「些かうんざりします」
「オン キリキリ バザラ ウン ハッタ」
「オン アミリテイ ウン ハッタ」
「ナウボウアラタンナウ タラヤヤ ノウマクシセンダ マカバサラクロダヤ トロトロ チヒッタチヒッタ マンダマンダ カナカナ アミリテイ ウン ハッタ ソワカ」
大地が割れ、錠はその隙間深くに飲み込まれていった。地獄の火炎がその身を焦がし、苦痛だけが永遠に残される。何もない無の世界で、死よりも過酷な無限の苦悶、苦悩、苦難が繰り返される。
「オン キリキリ バザラ ウン ハッタ」
「オン アミリテイ ウン ハッタ」
「オーン!」
「オーン!」
「オーン!」
「祓いたまえ、浄めたまえ!」
錠は、大地の上で静かに伏せていた。穏やかな呼吸を繰返し、無心の胸中には涙が溢れている。自身の身に何が起こったのか分からない。生きているのか、死んでいるのか。只、これが地獄なのだと感じられた。勿論自覚したわけではない。見知らぬ世界を捉えただけだった。
「この手を取れ!」
地獄に差し出された猛々しい腕。その手には独鈷杵が握られている。錠は躊躇なくその腕を鷲掴んだ。
「鍵屋錠。これがお前の真実の未来だ。死して尚、お前は苦しみ続ける。それが節理だ」
豪胆な怒号のような声が、天から降ってくるように聞こえた。神の怒り。神の罰。そして、神の許し。
錠は、くわっと目を見開いた。もはや、これは夢などではない。紛れもない現実だ。
「止めてくださいよ。そう何度もされれば、些かうんざりします」
がっちりと握り締めた腕の先に、酒刀 神寺【しゅとう しんじ】が笑っている。宗教学部の三回生で、この若年で寺の住職を受け継いだ。独鈷杵は寺の宝物だった。
「それに男の手をとって、喜ぶ趣味なんてのはないですよ」
口を尖らせて錠は抗議した。しかし、神寺には聞こえていない。息からだけではなく、全身から酒の臭いがしている。たったの今まで飲んでいたのかと思われる程に、目つきが怖いほどに座っていた。
こいつには飽きれてしまう。錠は後輩でありながら、こいつのようにはなりたくはないと思っていた。何処かの寺の住職だという。昨年に親父さんが亡くなって、それを継いだのだ。檀家も多いと聞いている。だから、この大学で宗教学を専攻しているが、その素行が悪過ぎた。性格が粗暴なのが何よりも悪い。しかも、なまじっか剛腕である為に、大学仲間からは疎まれている。寺の生まれであるからか、説法にも長けているので、敵視されてしまえばこれほど悪い相手はいなかった。
「鍵屋錠が、古書文庫を心地良く思っていないのは、何故なのか」
また始まったと思った。こうなると話が長くなる。講釈は分かり切った御託を並べ続け、遂には結論を出さない。それがこの男の説法だった。
「古書文庫をどれほど知って、そう思ってしまったかは明白だ。古来、個人というものは大勢に流されてしまう。噂されていることが事実かどうかなどは、どうでもいいのだ。そうだろう、鍵屋錠?」
「いつも文庫さんに睨まれているんですよ。噂だとか、事実だとかは、関係ないんじゃないですか。心地良く思えないと感じてしまっただけというのが、俺の答えですよ」
錠は内心で舌打ちをした。答えるべきではないと分かっていた筈なのに、黙ってはいられなくなってしまった。それが神寺の策略だとも分かっていた。それを証明するように神寺がしてやったりとばかりに笑っていた。
「人には大なりは大なりに、小なりは小なりに、他人と向き合いながら生きているだ。古書文庫とて、さもありなん。それなのに鍵屋錠は少しの思い遣りもなく、真実を見ようともしない。まさに人としてあるまじき所業であろう」
傲然と言い放つ神寺は、錠を完膚なきまでに叩きのめした。これで錠は文庫に対する断罪の念を負わされてしまう。この後、文庫にどのように対応すれば良いのか。錠は頭を打ち付けられた気がしていた。
「酒刀君。それくらいにしておいてあげなさいよ。鍵屋君は聡い感覚を持っている。十分な感受性があるはずだがね」
文庫と一緒に行ってしまった歴史が戻って来ていた。冷たい視線を向けて、錠と神寺を観察している。これが歴史の人となりだ。見る目を持っているということなら、どのようにこの二人を見ていたのだろうか。
キャンパスは学生たちで溢れ出した。一講目が終わった時刻になっていた。ほんの十分しかない休憩時間を取って、次の授業が始まる。
ちらりと腕時計を確認した錠は、無表情で能面のような顔つきで歩き出した。いつもの進捗状況に戻ろう。気を取り直して、何事も無かったかのように振舞おう。