「お互い様ですね」
「どうして望遠レンズなんだ?」
「広角域だって撮れますよ」
彼女はどんどんと近付いて来て、目の前の壁際で片膝をついてシャッターを切った。
「ラムダの望遠ズームレンズじゃないか!」
「はい、焦点距離が十八から三〇〇ミリです」
「買ったのか?」
「はい、安かったので」
「このカノンの一眼レフだけじゃなくて、他にコンパクトカメラも持っていたよね」
「はい、小さいのは普段使いに便利です」
「おぉ、何てお金持ちな」
ストロボが光った。二黄卵がアップで撮影された。
「おいおい、俺じゃないのかよ」
「動かれると、被写体の邪魔です」
「何て礼儀知らずな―――」
名前が出てこない。
「礼儀知らずな―――」
もう一度言えば名前が出て来るかと思ったが、そんなに都合良くはなかった。
「失礼ですね」
カメラを錠の顔に向けて、彼女はファインダー越しに睨んだ。
「ゴメン」
「何て失礼な―――」
何処から出したのか扇子を広げ、口を隠して視線を上に逸らしている。
「えっとですね」
「何だ。お前も知らないのかよ」
偉そうに言ったものの、彼女が先輩だったらどうしょうかと心配になった。顔の造形が、まるで中学生だ。服装もここの大学生の下級生らしく至ってシンプルだった。だから一回生に違いない筈だ。最悪でも二回生。錠と同じだ。
分かっているのは、同じサークル仲間。カメラから呼び起された記憶には、それだけしか覚えがなかった。
「私、扇です。鈴風 扇【すずかぜ おうぎ】。法学部の一回生です」
そう言って、扇子をぱちりと小気味よく鳴らして畳んだ。そして、背負っていたボディバックから別のレンズを取り出して交換する。
「うわ、マクロレンズ! しかもカノン製じゃないか!!」
「あっ、これも安かったので、同時購入しました」
「何てブルジョワなお嬢様だ」
二黄卵が接写された。つるりとした黄身に反射して、隣の生野菜が写り込んでいる。
「私ですか? 私の親は、普通のサラリーマンですよ。田舎の中小企業で係長をしています」
「大地主だとか?」
「だといいんですけど、残念ながら実家は借家住まいです」
「それなら、割りのいいアルバイトをしているとか?」
「先輩は?」
「俺? 俺はこう見えても工学部なんで、研究に忙しくてね。バイトなんてとんでもないよ」
「そんなの訊いてません。名前です!」
「あれ、そっちなの! 話の流れからすれば、こっちじゃないの?」
扇はカメラをテーブルに置いて、初めて錠と目を合わせた。くるくるよく動く大きな黒眼の瞳と、くしゃっとなる笑顔の自然な表情は、相手に楽しい気分を伝える魔法のようだった。
「鍵屋 錠。覚えておいてね」
「お互い様ですね」
「言ってくれるね。そもそもサークルにいる一回生は大勢だから、覚え切れていないのも当然でしょ」
「あら。それなら私が鍵屋先輩の名前を知らなくて当然です。私の歓迎会で自己紹介の後、先輩たちの自己紹介もあったのに、その前に鍵屋先輩はさっさと帰っちゃったじゃないですか。それに、そもそも私は鍵屋先輩と同じチームの所属になったんだから、ちゃんと覚えてくださいね」
先月にサークルへ半年遅れで入部してきた一回生の歓迎会が催された。錠はそこを途中退席したことを思い出した。
「あぁ、あれは―――あれだよ。そうなんだ、あれだよ」
退席の理由を思い出せないけれど、錠は自己紹介をしていないことを覚えていた。これでは、錠がかなりの不利な立場になる。後輩なのに、鋭く切り込んでくる扇が恐ろしくなった。そのせいで、扇も錠の名前を忘れているのに、反論するのさえ出来なくされてしまった。
「鍵屋先輩。今日の午後からは、撮影会ですよ。嵐々電の界隈を探訪します」
嵐々電は、京々福々電鉄の嵐々山本線と北々野線のことだ。四条小宮から嵐々山までと北々野白梅町を結んでいる。沿線は風光明媚で、観光名所が多く存在していた。
「一緒に行きましょうね、鍵屋先輩」
扇の顔全体が楽しみを表現して、くしゃっと笑った。それは決して意識したものではなく、作られたものでもない。先程笑った時と、今のでは少し違う表情をしていた。その時々の感情を素直に表現しているから、いつも違った笑顔になる。錠にとっては、それは破壊力抜群の効果を有していた。
「勿論」
思わずそう応えてしまう。いや、応えさせられてしまったというのが正解かもしれない。午後の授業なんて一瞬で忘れ去っていた。