくても、生き残る可能性がないわけじゃない。


 けど、けどさ。


 「運命の果てに屍の山が、血の河ができるというのなら、そうはさせない。なんとかする。

 今ここで自分が死なないことも、未来で失われる誰かの命も、諦めない。

 すべて、守る」


 お前は弱い、死んだ方がましだと言われて、はいそうですね、と頷けるなら。


 俺は、自分を軽蔑する。


 俺は弱いよ。武芸の才なんてものはないし、魔力も雀の涙だ。

 かと言って軍略が得意とか、内政に見どころがあるなんてこともない。

 魅力にあふれていて、周りが盛り立ててくれるわけでもない。


 でも、だからって、弱いことを諦める言い訳にしたくは、ないんだ。


 「俺の他に、どうにかできる適合者がいて、その人が俺よりずっと英雄として相応しくて強いとしても、今の俺とクロムは助けられない」


 「うん。そうだね」


 「絶対に助けられない人の中に、俺は、俺と知っている人の名を入れたくない。アスランの民を加えたくない。

 本当にどうしようもないならともかく…どうにかできる手段が目の前にあって、それを取ったらほかの誰かが苦しんで死ぬのかも知れなくても。

 助けられる可能性だってあるのなら、迷う必要もない。

 それは、傲慢で、どうしようもなく醜い選択だ。できませんでした、ごめんなさいじゃすまないことも分かっている。

 でも、俺は、何度聞かれてもこう答えます」


 いつか、この選択を心から悔やむ日は来るだろうか。

 絶望をもっと早く受け入れていればよかったのにと、自分を罵る日は来るだろうか。

 誰かに、お前が選んだせいでと呪われる日は来るのだろうか。


 例え、そうだったとしても。


 「俺は、諦めない」


 血塗れの右手を、騎士人形へと伸ばす。


 「灯を、貸してください。マース神」



 紛い物の神にだって、なってやる。

 伸ばした右手に、チリリと熱が奔った。



 「ああ。授けよう。傲慢にして強欲な、君の手に」

 目の前にいるのは、木製の騎士人形じゃなかった。


 蒼い髪と瞳をした、若者。

 纏う鎧は体の線を隠し、彼なのか彼女なのかもわからない。

 顔も、見えているのに…どんな顔をしているのか、一瞬後にはわからなくなる。


 ただ、ひどく、辛そうに笑うなあと、思う。


 「紅鴉(ナランハル)の御贔屓よ。君がこれから戦わなくてはいけないのは、黄昏の君…そのものだ」


 手甲と手袋で覆われた手には、いつの間にか松明のような、蝋燭のような、ランタンのような、とにかく灯が握られていた。


 「あの哀れな騎士らが言ったことは、全て出鱈目じゃない。たしかに、黄昏の君の器になるためには、条件があるんだ。

 飛び切り強大な存在だからね。条件も非常に厳しい」


 魔導、呪術の基本だ。強大な力を扱うには、相応の代償がいる。

 容易い条件であれば、それなりに。難しい条件であれば、見返りは大きくなる。


 「彼を封印する際、その封印を強固にするために、解放の条件を付けなければならなかった。

 なるべく限定された、実現が不可能に近い条件。かわりに、もしその条件が満たされれば、彼は創造神に等しい力を持ったまま復活する。

 そしてその条件を、僕はこう設定した」


 灯が、俺の右手の上に掲げられる。


 「灯の刻印を持つもの、と」


 「つまり、灯の刻印保持者は、黄昏の君に対抗する唯一の手段であると同時に、その器にもなりえる…ってことですか?」

 「そう言う事。おまけに神々の鎖は、保持者の鎖へと変わるのだから、その主が黄昏の君になる」


 なるほど。それなら、聖火騎士団に目を付けたのは当たり前だ。

 灯の刻印保持者がいれば、必ずそのもとに駆け付けるのだし、味方と思っていれば付け入ることもできるだろう。

 逆に、今までよくちょっかいを出されなかったなあ。

 意外と、黄昏の君ってバカなんだろうか。


 「君は、いつから彼らが黄昏の君に惑わされていると確信したの?」

 「十三年前うんぬん、の辺りからです。創造神の眷属ならともかく、いきなり黄昏の君の話を持ち出していたし…なにより、そう言うの好きそうだなって」

 「そう言うの?」

 「必死に復活を防いでいるつもりで子供を虐殺して回っていたら、それは全部その防ごうとしていた敵のお遊びだったなんて、考えただけで心臓が痛くなります。

 けど、物語に出てくる黄昏の君の性格を考えると、好きそうなだって」

 「なるほど。君はやっぱり、紅鴉の御贔屓だなあ。加護がないのが不思議なくらいだよ」

 どうやら予想は当たっていたらしい。


 「君のことは、紅鴉から聞いたんだ。今度の二太子(ナランハル)は面白いぞって」

 「あ…実在したんですね。紅鴉って」

 「おいおい」


 あきれたように、英雄の守護神は肩を竦めたように見えた。

 相変わらず輪郭は、見えて知覚したと思うと曖昧になるんだけれど。


 「毎年、奉納の舞いまで捧げておいて、実在を疑ってたのかい?」


 「んー…うまく言えないんですけど…いなくたって、いいんです。いてもいなくても、俺は紅鴉に感謝して舞を奉納するし、旅立つ人やこれから何かをする人に紅鴉の導きがありますようにって祈ります。

 実際に紅鴉がいなくても、それは成り立つんです。なんていうかな。本当にいて、守ってくれたり、導いてくれなくてもいいんです」


 「ああ、やっぱり君は面白い。神の加護を受けていない子でも、神を不要だと言い切る子は初めて見たよ」


 「不要って言うわけじゃないんですが…」


 「ふふ、大丈夫。何となくわかったから。

 君の存在は、君がまだよちよち歩きの頃から知っていた。紅鴉が、いずれ自分の名を冠するアスランの王族が、雷帝の加護を持ってないって教えてくれてね。

 神の加護のない子は死に安い。守りが少ないから、悪しきものに囚われやすいし、ちょっとした不運を逃れることができなかったりする。

 けど、君は生まれてすぐに加護がないことが判って、その日のうちにたくさんの魔導的な守りや雷帝らの守護を祈る儀式を受けた。それに守られて、加護を持つ他の子と変わらず成長できた。

 今でも定期的に、その手の儀式は受けているだろう?」


 「俺だけじゃなくて、アスランの王族はみんな受けている…と思うんですけど」


 新月と満月の日、節季の日、アスランの祭りが行われる日…それぞれの日に儀式は行われる。

 主な儀式は基本全員参加で、その後個別に行われていたけど、俺だけ内容が違ってたのか?


 「神々の加護がないって、普通はショックに思うことだからね?君の家族はそれを君に知らせないようにしていたんだろうね。

 その家族…つまり、アスランの王族は君の強力な武器だ」


 逆に言えば、それしかないけど。

 歴代の灯の英雄に比べて随分と恵まれた立場なのは事実だ。


 魔王邪神が敵と言っても、それだけじゃない。

 直接強力な力を振るって世界を壊しにかかるためには、どうやらいろいろとした準備がいるようで、その準備のために人間が使われる。


 それは魔王の眷属に乗っ取られた国であったり、邪神を奉ずる教団であったりするけれど、人と人との戦いは避けられない。

 今まで、はじめから軍を率いていた灯の英雄はいない。なんで、最初はとにかく苦労する。

 一騎当千の武者がいたところで、本当に一対千になったら矢衾になって死ぬしな。


 その点俺は、最初から軍を動かせる立場なわけだし…。


 「戦になれば多くの血が流れる。人の心も荒れる。絶望が世界を覆い、暗く辛い日常よりも滅びによって楽になりたいと祈る。

 それこそが、創造神の眷属を召喚する下準備なんだ。

 この世界に生きる者たちの、明日を願う意志や守りたいと思う心…それが神々が張った結界なんかより、ずっと強固な盾となってこの世界を覆っている。

 絶望の闇は、その盾に穴をあける。穴からするすると入り込んで、さらに人の心を染めていく。

 だから僕は、君たちに灯を託すんだ。

 この灯で、希望の火を燈してほしいと。

 その火が、闇を退け、世界を守る篝火となるようにと」


 例えば、どこかの国が眷属によって乗っ取られたとして。

 その国が周辺諸国に攻め込み、多くの血が流れ、その侵略によって強大な軍事国家となったとしてもだ。

 アスランが大陸交易の守護者としてある限り、アスラン王国の庇護する地域までくればどうにかなると希望が持てる。


 急に難民が増えると困るけれど、今からそれに備えて対策をしていけばどうにかなる。


 難民対策…地道に教育機関を整備するのもあるけど、まずは身一つできた人々を収容できる場所の整備と、その人たちを食わせ、最終的には自立できるようにするための仕事を作ることだよな。


 食事と住居を与えて生かすことは出来るけれど、それじゃ家畜と変わらない。

 人として生きていくためには、誇りが必要だ。

 飼われてるんじゃなく、生きているんだと実感することが不可欠だ。


 なるほど。そう言う対策ひとつとっても、俺が出来る事は多い。

 アスラン南部は遊牧に向かないから放置気味だけれど、百年前、五代の御代には小国とは言え国があった場所だ。

 農地としては利用できるはず。…掘ると多分、人の骨とか出てきちゃうけれど。

 地質調査やある程度の整備をしたうえで、開拓農民を募るのはいいかもしれない。


 「君って、本当におかしいよね。

 ふふ、確かに君は一生かかっても一騎当千なんて言われることはないし、天変地異を引き起こすような魔導士にもなれない。

 けど、君はどれだけ絶望的な状況でも諦めない。

 常に考え、どうすればいいかを探し続ける。

 それは、英雄の資質だと英雄の守護神(ぼく)は思うよ」


 差し出した掌に、灯が乗せられる。


 熱いのかな、と思ったけれど、それは何の熱も痛みもなく溶けるように掌に吸い込まれていった。

 代わりに掌に浮かび上がる、灯を象った模様。

 

 灯の、刻印。


 「黄昏の君は、今度こそ自身が復活するためにいろいろな戯れを仕掛けてきている。いくつかはもう、終わってしまった。

 けれどね、彼が意図したようには終わっていない。人はそれを知らなくても、灯を掲げる英雄がまだいなくても、その戯れに一矢報いてきた。

 君の存在が彼に知られるのは時間の問題だろう。

 けれど、僕は知っている。

 君や、この世界に生きる人々は、負けない。

 愚かで無様でどうしようもなくても、賢く高潔に足掻き続ける。

 僕は、君たちを信じる」


 「…はい」


 自分にできるのかって言えば、断言できるはずはない。

 けど、やれるのかと問われれば、やる、と答える。


 うん。やるしかないなら、やらなきゃな。


 そもそも、王族として振舞えるか、相応しいことができるかっていうのが生まれた時からの無理難題なんだし。俺に王族は向いていないんだから。


 それに比べれば、世界を救う位どうってことはないさ。


 …できれば、一生何も起こってほしくはないけど。痛いのも怖いのも嫌いだし。


 「彼の戯れを戯れのうちに阻止していくんだ。

 彼は矜持が太陽の住まう大樹より高い。いくつか阻止すれば、ほんの戯れだ、本気じゃなかったとへそを曲げて諦める。それが幾つめになるかはわからないけれどね。

 連続で五回も潰されればへそを曲げるよ。君は器として彼の好みじゃないしな」


 「…好みなんてあるんですか?」

 「もっと、なんというか、絶世の、とかつく方が好みだね」

 曖昧な輪郭は、肩を竦めたようだった。

 「兄貴と立場が逆じゃなくて良かったです」

 「うん、彼はもろに好みだな。容姿もそうだし、あの雷帝が刻印を授けるくらいの才気の塊だ。

 そうそう、刻印の保持者は絶対に惑わされることはないし、君の一族は雷帝の強い加護を受けているからね。

 いつのまにかああなっているなんて言うことはないから安心して。

 …君の家族も、ちょっと…だいぶ、おかしいしね。加護がなくても惑わされないような気もするけど」


 マース神は、ちらりと俺から視線をずらした。

 目がどこにあるか曖昧だけれど、そういうのはちゃんとわかる。


 神の視線がとらえているのは、動かない騎士たちだ。


 本来ならマース神の信徒であるはずの、殺人者。

 凍ったように動かない剣士の前で、落ち葉が一枚、空中に止まっていた。


 「そうか…ここが時の狭間の神殿なのか」


 「神殿なんてご立派なものはないけれどね」

 「これ、俺だけ動いているなら、俺だけ少し年を取るんですか?」

 「うん。まあね。ここで一年過ごせば、君たちだけ一年過ぎるよ。

 百年たてば、ここから出た時には骨になっているね」


 なら、ここにマダラアカガエルの番を入れて出て、こっちで半年たった後に入って、違う模様のカエルを入れてって繰り返せば、マダラアカガエルの斑は出やすい模様とそうでない模様があるって証明が簡単にできるなあ。

 今、三世代目まで来たけれどまだ証明できるほどじゃないし。


 「いや、カエル入れられるのはちょっと…」


 「さっきから思っていたんですけど、頭の中で考えていることがわかるんですか?」

 「一応、神様だからさ…ああ、天上の神々はわざわざ人の心を読んだりしないよ。こうして相対すれば読めるし、ここは僕の造った空間だからできるよ。第一、騎士人形に声帯あると思う?」


 「ああ、なるほど。貴方の声と思うものは、声じゃなくて意志が流れてきているってことか」


 「その通り。もちろん、雑多な思考は読めないよっていうか、読まないよ。

 っていうか、僕に聞こえるほどはっきりとカエル突っ込むこと考えないでよ…君、本当におかしいな」


 今までの「おかしいな」は好意的なニュアンスだったけれど、今回のは本気で引いている感があるな。

 まあ、特殊な環境じゃ実験の結果になんか影響出るかもしれないしね。やっぱり、楽するのは駄目だ。


 「…そう言うことじゃないんだけれど…」


 「ファン!」

 カエルとオタマジャクシから意識を引っ張り出したのは、クロムの俺を呼ぶ声。


 「あ、ごめん、クロム!ほったらかしてた!大丈夫か?怖くないか?」

 クロムは大きく目を開いて、俺の左手にしがみ付いていた。裂けた皮膚がこすれて少々痛い。


 けど、我に帰ったら変な状況だし、怖いんだろう。

 お化けじゃないってことは理解したと思うけど。


 「…ばか!」


 「え、ええ?!」

 「お前、弱いくせに何言ってるんだよ!灯の英雄って、魔王とかと戦うんだぞ!お前、弱いんだからすぐ殺されちゃうじゃないか!」

 「そうならないようになんとかするさ。魔王をぶった切れなんてことは元から期待されていないだろうしな~」


 俺に期待されているのは、黄昏の君の企みを潰して回る事。

 そしてアスラン王国二太子(ナランハル・アスラン)として人々を守る事。それはもとから自分の役目だしね。


 「ばか!ばーか!ばか!そうじゃねーよ!」

 「ク、クロム?」


 目を見開いて、まだ幼さの残るほっぺたを赤く紅潮させながら、クロムはなにやら騒ぐ。

 何か言いたいんだけれど、どう言ったら良いのかわからない…そんな感じだ。

 たんたんと地団駄を踏み、うーうー唸っている。


 「ま、君には一生わからないだろうねえ。君はそっち側の人間じゃないもの」


 「え、ええ?」


 「いいんだよ。君にわからない、絶対に理解できないものだってたくさんあるんだ。その方が楽しいだろ?」


 そりゃあ、そうだけど…


 「さて。クロム・バヤル・サンサール」


 本人ですら滅多に意識しない氏名を呼ばれて、クロムは俺じゃなくマース神に意識を向けた。


 「君は、どうしたい?」


 「俺は…」

 クロムの手が、俺の左手から離れた。


 「俺は…たい」


 急に声をすぼめて、クロムはもにょもにょっと呟いた。え、なんて言ったんだ?


 「…その為に、俺は、こいつを守る!」


 「おい、クロム、守るって…」

 「うっせーばーか!お前は弱いんだから、誰かが守んなきゃすぐ死んじゃうだろ!だから、俺が守るんだよ!」


 ええええ、自分より四つ下の弟分に守られるって、どうなんだろう…


 「俺は、お前の守護者(スレン)になる!」


 アスランの王族には守護者がいる。

 本来は、同じ月に生まれて一緒に育った、同じヤルクト氏族の子供だ。

 その後も志願されて認められたら、誰だって守護者になれる。


 現状、俺には守護者はいない。

 一緒に育った奴らはいるんだけど…同じ月の生まれがいなかった。

 その場合、雷帝が守護者に相応しい者がいなかったと判断したとされるから、無条件に守護者にはならない。

 あー、こういうとこも、加護がないって関係しているのかな。


 「剣だって、乗馬だって、頑張る!もう、守られて…お前が死にそうになるの、見たくない!

 何もできない自分も、嫌だ!

 俺も戦う!あぶねーからやめろとか言ったら、殴るからな!」


 「…守るのか殴るのか、どっちなんだよ」

 「お前がやめろって言わなきゃいいんだ!」


 ふんすと鼻を鳴らして、クロムは偉そうに腕を組んだ。ちょっと涙目だけど。

 けど、今の涙は怖くて出てくる涙じゃないな。

 じゃなきゃ、こんなに強い光が目に宿っていない。


 「今は、確かに俺も弱いけど…強くなる!」


 「決意は、硬いね」

 軽い口調とは裏腹に、マース神の声は揺れていた。


 「なら君も、刻印を授かる覚悟はあるかい?」

 「え?灯の刻印って一人しか持てないんじゃ?」


 「そうだよ。それに彼には、神の加護があるしね。

 ヘルカとウルカ、アスターの三柱の加護がある。血統的には当然だけれど」


 「じゃあ、どの神の…」

 「灯の英雄の物語には、必ず登場するだろ?」


 そう、何だか投遣りに聞こえる声と共に、幽かな音が聞こえた。


 それは、俺も良く知る音だ。鼓動や、風の音と同じくらい、常に傍らにあった音。

 馬の蹄が、地を蹴る音。


 「騎士神、リークス…」


 それは、灯の英雄譚に確かに必ず登場する。

 灯の英雄と歩む者に、最もその騎士として相応しいものに刻印を授ける神として。


 それ以外にも、加護を剣と盾に宿すことができる唯一の神だ。


 騎士神の信徒でなくても、騎士として認められたものは、素養さえあればその御業を行使できる。

 普通、御業は信仰する神の者しか行使できないけど、リークス神の『剣』『盾』だけは別だ。

 逆に、リークス神の信徒であっても、触媒としての剣や盾がないと御業は行使できないし、他の神のような多彩な御業はない。


 あくまでも、『剣』と『盾』だけ。それも、そのどちらかしか行使することは出来ない。


 ただ、直接その刻印を授かった灯の騎士は、軍を覆うほどの『盾』を行使したり、巨大な敵の要塞を真っ二つにするような『剣』を行使する。

 もちろん、物語なんだし、盛っているんだろうけれど。


 馬蹄の響きは軽やかに近付いてくる。

 そして不意に、空間が裂けた。

 

 頭上を、影が舞う。


 見上げた視界に映るのは、馬の腹。

 七歳馬くらいの、未去勢の牡馬だ。

 鞍も馬帯もつけていない。裸馬で跳躍させるなんて、さすがは騎士神。


 かん、と蹄を鳴らして、馬は俺たちの前、マース神の横に降り立った。


 夏空に浮かぶ雲のような純白の毛。

 ただ、瞳だけが透き通るように碧い。


 見事な馬だ。けど、問題は…

 騎手が、いない。 


 「いっやあ~、どないしたん?自分らボロッボロやん!」

 歯を剥きだして、馬が、喋った。


 「あ、ちょお仰天してもた?してもたよなあ!アハハ、すんません!馬ですんません!」


 「紹介しよう。騎士神リークスだ」

 す、とマース神の手が馬を指す。


 「おー、ご紹介にあずかりました騎士神リークスですー。よろしゅう!」


 輪郭すら曖昧なマース神と違って、すっごくはっきり見える。

 どう見ても、馬。どっから見ても、馬。

 クロムへちらりと視線を向けると、クロムも「馬じゃねーか…」と呟いているから、やっぱり馬にしか見えないんだろう。


 「いっやあ、ほらね、神さんのマンマこっち来るとね、えらい面倒なんよ。

 ほら、(アニ)さんと(ちご)て、ボク、神殿とかあちこちにありますやん?こっち来とるってバレると、もう、わっさわっさね、神官(おっかけ)やらに囲まれてもてね?

 馬やなんかに化けとると、バレにくいんよ。馬だけにウマくいく、みたいな?アッハハハ、しょーもなー!」

 歯を剥きだし、前足の蹄で地面を蹴って笑っている。バカウケしている。

 えーと、これ、どうしたら?


 「こいつの刻印~?俺、やだ~」

 あー、うん。気持ちは、わかる。


 「ちょっとそこのキッズ!馬鹿にしたらあかんよ?馬やけど!って、しつっこいわホンマ!」

 また一人で言ってウケている…


 「ホンマはね、どちゃくそええ漢っぷりやど?そりゃもう、天界の女神ちゃんらも、こっちの別嬪さんらもね、ボクが息しただけでお股じゅんじゅわーや!」


 「じゅんじゅわー?」

 「っマース神!」

 子供に何聞かせてんだこの馬は!


 「…本当に、なんですか?」

 「本当に、なんだよ」


 マジか…本当に騎士神なのか…

 灯の英雄譚に必ず出てくるけれど描写が少ないのは、いろいろ考慮した結果なのか?それとも俺たちにだけこうなの?


 マース神の様子を見る限り、誰にでもこうな可能性が高いな…。


 「へい、キッズ。キッズはあれやろ?こん兄ちゃん守りたいんやろ?」

 「…うん」


 グイ、と伸びてきた馬の顔から一歩退きながらも、クロムは頷いた。


 「ほいたら、ボクの刻印授けてもええんやけどね。

 ごっつ、痛いで?」

 「痛い?」

 「おー、そりゃもう、大人でも()いった、()いった、ゆーくらいって、もーえーわっ!」


 なんだろう。なんだかすごく不快な気分になった。なんか差し込まれた感がすごい。また一人(?)でウケてるし。


 「だって、キッズ、ボクへの信仰心とかビックリするくらいないやん?なんならきっしょ、くらい思っとるやろ?」

 「うん」


 ガーンと口を大きく開け、馬は目を見開く。自分で言っといてそれ?


 「あー、キッズ言葉の暴力あかんて…真正面から火の玉ストレートやね…正直嫌いじゃない」

 「あの…痛いって?」

 「もうちょい拾ってほしいわあ。これやとボク、さびしんぼやん?

 まあ、ええ。ちょい真面目んなろ。いや、馬やから馬面目?…マース兄さん、尻握りつぶすんやめてもらえます?大声だしますえ?

 あー、信徒じゃないのに刻印だけっちゅうのはね、素手で熱湯受け止めるみたいなもんよ。信仰心っちゅうコップがありゃあ火傷せーへんけど、素手やからね。めちゃめちゃ熱いし、痛いし、やりすぎたら死にますわな」


 馬は再び、鼻面をクロムに近付ける。尻をマース神が鷲掴んでいるけど。


 「己の血を流しても、肉を裂いても、骨を砕いても、守りたいと願うか?」

 「…やる!」


 クロムは、もう後退りしなかった。

 真っ向から馬の顔を睨みつける。

 馬の目は横についているから、視線は合っていないけれど。


 駄目だ、危ないと止めるべき、なんだろう。


 だって、クロムはまだ子供だ。人生で一番痛かった経験は、頭に食らった拳骨ってくらいの子供だ。


 けど。


 「…!」

 鋼色の双眸は、もう揺るがない。


 子供でも。怪我してほしくない弟分でも。

 男が自分の一生をこう使うと決めた事に、誰が口を挟めるのか。

 魂を掛けた誓いを、お前には無理だと蔑めると言うのか。

 その決意を、全身全霊の意志を、俺ができることは。


 「クロム」

 

 馬から俺に向き直る。まだ幼い、小さな弟分。

 痛い思いなんてしてほしくない。血なんて流さないでほしい。

 でも、それが避けられないのなら。


 「紅鴉の守護者(ナランハル・スレン)

 

 お前が流す血を、俺は受け止める。

 その血が流れるだけの価値がある主に、俺はなる。


 「これからも、よろしく頼む」

 「…っおう!」


 震える口許を悟られないように、にっと釣り上げる。


 すいみません。先生、スーリヤさん。

 俺が、穏やかに生きる未来を奪ってしまった。

 自分と同じく薬師か医者になって貰えたら嬉しいなと願った貴方の夢を砕いてしまった。


 ごめんなさい。本当にごめんなさい。


 けれど、その罪悪感は、クロムへの侮辱だ。

 俺がそうしろと強制したんじゃない。クロムがそうすると、決意したのだから。


 クロムが心底誇れる主になることで、報いる。

 この幼い、拙い、けれど真摯な覚悟を穢さない。


 だから、いつも通り。暢気と怒られるような顔で、笑おう。

 内面のぐしゃぐしゃな後悔は、今は一番下にしまっておけ。

 泣きわめくのは、後で独りになってからだ。


 「本当の任命の儀式には、もうちょっとお互いマシな格好でな」

 声は、震えていない。よし。


 「いつ?いつやんの!?」

 食いついてきたクロムも、気付いていない。気付いてないよな。気付かないでくれ。


 「クロムが大人になってからだな…その前に、まずはちゃんと勉強して、武芸の修練してな」

 「やる!俺も士官学校行って騎士にもなる!」


 それはいいかもしれない。いきなり町の子供を守護者になんて言うと、絡んでくる奴もいるかもしれないし。

 騎士資格を取れば、実力の証明にもなるだろう。俺も推薦書を書けるしね。


 「ちょ、もし~?もーしもーしぃ?二人の世界ぶっこんでこないでもらえますぅ~?ボク、おいてけぼりですやんか」


 「あ、そだ。馬いたんだった」


 「へい、キッズ!あんまりな態度やとさすがのボクもモー怒っちゃいますよってそりゃ牛やね。しっつれいしま…マース兄さん、尻もげる!」


 リークス神の悲鳴に、さらにマース神の手の力が増したような気がするけれど、その後指を一本ずつ離していったから、本気でもぐ気はないんだろう。たぶん。


 「あー、もうボクの美尻が…じゃ、キッズ。おでこちゃん出してな」

 「おでこ?」


 首を傾げつつ、クロムは前髪を上げて額を出した。


 「まあ、きばりーや。あ、これ、馬、騎馬りーやって言ったわけやないですからね?兄さん?尻に手を掛けないでもらえます?男の人呼びますえ?

 クロム、ボクが観たとこ、お前さんごっつう才能あふれとるわけやないし、強くなるためにめちゃくちゃ努力せんといかんわ。

 なんでオドレはこんなに弱いんにゃろ?ってしんどなる日もある。

 ずっと高いとこまですいすい登ってまうあいつを、心底恨めしゅう思う日もある。

 そやけどさ、主守るっていう気持ちだけは負けたらいかんよ?

 それだけは誰にも負けんと胸はったらええんよ。どん底で上見ながら、泥んなかでバタつきながら、それだけはオドレが天辺じゃいって叫んだらええよ」


 「うん!負けない!俺、紅鴉の守護者(ナランハル・スレン)なんだから!」


 「おっしゃ!ええお返事や!気に入ったで、自分!」

 カカッとリークス神は蹄を鳴らした。


 「騎士神の刻印、クロム・バヤル・サンサールに授ける!」


 その、高らかな宣言と共に。


 クロムの額に、赤い煌めきが奔った。

 それは、盾と剣が重なったような文様。


 光が強く、明るくなっていくごとに、クロムの顔が歪む。


 「クロム!」

 「痛い…けど、痛くない!」


 鮮血がクロムの顔を染めていく。

 ぽたぽたと血を垂らしながら、それでもクロムは顔を上げ、前を見据える。


 「ええ面構えになったやん」

 に、と馬面が笑った。


 「ボクの御業は、『剣』と『盾』。せやけど、刻印保持者はそれだけやない」


 『剣』や『盾』の触媒になるような武具は何もない。刻印保持者なら、なくても使えるってことなんだろうな。


 「ええか?元の時間に戻ったらね、こういうんやで。…こしょこしょ…クロムの気合が勝ったらな、主も守れる」

 「負けるわけないだろ」


 騎士神の耳打ちに、血塗れの顔で、に、とクロムは笑いかえした。


 「おっしゃ、よー言うた!」


 出たら、か。

 「…出て、灯の刻印見せたら大人しくなるってことは、やっぱりないですかね?」

 「あると思う?」

 「ないと思います。…元々、俺一人こっちに移しても死ぬだけだって言ってましたね。クロムを最初から巻き込むつもりだったんですか?」

 「二人とも助かるためには、二人とも戦う必要がある。君は、一人でどうにかするつもりだったんだろうけど、控えめに言って君、瀕死だったからね?」


 それでも滲む苦みに、マース神は本当はそうしたくなかったことが読み取れた。

 誑かされているだけかもしれないけれど、このひとは本当は…誰も戦わせたくないんだろうな。


 俺も今、そう思っているから、わかる。


 「彼らが空間を閉ざしている魔道具は、黄昏の君が造ったものだ。君のその短剣じゃ壊せないよ」

 「なんでそんなもの…」

 「神託を夢うつつに受けたと思った。目が覚めると、見たことのない道具が傍にあって、使い方がわかる。何もないのと、どっちが信じ込めると思う?」


 半信半疑にすらさせない証拠か。

 俺なら、神託を授けてきた神と関係ない道具だったらすっごく疑うと思うけれど…そういう疑いが浮かばないように、精神支配の魔導を掛けられている可能性もあるか。


 「うん。そこまで疑うの、君くらいだと思うけれど…黄昏の君はまだ月の向こうから動けないけれど、その程度の魔道具をよこすくらい簡単にできるからね。

 もうすでに地上にあるものは、なんだって模造できると考えてくれ」

 「短剣で壊せないって言うのは…」

 「神の模造したものだよ。対人間用の術式じゃ通用しない」


 んー、そうか。じゃあ、思いきり蹴り飛ばすとかも無理か。


 「術式破壊の短剣で駄目なものを蹴ったくらいで壊せると思う?」

 「無理がありますね」

 「そうだよ…まったく。でも、大丈夫。二人で力を合わせれば、必ずうまくいくさ。君が出来る事、君にしかできない事を、よく考えて」


 マース神の姿が、薄れ始める。


 「それともうひとつ。黄昏の君は、この世界にあるすべてのものを模造できる。

 けれど、彼は、ない物を造ることはできない。

 彼はしょせん、紛い物の創造神だから」


 紛い物の創造神…


 「僕は、この世界を信じる。紛い物の戯れになんて屈しないと。

 ファン、君が傲慢に世界を救い、強欲に人を助けると信じる」


 差し出された右手に、俺も右手を差し出した。

 掌に浮かぶ、灯の刻印。


 「俺は…」


 世界を救うとか、まったく実感がないけれど。


 「俺は、もっともっと、いろいろなことが知りたい。今、不思議に思うことに答えを見つけたい。

 そのためには、世界に滅んでもらったら困るし、黄昏の君なんてわけわかんないものに邪魔されたくない。だから」


 うん。結局、こういうところが傲慢で強欲なんだろうなあ。

 正義とか、義務感だとか、そういうもので俺は灯を受け取っていない。


 俺がしたい事を邪魔されるのが我慢できない。

 気分よく生きて行く為に、目の前で可哀相なことになっている人がいるのは嫌だ。

 あの人、どうなったんだろ、大丈夫かなって曇りを抱えたくないから、出来る事を全力でやる。


 その規模が、大きくなっただけだな。


 「だから、信じていてください。俺が英雄と呼ばれることはないだろうけれど、世界はなんとかしますから」


 「うん」


 ふいに、マース神の輪郭がはっきり見えたような気がした。

 穏やかに微笑む、若い顔。


 それはほんの一瞬で、すぐに消えてしまったけれど。


 「信じるよ」


 その言葉を最後に。

 マース神は、消えた。


 ただ、今あったことが夢じゃない証拠のように。俺の足許には騎士人形が転がり。

 右掌には、灯を象った刻印が揺らめいている。


 「ほな、ボクもいきますわ。さいならっしゃー」

 「…お前は歩いて帰るのかよ…」

 「歩かんて。走るて。パカランパカランと。これがほんとのウマーキングってな!あはは!…あんね、ウォーキングとウマーキングでね、さらにほら、ボク、今、神馬やない?馬のキングもかけててね?」


 クロムの無表情な視線に、リークス神の耳がしょぼんとしなだれた。


 「ほな、また…」

 ぽくぽくと歩いて、ほんの少し振り返る。


 「あ、あの!」

 思わず上げた声に、耳をピンとたててリークス神は完全に振り返った。

 それじゃ逆に良く見えないと思うんだけどなあ。馬の目は顔の横についているんだから。


 「蹄、もうちょっと削った方が良いと思います!あと、すこし腹肉が付いてきてるんで、走らせた方が良いかなって…」


 「そっちかーい!あーホンマ君、調子狂うなあ。歴代最強やないか?そのズレっぷり。

 クロム、君の主だいぶんあれやから、しっかりツッコんでアカン奴にせぇへんよーにな?」

 「わかった。ちゃんとやる」

 「おう、きばりやっしゃ。

 ボク、君らコンビ嫌いやないよ。ちょおおかしいくらいの方が、上手くいくこともあるよって」


 ほんの僅かな溜めの後、馬体は軽やかに宙を舞った。


 「うん、きっと上手くいくで、ウマだけに!」


 来た時と同じように空間が裂け、そこに白馬は吸い込まれるように飛び込み、消えた。


 「…なんか、勝ち逃げされた気分」

 「マース神が、尻掴んでくれてるさ…たぶん」

 そう願いたい。


 「あ…」

 ふと、頬にひりつく感覚を覚えた。皮膚が弾けた場所に、風が当たっている。

 風が、吹いている。


 「…時の狭間から、俺たちも戻されるみたいだな」

 「ファン、俺の後ろにいろよ」

 俺の前に、クロムは進み出た。吹き寄せる風に、青みを帯びた髪が揺れる。


 「お前の前にいる限り、俺は絶対、負けないから!」


 落ち葉がくるりと回転して、舞っていく。

 

 「もうやめて…みんな、やめてよ!」

  

 神官女の甲高い声が、響いた。うん、こいつらも動いてるな。


 灯の刻印を見せるべきか?でも…

 掌は乾いた血でまだら模様になっているけれど、揺らめくような光はもうない。

 見せて、納得はしないだろう。けれど、注意を引いて時間を稼ぐくらいはできるんじゃないか?


 「この…ッ!次は黒焦げにしてやる!エリカ、あんたはノースの治癒を!」


 「やれるならやってみせろよ、クソが!」

 クロムの声に、一瞬魔導士女はきょとんと眼を瞬かせ、そして次の瞬間、盛大に顔を歪ませた。


 つか、俺とクロムの位置がいきなり入れ替わっていることも、クロムが流血していることも、何にも不思議に思わないんだろうか。

 自分たちが魔道具使っているんだし、相手も使っているとか…


 神が模造した品だから、人間相手の術式は通用しないと言っていた。


 なら、今の手持ちの道具でどうにかはできない。

 それなら、破壊じゃなく、機能を停止させるか、範囲外に逃れるかだ。


 マース神は、俺たちのいる空間がずらされたと言っていた。

 なら、範囲外に逃げるのは理論上無理だ。ちょっとズレた世界にいるだけなんだから。範囲がそもそも存在しないかもしれない。


 狙うべきは機能の停止だ。


 大都の水門のように、遥か彼方の水源から水を召喚し続け、発動しっぱなしの魔道具はあるにはある。

 でも、ただ「水源と水門を繋ぐ」という術式を展開している陣、そのたった一つの陣を維持するだけで、王宮と同じ規模の建物と、百人を越す魔導士によるメンテナンスがいる。

 空間をずらす、なんていう高度な術式を維持するためには、必ず相応の対価が必要なはずだ。


 黄昏の君が模造したと言っても、模造は模造。

 オリジナルにはない機能は、ないだろう。


 三人のうち、誰がその維持を行っている?対価を払っている?


 魔導士女の持つ杖の先が、光り出す。剣士が大剣を構え直す。神官女が泣きながらこちらを見ている。


 「燃え尽きろ!呪いの子!炎嵐(ファイアストーム)!」


 突っ込もうとしていた剣士が、つんのめるように止まった。

 術式を展開させるための呪文がない。陣を展開した様子もない。

 それなのに、中位以上の魔導を疲労した様子もなく連発。


 となると…いや、その前に、これはさすがに…やばい!

 クロムが巻き込まれたら、ただじゃすまない!


 けれど、クロムは怯まない。焦った様子すらなく、さらに前へ、一歩踏み出す。


 「『砦』よ…!」

 猛獣のように襲い来る炎の塊に、クロムが両手を突き出した!


 その、ほんのわずか先から広がる、光。

 それは瞬く間に範囲を増し、俺とクロムを中心とし、円形に展開していく。

 

  これが、リークス神の刻印がもたらす、御業なのか!


 「く…」

 クロムの額から、新しい血が噴き出た。言ってた通り、相当負担を掛けるんだな…

 「クロム、もうちょっと。あと、五つ頑張れ」

 「…ん!」


 いち、に、さん、し、ご。


 炎嵐の射出が終わる。陽炎が揺らぐ空気の先に、魔導士女の顔が見えた。


 子供を殺そうとするのが、そんなに笑えるもんなのか。


 俺にはわからない事もたくさんあるし、その方が世界は楽しいとマース神は言ったけれど。

 一生、わかりたくもない事が、あるな。


 「クロム、解除!」

 淡雪が水に落ちた時のように、俺たちを守った光が消えた。

 同時に、クロムがぐたりと倒れ込む。


 ごめん、クロム。助け起こしたいけれど…それより、やらなきゃなんないことがある!


 足の裏が、地面を蹴る感触。

 多分、なんか叫んでいたと思う。

 けど、それより意識を占めるのは、足を振る事。

 思いきり助走をつけて跳んで。

 空中で身体を捻って、ありったけの力を込めた蹴りを。


 神官女の頭に叩き込む!


 その瞬間に見えた、神官女の側頭部。

 髪が広がり、半分斬られた耳が見えた。

 …たしか、北方諸国の、奴隷の標。


 なるほど。滅びの慈悲を願う、絶望の闇、か。

 だからって、無関係の子供を殺していいって理由にはならないけれど。


 「…っあ!?」

 渾身の蹴りに、神官女は文字通り吹っ飛んだ。

 俺も着地は出来ず、無様に地面に叩きつけられる。


 「ファン!」

 同じく地面に転がったままのクロムが、叫ぶ。


 「エリカ…っ!きさまァ!」


 転がって見上げる視界に、大剣を振り上げる剣士の顔が見えた。

 人の脇腹に穴開けたり、雷撃食らわしたりしているのに、蹴られるのは駄目なのか。


 まあ、いい。

 目的は、達した。


 「殺すな」

 なんとか、声を絞り出した。

 あー、背中痛い。全身痛い。どこが痛いのか、わかんないくらい痛い。


 「御意」

 剣士の首にぬるりと腕を巻き付け、揚げ菓子売りのおっちゃんが答える。


 「な、んな…」

 ちらりと視線だけ動かすと、魔導士女に向けて、三本の剣が突き出されていた。


 誰かが叫ぶ声がする。悲鳴が聞こえる。


 魔道具の維持をしていたのは、神官女って言う読みは当たっていたな。


 抉られて内臓が出た傷を薄皮一枚とは言え塞いだり、深く突き刺してひねりまで入れた短剣の傷を一瞬で治すなんてことは、大司祭クラスか刻印持ちじゃないとできないだろう。

 その割に、それしかしてこない。


 魔導士女の魔導もそうだ。使い方の単純さに相応しくない術式。戦い馴れていないとか、そういうことじゃ説明がつかない。

 剣士の太刀筋にしたって、鋭すぎた。あれができるなら、もっと動けて良い。

 あのまま突っ込んできていたら、炎嵐の射線に入っていた。位置取りが悪すぎる。


 そもそも、魔導だってもっと違うのがいいだろう。こちらの動きを止めるとか、目くらましになるような。二人で戦うんなら。


 じゃあ、なんでこいつらは、こんなにちぐはぐなんだ。それを考えたら、仮定はできる。


 灯の刻印が、創造神の影響による負荷を消して仲間を強化するように。

 黄昏の君の加護もまた、そうなんだろう。より濃い影の鎖を繋いで、力を与えるんじゃないか。

 ちぐはくなのは、身に余る力を使いこなせていないからだ。


 それなら、その加護の中心にいるのは、神官だ。


 春風の女神ハーシアの神官ではなく、黄昏の君の神官。

 そりゃ、神託まで聞いているんだもんなあ。宗旨替えしちゃってる。


 きっと、魔道具も敬虔な使徒に託されている。そう予想した。

 第一、魔道具を使うにしてはあの魔導士女は高出力だが、消費魔力も高い魔導を撃っていた。魔道具の維持を気にしなくていいからだろう。

 剣士も、魔道具を維持しているにしては、こちらの魔道具に無警戒すぎる。


 やめてだの止めてだの言いながら、ほとんど動かなかった神官女が、維持を担当していたっていうのが、俺の読みだ。


 だから、意識を強制的に落とさせれば。


 維持が途切れて、停止するっていう仮説は、間違っていなかったな。


 「あー…痛い…」

 「ファン、目、閉じんなよ、ファン!」


 あ、俺、目を閉じてんのか。なんかもう、わかんないな。

 でも、大丈夫。クロム。このまま寝てたりしないよ。

 早く帰って、夕飯食べよう。今日のご飯は何かな。母さん、何作ってくれたんだろう。


 腹、減ったなあ…


***


 アスランの冬は早い。


 ほんの十日前に冬の始まりを告げる黄金の月の夜(アルタンサルンハラム)が終わったばかりだというのに、うっすらと大地は雪化粧を始めていた。


 乳白色に染まった空から、次々に雪は舞い降りる。

 大都では、それほど雪は積もらない。積もる前に風に巻き上げられて飛んでいく。

 大地ではなく大都を囲む城壁が、雪と氷で白く染まると、大都の住人たちは長く厳しい冬がどっしりと腰を据えたことを感じる。


 今はまだ、今年流行の外套を買ってみたり、内側に着る肌着を一枚増やしたりする時期だ。

 寒さも本格的なものではない。

 雪だって、地面に落ちれば溶けていく。まだ地面は、氷の冷たさになっていない。


 しかしそれでも、後ろ手に手を縛り上げられ、雪が舞い落ちる地面に跪かされ、ろくな防寒具も与えられていない状態では、骨まで震えるほど寒い。


 前に突き出された格好になっている首を挟んで、二本の槍が地面に穂先をつけている。穂先は抜身で、外気よりも地面の温度よりも冷たく、凍って見えた。

 それを握る兵士の視線も、吹き寄せる北風のようだ。


 アスラン王宮に大小十ある広場のうちのひとつ。シドゥルグ広場と名付けられたこの空間は、今、人で満ちていた。


 槍を持ち、剣を吊るした歩兵が左右に分かれて布陣し、直立不動のまま何かを待っている。


 引き出された罪人らは大軍としかわからないが、左右千人ずつ、合計二千。


 赤い布を首に巻き、揃いの革鎧に身を固めている。

 上へ向けられた槍の穂先は、真横から見れば全て重なって、一列一本しかないように見えた。

 見るものが観れば、非常に整えられた軍だとわかるだろう。


 徴兵や兵役で集められた兵では、これ程の統率は取れない。

 ここにいる二千人すべてが職業軍人であり、常日頃から訓練を繰り返し、高い士気を維持している。

 それもまた、罪人らはわからない。


 わからないが、自分たちが今からこの軍によって裁かれるためにここに引き出されたのだとは、理解わかっていた。


 「…大丈夫だ。エリカ」

 十日ぶりに見る仲間は、思ったより窶れてもおらず、拷問などを受けた様子もない。

 「リーゼがきっと、騎士団を連れてきてくれる」

 「…うん」


 あの後。気がついたら室内にいて、寝台に寝かされていた。


 そこで自分を見下ろす女性に気付き、ここはどこか、皆はどうしたのかと矢継ぎ早に質問をした。


 覚えているのは、満身創痍の少年が走ったこと。

 彼方此方に火傷を負い、血を流し、服を真っ赤に染めながら、少年はまっすぐにこちらを見ていた。


 満月の色をした、瞳。


 恐ろしい、目だった。まっすぐに、ひたすらにまっすぐに、自分を見ていた。

 そこにたぶん…殺気や、悪意はなかった、と思う。


 だがそれでも、少年は、確かに。


 何のためらいもなく、自分エリカを殺そうとしていた。

 最初に短剣を突き刺したのと同じように、一瞬の躊躇いも迷いもなく。


 それは、かつてエリカを傷付けようとしたどの目とも違っていた。

 奴隷の娘など何をしてもいいと蔑む目になら何度も見られた。

 それは知っている。恐怖や悲しみは覚えるが、慣れている。


 だが、あれは違う。

 ただまっすぐに、「邪魔なものをどける」程度の意識で、全力で殺しに来ていた。


 人間より、野生の獣に近い意志。

 必要だから殺す。ただそれだけで、殺すこと自体に喜びも忌避もない。


 自分の身体を抱きしめ、エリカは震えた。

 今更ながらに、とんでもなく忌まわしいものと対峙していたのだと恐怖する。


 「…やはり、タタル語は話せませんか。持ち物に言語理解の魔導具がありましたので、そうではないかと思っていましたが」

 「え?」


 きょとんと見上げると、軽蔑しきった顔で、女性が手を伸ばしてきた。

 びり、と全身に痺れが奔る。何らかの魔導を施されたのだと判る。


 「言語理解を掛けました。いいように取られて話が進まないのも腹立たしいので」


 冷たい声は、苛立ちと怒りをはらんでいる。

 かつて、そんな声で鞭うたれた日々を思い出し、エリカは身を固くした。


 「私は、アスラン王国大都断事官(ジャルグチ)、ユー・ホンラン。この一件の調査と断罪を大王より命じられました。初めに申し付けます。

 お前ら三人は、死罪だ。大衆の面前で、馬裂きにする」


 「え…」

 手足の指が、冷たくなる。

 しざい?うまざき?

 なんで?私が、何を?


 「ですが、聖火騎士団を名乗った以上、その命により行動をしていた可能性を鑑みます。よって、その調査結果が出るまでは処刑は保留いたします。

 自死、あるいは逃亡を図った場合は、即座に刑を執行するので」


 「ま、待ってください!私、悪いことはしてない、なんで、なんで殺されるの?!」


 縋りつくように伸ばした指先は、掠ることもなく避けられた。

 「お前らに殺された子供も、同じことを思っただろうよ…唾棄すべき糞虫が」


 ユーと名乗った女性は、鼻に皺を寄せて吐き捨てた。

 許されるのなら、唾を吐きかけたいくらいだと、その表情が語っている。


 「魔導士が、騎士団に連絡を取るからと命乞いをした。見張りと共に放ってある。精々、そのまま逃げられないよう祈るのだな」


 コツコツと靴音を鳴らして、ユーは去っていった。

 寝台しかない部屋は、独房のような…と言うより独房なのだろう。

 窓には鉄格子が嵌り、重たそうなドアに内鍵はない。

 けれど、閉まった後、閂が掛けられたような音がしていた。


 「リーゼが…」

 冷たく響いていた耳鳴りが、僅かに落ち着く。

 聖火騎士団は、三人の任務を知っている。必ず助けに来てくれるだろう。


 「ノース…リーゼ…早く会いたい」


 ハーシア様、どうか二人をお守りください。

 指を組み、少女は寝台に跪いて祈った。


 いつもなら、そうすれば耳元で聞こえる声は、聞こえなかった。

 大丈夫よと励ましてくれる、優しい囁きは訪れなかった。


 とても心細くて、エリカは跪いたまま、涙をこぼした。



 鉄格子が嵌っていても、窓自体は開けられる。

 冷たい冬の風でも外の空気を感じたくて、薄い布団にくるまりながら、エリカは外を見ていた。


 太陽が沈んだ回数は…十二回。


 その間部屋を訪れたのは、食事を持ってくる兵士と、着替えた後の服や便器を回収する中年の女の二人だけで、静かな日々が続いていた。

 だが、そんな静寂は、昨日まで。


 朝食が終わって、また布団にくるまって外を見ていると、突然ドアが開けられた。


 入ってきたのは、食事を持ってくるのとは違う兵士だ。


 その兵士が無造作に寝台に投げ出してきたのは、エリカの神官服。

 聖印やブーツも一緒くたに投げ出される。


 着ろ、と無機質な声で命じられ、出ていく様子はない。


 見知らぬ男に肌をさらす恐怖と屈辱に耐えつつ、久しぶりの自分の服に着替える。

 洗濯は当然にされておらず、汗と垢の臭いがした。


 着替えを追えると、兵士は無言で後ろ手にエリカを縛り上げ、引きずるように歩き出す。


 ささやかな抵抗は何の意味もなく、そうしてエリカは十二日ぶりに空の下に出て、ノースと顔を合わせた。

 その顔を見ただけで胸がいっぱいになって、駆け出そうとしたが兵士の手はそれを許さない。


 「エリカ!無事だったんだな…!よかった!」

 ただ、顔全体で笑ってくれた。それだけで、エリカも笑えた。


 (女神ハーシア…!私はどうなってもいい。あの人を、守って…!)


 口に出して兵士に邪魔されないよう、内心に祈りを捧げる。

 女神は応えないけれど、きっと届いたと信じる。


 腕をつかみ、兵士は無造作にエリカを停めてあった荷車へ投げ込んだ。

 暴れるノースを同じように、兵士が押し込む。すぐにエリカの首に槍が突きつけられ、ノースは動きを止めた。


 粗末な荷車に乗せられ、驢馬にひかれて連れてこられたのは、広大な壁に囲まれた広場だった。

 巨大な門が四人掛かりで開けられると、反対側にも門が見える。


 驢馬車はがらごろと広場中央へと進む。

 両脇を固める兵士の布陣に、エリカは身を固くした。

 こんな大軍を見たことはない。誰もが無表情に、ただ立っている。

 恐ろしいことが始まるのだという予感に、冷たい汗が背中を伝った。


 兵士たちの先頭列と同じ位置で、驢馬車は止められた。


 後ろから付いてきていた兵士が、エリカとノースを引き摺り下ろし、跪かせて槍を突きつける。


 「ノース…」

 「大丈夫、エリカ。きっとリーゼが…」


 繰り返される言葉に、頷く。そう、きっと大丈夫。

 こんな。

 こんな罪人を処刑するような扱いは、何かの間違いだ。


 「万人将(イル・トゥメン)ヤルトネリ!」


 高らかに、声が響き。


 『万人将、ヤルトネリ!』

 一斉に、兵が唱和する。


 その二千人分の声は大気を震わせ、舞い落ちる雪すら一瞬、吹き飛んだように思えた。


 二千人分の余韻を打ち消すように、横合いから騎馬が進みでる。

 なんとか視線を巡らせてみれば、広場の北西部に当たる場所に、陣営が設けられていた。


 乗り手などいないような軽やかさで、黒鹿毛の馬は歩みを進める。

 その鞍上の人物は、揺るぎもせず馬を進ませていた。


 兵士たちよりひときわ豪奢な鎧と毛皮で縁取られたマントは、彼の身分を示す。

 兜はなく、頭頂部だけ毛髪を残して剃られた頭と、厳つく老いた顔が白昼に晒されていた。

 年のころは、還暦をいくつか越えたあたりか。

 頭頂部だけ残し、長い三つ編みにされて首に巻き付けられた髪は、白髪により灰色に見える。


 しかし、彼を年寄りと侮るものはいないだろう。

 鋭い眼光と、引き結ばれた口許は、彼が歴戦を経てこの地位についたことを物語る。

 右手には長柄の斧を持ち、左手は馬の鞍に乗せられているが、手綱を握りこんでいる様子はない。


 馬は、ぴたりと二人の前で停止した。


 老将軍の後ろから、さらに十騎が続く。最後尾の騎兵は、何かを引き摺っていた。

 それは、大きな革袋だった。

 湿った色に染まり、それは引き摺られた跡を陣営からここまで伸ばしている。


 「開けて中を見せてやれ」


 見た目通りの太い声に、騎兵は「是!」と返答し、槍を振るった。

 鋭い輝きを雪舞う中に翻し、槍は皮袋をすぱりと裂く。


 「…!」


 中から現れたのは、肉だった。

 内臓も、筋肉も、脂肪もぐちゃぐちゃと混ざり合い、ただ肉としか表現できない。


 だが、エリカは、そしておそらくノースも、その中に見つけてしまった。


 人間の耳。

 その耳にはまった、耳飾り。


 「聖火騎士団は、お前らの事なぞ一切知らぬと答えた」


 よく見れば、その周辺にあるのは、髪だ。

 血に染まり、頭皮や脳と混ざり合ってはいるが、一束、二束と固まって残っている。


 ずるり、と肉の塊が支えを失ってしたたり落ちた。


 雪と土の上に、肉片が零れる。

 その中から二人を見つめる、眼球。


 それが友人の目の色と同じだと、耳飾りもそうだと認識した瞬間、エリカは朝食を吐き出していた。


 「この女は、その日の夜に見張りに魔導を放ち、逃亡を謀った。故に、先に処罰を与えた。皮袋に詰めて三日。声がしたのは初日の夜明けまでだったがな」


 「リーゼぇえええ!!!」


 ノースが叫んだ瞬間、その肩に兵士の膝が乗せられる。

 あっけなく地面に叩き伏せられ、エリカの吐瀉物に顔を押し付けられながらも、ノースは半狂乱で叫び続けた。


 「殺してやる!絶対に殺す!何故、なぜこんな惨いことをされなければならないんだ!」


 「子供を殺し、世界の敵たる黄昏を奉じた。そして、さらに重大な罪を犯したからだ」


 「違う!俺は、俺たちは、黄昏の君から世界を救おうと…!」


 「そこの女。女神ハーシアの神殿より届いた」

 その必死の叫びを一切無視し、老将軍が手を挙げると、横に立っていた兵士が一枚の紙を広げ、エリカへと示す。

 そこには、何か文字が並んでいる。

 だが、エリカにわかるのはハーシアの聖印である、菫を象った印章が押されている事だけだ。


 「…ふん。字が読めんのか。なら、教えてやろう。

 お前は、破門された。お前はただの逃亡奴隷に戻ったのだ」


 「…嘘…」


 「露骨な尻尾きりだ。聖火騎士団とやらも、春風の女神も実にわかりやすい。

 破門と言う処罰を下し、元からいなかったことにはせんかった神殿は、多少褒めてもよいがな」


 「うそ、うそです…そんなことありません…私は、私は、ハーシア様に命じられて…」


 「罪もない子を殺して回ったというのならば、それこそ女神への侮辱であろうが」


 「違う!これは、そうだ、お前らこそ、黄昏の君に操られているんだ…っ!くそ、こんな大国にまで…」


 「黙れィ!」


 老将軍の大喝は、二千人の唱和よりも激しく大気を震わせた。

 びりびりと叩きつけられた怒気は、二人の魂をも打ち据え、その口を閉ざす。

 足元が雪解けではなく濡れだしたことに、二人を抑える兵士が微かに顔を顰めた。


 「さらにこの、大アスランを侮辱するか!

 このヤルトネリを、邪神の手先と愚弄するか!

 大祖より受け継がれし黄金の血統(アルタン・ウルク)は、何者の支配も受けぬわ!

 その黄金の血に仕えし我ら十二狗将が、邪神の声などに惑うことは、ないッ!!」


 虎の吠え声と評される将軍の怒号に被さるように、銅鑼の音が響いた。

 その瞬間、将軍は口を閉じ、馬から滑るように降りる。

 後に続いてた騎兵らも、音もなく地に降り、膝をつく。


 ざん、と空気が鳴った。

 二千人の兵らが一糸乱れぬ動きで、一斉に跪く。


 それを待っていたかのように、正面にあった門が開いた。


 まず進み出たのは、騎馬兵。

 騎馬の胸には赤い布が飾られ、騎乗する兵はそれぞれ一振りずつ、旗を掲げている。

 雪風に翻るその旗は、赤く紅く染められ、中央に翼を広げた鴉の刺繍が施されていた。


 「紅鴉(ナランハル)紅鴉(ナランハル)!」

 旗を掲げる兵が声を響かせる。


 『紅鴉!紅鴉!』


 再び、兵がそれに唱和を返した。

 跪きはしないが、老将軍ヤルトネリもまた、声を張り上げている。

 先ほどの凄まじい怒気はなく、むしろ愛しいものを見つめるような瞳で、騎馬兵の先を見ていた。


 旗持の騎馬兵は左右に分かれて進み、その後ろに従っていた一回り小さい旗を付けた槍を持つ騎馬兵も、同じように続く。 


 左右にそれぞれ五隊、五十騎、合わせて百騎の兵が整列を完了すると、その前に一騎、緩やかな足取りで馬が進んでいった。


 馬上、淡い金色の髪を風に揺らしているのは、まだ少年。


 編み込まれ、結い上げられた髪は、ところどころ不自然に切れてはみ出ている。良く日に焼けた健康そうな頬には膏薬が貼られ、その白さが痛々しい。


 「ナランハル!千歳申し上げる!」


 胸に拳をつけ、老将軍は声を上げた。心の底から沸き立つ喜びを込めた声。

 老将軍がどれほどこの少年を慕っているか、この声だけで分かるだろう。


 『千歳申し上げる!』


 二千と百十騎が続く。機械的な発声ではない。

 老将軍と同じく、いまここに在れること、少年の前に立てることが誇らしいと、叫んでいるような熱がある。


 「ありがとう。ヤルト爺も兵の皆も壮健であるな。喜ばしいことだ」


 「もったいなきお言葉にございます…!」

 軽く上げられた手は、指先まで包帯に覆われている。それを目にし、斧の柄を握る将軍の肩が膨らんだ。

 「なんと…おいたわしや…」

 視線は馬上の少年から離さず、ただ怒りの気が地に押し付けられる二人へと向かう。

 押さえつける体が震え、槍がカチカチと鳴った。


 「もう痛くはない。心配をかけてすまないな」

 「ナランハル…なんと、なんとご立派になられてッ!」

 「え…?そんな立派なこと言ったかな?」


 ずん、と洟をすすって、老将軍ヤルトネリは大きく頷いた。


 「ああ、ナランハルがまだ髪を伸ばしておられませぬ頃、転んで泣いた日を思い出しまする…あの時も、すぐに泣き止まれて、痛くはないと立ちあがられた…あの頃より、この老い耄れはナランハルの成長を短い老い先の楽しみに…」


 「それは後に回してください。将軍」

 冷たい声は、少年の後方から響いた。


 コツコツと靴音を鳴らし、馬の後ろから歩み出たのは、断事官ユー・ホンラン。

 久しぶりに見るその顔に、エリカは縋るように叫んだ。


 「おねがい!これは間違いなの!違うの!私たちは…!」


 友人だった肉塊。押さえつけられた想い人。地面を濡らす、自分から排出された汚物。


 「…たすけて、ください…いのち、だけ…は」

 その汚泥に、擦り込むように額をつける。


 「なんでもします…なんでもしますから…たすけて、死にたく、ない…」


 「エリカ…」

 茫然と呟く男の声も、命乞いが掻き消していく。


 「先に申し渡した。お前ら糞虫は馬裂きだと。

 今更命乞いをしたところでそれは覆らぬ」

 だが、ユーの声は吹き付ける風よりもさらに冷たく、容赦はなかった。


 「おねがいします、おねがいします…なんでもする、しますから…」


 「黙らせろ」

 ユーの冷たい声に、エリカの首を兵士の靴底が踏みつけた。

 声を封じられ、エリカはそれでもひたすら視線を上げた。

 媚び諂うべき相手を探し、彷徨わせる。


 「…!」


 滲む視界が見付けた、この場で一番身分が高いと思われる、ナランハルと呼ばれた少年。


 その、満月色の双眸。

 全身が、どうしようもなく、絶望によって弛緩した。


 「お前らは、大罪を犯した。その罪を告げる。

 ひとつ、黄昏の君に惑わされた。

 ふたつ、唆されるまま、子供を殺して回った。

 みっつ」


 ああ、これは、もう、だめだ。


 「我がアスラン王国二太子、ファン・ナランハル・アスランの御身を傷付けた。

 あまつさえ、その御命を害さんとした。

 アスラン王国法により、馬裂きの刑とする」


 なんで、なんでこうなるのか。

 奴隷として生まれて、何をしてもいい道具の様に扱われて。

 小作人の子だったノースと共に、聖火騎士団の騎士に救われて、同じような境遇だったリーゼとも仲良くなって。


 世界を救いたいと、そう思っただけなのに。


 「だが」

 若干のいら立ちを込めて、ユーは言葉を続けた。

 「その境遇、また、黄昏の君の術にどれほどの人間が逆らえるというのかと、ナランハルは減刑を命じられた」


 弛緩していた身体に、血の流れが戻る。

 減刑。

 確かに、ユーはそう言った。


 一生、牢に繋がれるのかもしれない。

 でも、生きて行けるなら、恩赦がでるかもしれない。

 誤解が解けて、助けられるかもしれない。


 ああ、良かった。ハーシア様、ありがとうございます…!


 祈る形に手は組めない。ただ地面に押し付けられたまま、もごもごと呟くだけではあったが、女神へと感謝を捧げる。


 ふと、半分しかない耳に、暖かいものを感じた。

 女神の神託が届く前兆。


 『エリカ』

 柔らかい、暖かい声。ハーシア様だと、涙がこぼれた。

 『お前は、実に愚かだね。ああ、楽しかった』

 

 「え…」


 ねちゃり、と耳に滴った、甘ったるい声。

 心底嘲笑い、愉快そうな、声。


 「馬裂きの刑を減じ、斬首とする。罪人を引っ立てよ!」


 兵士が腕をつかみ、立ち上がらせても、かつて春風の女神の声を聴いていた少女は、何の反応も示さなかった。

 


 「首は検めた。下げてよい」

 うつろな表情を晒す二つの生首と、そもそも顔がどこかわからない肉塊を前に、ファンは頷いた。


 設えられた床几は、羊の毛皮が何重にも被せられ、ふんわりと傷が癒えていない身体を受け止めている。


 あの大立ち回りの後、気絶している間にファンを診断した医者は、脇腹の裂傷と大量の出血により、生きているのが不思議なくらいだと呟いた。


 もちろん両親は激怒し、知らせを聞いた祖父まで駆けつけた。

 翌日目が覚めた後にファンがまず行ったことは、家族をなだめすかして状況の説明をすることだった。


 あまりにも周りが怒りすぎて却って冷静になっていた母が一同を叱り飛ばさなければ、寝ている間に刑は執行されていたかもしれない。


 「斬首でよろしかったのですか?このような糞虫、馬裂きでも生ぬるいと思うのですが…」 

 「然り。凌遅刑か箱刑でよろしかったのでは」


 「…それでもし、黄昏の君が何らかの手を使って、魔族を降臨させたら大惨事になる。だから、これで良かったんだよ」


 殺すのに、苦痛を長引かせる必要はない。ファンはそう思う。

 どれほどの悪人であっても、いたぶり殺すような方法はとるべきではない。

 ただ殺すだけじゃ許せないという、被害者や遺族の言うこともわかる。


 だが、それでも。

 自分が裁量を振るえる場合は、そうしたくなかった。


 それと、魔族降臨の防止とどっちが建前で本音なのかは…自分ファンにもよくわからない。


 「灯の刻印が授与された以上、世界に危機は迫っている。少しでも、その可能性は除外しなきゃ」


 「ナランハル…」


 「なんと、なんとほんにご立派な…!

 この老い耄れめは、今、とてもとてもナランハルのご成長が嬉しゅうございます!

 ああ、思い起こせば十六年前、ひと際よい風の日が吹く日でございましたな。あの日、朝早く産屋に籠られた后妃(ハトゥン)様が…」


 「お静まりを、爺。老い先短い一生をカっとなってやった。だが後悔はしていない的に終わらせたくはないでしょう?」

 「…お前に殴られたくらいでは死にゃせんわい」

 そう言いつつ、ユーの手に重たそうな金属製のコップが握られているのを見つけて、目を見張る。


 「二人とも、頼むから俺の目の前で衝動型殺人しないでくれ…」

 「はい。ナランハル」

 「おお、なんとお優しい…さて、ナランハル。お体に障ります。本日は戻られませい」


 「ん、そうだね」

 座っているだけなのに、酷く眠たく、だるい。

 大量に流れ出た血は、体力をごっそりと奪っていた。

 この冬の風に長く晒されているのは、間違いなくよくない事だろう。

 あれだけ抗った死に、風邪ひいて負けたら流石に情けない。


 「簡単に、死ねなくなったしな…」

 包帯にくるまれた右手を、掲げる。


 今は見えない、灯の刻印。


 マース神の告げた事が真実ならば、灯の刻印がなければ人間側は戦うことも許されない。


 だが同時に、保持者がいなければ黄昏の君は復活できない。


 過去の侵略は、灯の刻印保持者を作り出すためのものだった、と言う可能性だってある。

 どうやって器となる保持者に黄昏の君を降ろすのかは語られなかったが、多分ろくでもない事なんだろう。


 この一件もまた、黄昏の君の戯れに過ぎないというなら。


 もし、自分らが殺されていたら、どうなっていたか。

 アスラン王国は、両親や兄は、きっと僅かな痕跡からでもあの三人を特定し、聖火騎士団や春風の女神の神殿ごと報復していたに違いない。


 (今、兄貴居なくて良かったなあ)

 いたらきっと、気絶している間に聖火騎士団が壊滅している。


 (でもさ。逆に、器がもういるなら、今迄みたいな大規模な侵攻をして、神々や諸国の注意を引くことはないんじゃないか?)


 黄昏の君は、悪質な悪戯を好み、困惑と混乱を好む。

 そのやり方は、今までの侵攻と少し違う。

 もっと静かに、悪質に、何かを仕掛けてきているんじゃないだろうか。


 時が来るまで、種が冬を越すように、春の芽吹きに備えてひっそりと変化しているように。

 そして時が来れば、一斉に混沌の芽が飛び出し、世界を絶望の蔓草が覆っていく。


 運ばれていく生首へ視線を向ける。

 彼らも、その蔓草に巻き取られた、ある意味では被害者だ。


 処刑までの間に、彼らについてある程度の事は調べられていた。聖火騎士団に属していたのも本当の事だ。ただし、既に追放になっているが。


 彼らが《《神託》》を受けたのは、二年前。


 あの剣士は、貧しい小作人の生まれだった。

 両親を早くになくし、親代わりの兄が育てていたが、ある日住んでいた村が野盗に襲われ、彼は奴隷として連れていかれてしまう。

 その野党の根城を聖火騎士団が制圧し、既に奴隷として使われていた神官女ともども騎士団へ引き取られ、そこで成長した。


 立派な聖騎士になって聖火騎士団の一員になるという夢は、貧弱な体格と筋力、それに元からの素質のなさが邪魔をして、叶えられていなかったが。

 だが、下働きでも聖火騎士団の一員には違いない。そんな剣士の元に、襲撃で死んだと思っていた兄が現れた。


 村が壊滅した日、兄はなんとか隣村に逃げ込み、その村の娘と結婚していた。

 村を壊滅させた野盗は聖火騎士団が倒したのだと聞いて、お礼を言いにやってきたところ、弟が生きているのを知ったのだ。


 自分の土地を持つ農民となっていた兄は、小さな男の子を甥だと剣士に紹介した。

 裕福ではないが幸せな家庭を持てて、自分は幸せだと、お前にも幸せになってほしいんだと語る兄。

 その何が、彼の分水嶺を超えさせてしまったのかはわからない。

 ただ、その再会に立ち会った騎士は、兄の願いを聞いた途端、弟から再会の喜びが消えたようだったと語っている。


 お前も聖騎士になるなんて言うかなわない夢は捨てて、所帯を持って、幸せになっとくれ。

 また一緒に暮らして、畑を耕そう。手も足りないんだ。妻もきっと喜んで迎えてくれる。

 優しい、いい女なんだよ。お前の覚えていない、母さんみたいに。

 

 兄は、弟にそう願った。

 それは至極もっともなもので、けっして弟を馬鹿にしたわけではない。

 成人の年になっても下働きのままなら、騎士になるのは不可能だ。

 彼よりも若い少年たちはとっくに騎士見習いになり、騎士叙勲を受けたものすらいる。


 一生騎士団の下働きより、兄と共に家に戻り、畑を耕し、やがて妻を娶って独立した方がずっと意義のある生き方だろう。


 しかし、弟は、考えておくと言って、兄の願いにすぐには同意しなかった。


 翌日、悲鳴を聞いて駆け付けた騎士たちが見たものは、斬られて絶命した親子の姿。


 それ以来、剣士らは姿を消した。むしろ、親子を殺した犯人が、剣士たちを連れて行ったのかもしれないと思っていたのだと、弁明に来た騎士は語った。

 マース神に誓って、あんな凶行を任務などと認めたはずはないと、熱弁を振るい、自分たちも被害者なのだと言わんばかりだ。

 それにしては捜索をしている気配は見つからなかったが。


 農民の親子が殺された件を解明しても、世間はすぐに忘れるからでしょうよ、とユーは鼻に皺を寄せながら感想を述べた。ファンも同意見だ。


 そう、きっと、聖火騎士団にとって、野盗を倒すことは大事なことだったのだ。

 大きく称賛を浴び、流石は聖火騎士団と謳われる行為。

 それに対して、元奴隷の下働きが、兄と甥を殺して逃げたことは、むしろ恥だ。なかったことにしようと目を逸らしたのだろう。


 誰か一人でも彼らを気にかけて探していれば、もっと…彼らも救われたかもしれない。


 そして、多くの子供が、今も生きていたかもしれない。

 彼らは歪んだ。愚かだった。甘い毒を飲み干してしまった。

 誰にも注目されず、孤独で、辛くて、真実よりも優しい嘘を信じてしまった。

 けれど、毒を飲ませた張本人が、彼らよりも罪が軽いなんてことは、ない。


 (俺は、あんたが大嫌いだよ。黄昏の君よ。そのやり口は、反吐が出る)


 その日は、やっぱり来てほしくない。

 怖いことは嫌だ。痛いのは辛い。しんどいことはやりたくない。

 悪意や憎しみや悲しみをたっぷり頭から浴びて、死を隣に引き連れて、それでも目を開いて前を向くのは、叫びだしたくなるほど恐ろしい。


 でも。

 そんな大嫌いな奴に、尻尾を巻いて逃げるのは、もっと御免だ。

 

(その時が来たら、俺は、逃げない)


 右手を伸ばした運命のはじまりが、やってきたら。

 震えていても、へっぴり腰でも、半泣きであっても。


 (俺は天才でも英雄でもないけど。意地くらいは張れるさ)


 床几から立ち上がると、眩暈がした。ふらりと揺れる身体を、すぐ横に控えていたユーが支えてくれる。


 「ありがとう。…きっと俺はこうして、いろんな人に支えられていくんだろうな」 


 「…ナランハル。御身が、その魂が腐り切った糞にも劣るものであれば、誰もこうして支えません。支えられるのもまた、ひとつの武器と思いませ」

 ファンの言葉に、ユーがしかめっ面で諫言を述べる。

 とはいえ、声音は温かく、柔らかい。

 

 「この娘の言い方は無礼にもほどがございますが、その通りに御座います。

 大王も、一太子(オドンナルガ)も、我々は黄金の血統だからと頭を垂れ、命をかけるのでは御座らぬ。

 その魂が、黄金の血統に相応しき御方と思えばこそ。

 ナランハルもまた、然り」

 ヤルトネリもまた、重々しく頷く。


 「あなたは、支えられるのが当然と思っておられる。

 けれどそれは、御身が我らに示し、見せてきた姿によるもの。

 これからも、傲然と顔を上げ、理不尽を踏みにじり、お心のままに善行を行われよ。

 可哀相だから救う。納得できないから怒る。それが誰が相手であっても、何が相手であっても。


 それでこそ、最も高き天を往く、紅鴉ナランハルに御座います」


 それがどれほど難しい事か、彼らは分かっている。

 身分や、財力や、地位や、しがらみや、様々なものが、「良い」と判っていることを妨げる。


 けれど、この少年は、その全てを蹴飛ばせる立場にいるのだ。


 いやきっと、例えアスランの王子と言う立場などなくても、きっとそうする。

 そんな予感がする。


 それを見てみたいと思わせるのは、立派な資質だ。


 人が理想を、諦めた想いを託せるそのことこそ、王たるもの、英雄たるものの資質だ。

 きっと、本人は一生気付かないのだろうけれども。


 「ありがとう。肝に銘じるよ。黄金の血統(アルタン・ウルク)に恥じるような事だけはしないと約束する」

 「御意」


 雪は、いつの間にか止んでいた。

 しかし、またすぐに降りだし、これから街外れに晒される罪人の首にも舞い降りる。


 白い雪は、兄と甥を殺して逃げ、大都で子供を襲って警備隊に取り押さえられた狂人として晒された首を、凍り付かせるだろう。

 凍った首は一日二日は注目を集め、やがて腹をすかせた鴉程度にしか見向きもされなくなり、雑に掘られた穴に放り込まれて朽ちていくだろう。


 彼らが目指していたもの、なりたかったものが何なのか誰にも知られずに、朽ちていくだろう。

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