「黙りなさい!」
「扇!」
突然背後から女性の呼ぶ声がした。少しハスキーな低い声だ。周りの学生たちが振り返ってしまうほどの大音量で、声がかすれてしまっているのはそれが原因なのかもしれない。
「扇。授業を抜け出して、何をしているの?」
赤いレザーのジャケットと黒のレザーパンツを着た長身で、手足が長くしなやかな体躯をしている。赤いブーツが目立って、一目でバイク乗りだと分かった。
「あら、彩音ちゃん。ここにいるのが良く分かったわね」
「黙りなさい。こんな奴と会う為に来たとでも?」
錠はこんな奴と呼ばれて、ムッとした。このレザーのジャケットの姿には、はっきりとした見覚えがある。扇と同じくサークルの新入部員だった。この大学の学生らしくない装いが、記憶に残されていた。
彩音は錠を睨み付けるように見下した。
「こんな奴のどこがいいの? 冴えない男なんて相手にしていても仕方ないじゃない」
掌を扇の頭に当てて、彩音は諭すように言っている。まるで幼い子供を相手にしているかのように見える。悪い道へと踏み外そうとしている歳の離れた妹と、しっかり者で物の分別がよく出来る姉が、突然現れたかのようだった。
「あのぉ」
出会い頭の事故に遭った気分だ。そこで錠は先輩としての威厳を示すべきだと思った。
「君は他人との口の利き方を、もっと―――」
「黙りなさい! 今、私は扇と話をしている。横から口を出すな!」
彩音の鋭い眼つきに、錠はたじろいでしまった。この女は恐ろしい。言葉を遮られると、まるで負け犬のように尻尾を丸めて惨めになった。
「そうよね、彩音ちゃん。でも、この人は先輩なんだよ。敬語を使ってあげなきゃ」
鋭い眼つきのままで、睨んでいる。何が気に入らないと言うのか。冴えないと言っても、錠はこの大学ではごく平凡な学生らしく勉学している。今日はたまたま寝坊しただけで、普段はまじめに授業に出ているのだ。
それだから冴えないのだと言うのならば、もはやどうにもならない。成績は優秀だが、いつもベストテンには入っていない。ランキング外。残念な男。その他大勢。
「先輩なら、先輩らしく後輩の手本になってみせろ。ただ年上なだけで、敬ってもらえると考えるな」
ぐうの音も出ないではないか。御尤もなことだ。錠は今までそんなことを考えて先輩であったことなど無かった。少しばかり早く生まれただけで、年下に偉ぶることが出来ると思い込んでいた。
「君の――― 。君は、何て名前なんだい?」
本当は、君の言う通りだと言っていた。だが、錠の自尊心がそれを言うことを許さなかった。
「五色 彩音【ごしき あやね】。二度も自己紹介をさせられるなんて思わなかった。私は目立つので、皆の印象に残るらしいのにね」
確かにその通りだった。扇が「彩音ちゃん」と呼んでいても、どこかに聞き覚えがあった。
「だったら、二度と忘れられないように、これをあげる」
彩音は背中のバッグから、鹿革製のロールタイプのペンケースを取り出した。中央に巻かれた革紐を解くと、一枚の皮が広がり七つのポケットに五色のペンと笛のような楽器が刺さっていた。
『五色 彩音』
赤い付箋紙に緑色のインクで書いた名前が鮮やかに映えている。
「へえぇ、万年筆なんて使っている学生って珍しいね」
彩音は付箋を錠の前のテーブルに貼り付けた。名刺代わりにするつもりだった。これだけのことをすれば、忘れたなどとは今後一切言わせない。
「緑、青、紫、赤、黄。そうか、マンセル色だね」
錠は鹿革のペンケースに刺さっている万年筆の色を見て言った。塗装の色見本に使用しているので、錠には馴染みがあった。それに楽器が気になった。どうやら二つに分離ざれているようで、合体させれば三十センチくらいになる笛だった。
「宜しく。鍵屋錠です」
自然に手を差し出して、錠は握手を求めた。
「初対面に近い女性に触れようとするのか? 無礼な奴だな」
「違うよ。そんなつもりはないよ」
慌てて釈明しようとしたが、彩音はもうそんなことを聞いてはいなかった。
「扇、行くよ。急げば、あと三十分は授業を受けられる」
「えぇ? 彩音ちゃんてば、その外見とは全然違う真面目っ子なんだから」
赤いレザージャケットを見て、扇は彩音に指まで差した。
「黙れ、扇。学生なんだから、当たり前だろ」
いよいよ口調が厳しくなった。のんびりして言う通りにしない扇を、力尽くで連れて行こうと左の手首を掴んだ。
「はいはい、分りました。じゃあ後でね、鍵屋先輩」
「じゃあね。扇ちゃん、彩音ちゃん」
そう言うと、彩音が物凄い目つきで錠を睨んだ。いい加減にしろと言うことだ。しかし、錠にはそれが伝わっていない振りをした。察することがない。言ってやらなければ、分からない奴を演じることにした。
扇は掴まれて引っ張られている左腕を伸ばして、ブーンと言いながら体を揺らした。少し仰け反ったり、背を向けたりしてふざけている。何時だってこんな調子で、扇は彩音と接していた。
「正反対の二人だな」
錠は、食堂から出て行く二人を見送って吐息をついた。やっと落ち着いて食事が出来る。本来はそれが目的だったのだ。すっかり冷めてしまったどんぶり飯に、玉子を掛けた。何もかも台無しになった気がする。