第2話:太陽のもとでの…………
「ねーーねーー、今日の英語の予習やってきた? どうせやってないんでしょ~~~? しょうがないな~~。私がみ・せ・て・あ・げ・る・♡」
先ほどのひと悶着からわずか三分後。
「タクトくん。さっきのクソデブアホビッチってどういうこと? 私クソでもデブでもアホでもビッチでもないんだけど。いい? 女の子に向かってデブとか一番ありえないからね‼ タクトくんはもっと女心を理解する努力を――――」
真っ青な顔をした今にもぶっ倒れそうな男の後ろを歩きながら、独り言を延々とつぶやく美少女というなかなかにシュールな光景ができあがっていた。
「そういえば、さっきの大丈夫だった? まさか、あんなんで転ぶとは思ってなかったからびっくりしたよ。タクトくん、ちゃんと朝ご飯食べてるの?」
ここで注目すべきは、別に彼女自身は独りでしゃべっているつもりはないという点と、あくまで衆人観衆の目に映っているのは彼女であるという点であろう。
「昨日のテレビ見た? あの、『動物園のかわいすぎる赤ちゃん特集』ってやつ。もう、ちょーーかわいかったよね。あの、モフモフでクリクリできもきもで死んだ魚の目みたいなところがサイコーーーー! しかもそれで、ウン百万もするんだよ! もう、『お前、どこに需要があるんだよ』って感じだよね! しかも、なんとね――――」
会話に耳を澄ませればわかっていただけると思うが、彼女は一応タクトに話しかけてはいる。ほぼ一方的に話しているにも関わらず、話題が尽きることはなく、まるで予行練習をしていたかのようにすらすらとよどみなく、しかも、タクトが会話に参加するための間を作ることも忘れずに、見事な会話術で話し続けている。
「タクトくんって部活何に入るの? うちの学校って基本、部活には全員入らないといけないじゃん。入学してから一か月もたつのに、部活入ってないのって、たぶん私たちだけだよ。でも、タクトくんだったらどの部でもやっていけそうだよね。見た目からは想像できないけど、そこそこ運動できるし、ピアノもなんちゃら協奏曲が弾けるし。家事だって基本的なことは一通りできるし。見た目からは絶対に想像できないけど、動物も結構好きだしね」
だが、そんな彼女の努力は空しく、タクトは安定のスルー。だがだが、彼女も諦めずに話し続ける。そして巻き起こる負の無限スパイラル。しかもなんと、彼女はこんなことを入学した四月からの一か月間、毎日欠かすことなく続けている。不屈すぎる精神である。
「聞いて聞いて! 私、昨日ナンパされたの。ショッピングモールでいつも通り練習してたら、いきなり。しかも、三回も。びっくりしちゃうよね。前はそんなことなかったのに。なんか中学に上がってからすごいの。何でだろうね? …………はっ! もしかして私の『テラ〇ハウス・パラメター』に変化が? いやーー、困っちゃうな~~~~。私もついに、あんなことやこんなことを。ぐふふふふふ。ぐふふふふふふふふふ」
ここで一つの疑問が浮かぶ。周囲の人々の反応である。一か月。三十一日。毎日毎日、朝っぱらから繰り広げられる、今日のような決して良い雰囲気とは呼べない一幕、いや、下手したら何幕、何十幕。そんな事を毎日延々と繰り返していれば、「気分を害するからやめろ」と文句の一つでも言いたくなる奴がいても何らおかしくはない。今朝の騒動も多くの人が見ているにも関わらず、そんなことは起きない。
それはタクトには「クソデブアホビッチ」に見えるらしい、どこからどう見ても絶世の美少女である彼女だからなせる業である。
「これ見て! ほら、このラノベ。昨日、山中君に貸してもらったんだけどね。もう、すごいの! このヒロインの子! 主人公のことをずっと一途に想っててね、何があっても彼のことを信じて待ち続けるの! あっ、この二人、兄妹の設定だから。ここ、重要ね。それでね、この主人公もまたすごくてね。何がそんなにいいのかわかんないけどね、すんごーーーーーーーいモテるの。幼なじみでしょ。生徒会長でしょ。従妹でしょ。後輩でしょ。バイト先の年上お姉さんでしょ。あと、ヒロインの親友も。」
では、なぜそんなことが可能なのか。理由は単純でいて明快。彼女は人気者なのである。しかもそんじゃそこらの奴らとは比べ物にならないほどの。彼女の与える影響はクラスを超え、学年を超え、学校全体にまで及ぶ。
「それだけでもヒロインは苦労が絶えないが、様々な不幸が次々と二人に襲い掛かる。両親は亡くなり、引き取ってもらった一人暮らしのおじいさんの家は貧乏。そこで、二人は牛乳配達の仕事で日々をしのいでいた。
そんなある日、町のシンボルである風車が火事で焼けてしまう。その原因はその町の町長にあったが、ちょうどその時、現場を通りかかった主人公が犯人に仕立て上げられる。牛乳配達の仕事は首になってしまい、さらに悪いことにおじいさんも亡くなる。この世の不条理に絶望し、空腹で意識もぼんやりとした中、吹雪をさまよう主人公。そこで、一つの教会にたどり着く。そこで主人公は空腹や疲労の限界を迎え、倒れてしまう。
いつまでも戻って来ない主人公が心配で吹雪の中を探し回るヒロイン。天候はどんどん悪化していき、やがて、ヒロインも危ない状況に陥る。もう、ダメかと思ったその時、目の前に一つの教会が現れる。
不思議な教会で再会を果たした二人。しかし、残念ながらすでに、二人とも虫の息だった。そこからの、主人公の涙腺崩壊確実なあのセリフ。かーー! すばらしい! ブラボー! もう、すごい! タクトくんも読んで! ぜひ、読んで! 全タクトがきっと涙するよ! 貸してあげるから! ほら! ほら‼」
そんな彼女による行動であるため、人々は笑って許す。そして、彼女のおかげでタクトはこの学校にいられている。学校一の人気者の擁護がなければやっていけないほどにタクトの立場は悪い。
タクトを見る周囲の人々の顔に浮かぶのは侮蔑や嘲笑といった類のものではない。嫌悪、不快、拒否、憎悪、袁煕。それは獅子神タクトという存在そのものへの拒絶。
タクトに自分よりも下だという「立ち位置」を与えることさえ嫌がる。タクトが学校のヒエラルキーに含まれることがたまらなく苦痛となる。例え、タクトが底辺だとしても、同じ枠組みに組み込まれることが耐えられない。
タクトは入学してからのわずか一か月で最悪の嫌われ者という立ち位置を確立し、「人間のクズ」という烙印を押されていた。
「ねーー、タクトくん。聞いてる?」
今までずっと独りでしゃべり続けていた彼女は突然に動いた。
口調はあくまで先程と変わらず。しかし、その表情は硬く、体はこわばり、それ以上に震えている。
それでも彼女はこのままではらちが明かないと思ったのだろう。胸中の様々な思いを押し込み、覚悟を決め、タクトの前に回り込む。
そんなことをされればタクトもさすがに無視はできない。言葉を発する代わりにひとつ大きなため息をついて彼女の前に立ち止まった。
しかし、彼女も何も言わない。いや、言えないのであろう。必死に抑え込もうとはしているようだが、いまだに彼女の手は小刻みに震えている。
この状況を見た人の中にはそれは不自然だと思う人もいるだろう。ひょっとしたら、そう思う人のほうが大多数であるかもしれない。なんせ彼女は、ずっと親し気に話しかけている相手に対して震えているのだから。今までの文面から、彼女がタクトに対して好意的な思いを抱いているように思えたかもしれない。だが、彼らの間にはコミュニケーションにおいて最も重要なことが為されていなかった。
沈黙が続き、気まずい空気が流れる。
「おい」
いったいどれほどの時が流れただろう。色々な限界の近かったタクトがしびれを切らす。
たった二文字の言葉。だが、それは彼女にとっては尊いものであり、ずっと待ち続けていた彼からの呼びかけであり、彼女の背中を押すには十分なものだった。
「あ、あのね、タクトくん。私――――」
意を決したように顔を上げ、タクトの目をしっかりと見つめる彼女。だが、それがいけなかった。
「…………………顔色」
「あ?」
「お兄ぃ大丈!? すごく顔色悪いよ! よく見たら色々ぼろぼろだし! すごい具合悪そう。きゅ、救急車! 救急車呼ばないと!」
彼女はタクトの体調の悪さに気付けていなかった。色々な気持ちが葛藤していてそれどころではなかったのかもしれない。だがそれでも、ずっと隣にいた相手の現状に気付けないのには違和感がある。現に彼女は今、タクトの顔を見た瞬間に気付けたのだ。だったら、先ほどまで一方的とはいえ、あれだけ話していたのだから気付くはずである。…………普通の対話であれば。
タクトたちの先ほどのあれは会話と呼ぶにはいびつだった。彼女が一人でしゃべり続けていたというのももちろんある。しかし、その話している彼女もタクトのほうを決して見ようとはしなかった。どこか気まずそうに、ずっと地面を見ながら話していた。
それによって、彼女は今の今までタクトの体調に気付くことができなかった。さらに悪いことに、彼女はタクトの顔色を見て冷静さを失い、地雷を思いっ切り踏んでしまった。
だが、それも仕方ないのかもしれない。今のタクトを見れば、誰もが驚くだろう。
それだけ、タクトの状況は悪化していた。平衡感覚なんてだいぶ前から怪しく、世界は揺れて見え、口の中には得体の知れない味が広がり、頭痛はひどすぎて逆にその痛みが気持ちよくなっていた。
「顔真っ白だよ。とりあえずそこのベンチに座って。大丈夫? 歩ける?」
「うっせーな。俺には、構うなっつってんだろ。どけ」
ひどくつらそうな顔をしているが、タクトは彼女が差し出しきた手を打ち払う。
タクトのそんな態度にひるむ彼女だったが、今のタクトを放っておくわけにもいかず、すかさず説得を試みようとする。
「お兄ぃ‼」
タクトは大きく舌打ちをしてイラついていることを全く隠そうとせずに、それどころか、彼女への怒りを必要以上にぶつけるかのように言い放った。
「お前、次、そんな呼び方したらつぶすぞ」
そこで彼女は自分の失態に気付いたのだろう。ひどく取り乱した後、少し寂しそうに言葉を続ける。
「えっと、あっ、いや、その、タ、タクトくん。す、すごい顔だよ。気色悪すぎて引くっていうか、そんな状態で学校来るなっていうか、さっさと寝とけっていうか。えっと、その、えっと…………私、何言いたいんだろうね。自分でもよくわかんないや。って、そんなこと言われてもタクトくんのほうが分かんないよね。ホント、何言ってんだろう。あはははは、はは……は…………」
尻すぼみになっていく言葉を背に、タクトはふらつきながらも精一杯のスピードで学校へとその足を進める。
彼女のほうはひどく落ち込んでいる様子だったが、それでも、遅れないようにタクトの後ろについて歩いている。
「………………………………」
「………………………………」
「…………あ、あのさ」
「………………………」
「あのさ!」
「………………んだよ」
「今日、何の日か知ってる?」
「………………知らねーよ」
「今日はあなたの、葉山タクトの誕生日」
「おい、てめえ!」
その名前を聞いた瞬間に、タクトは彼女の胸倉につかみかかっていた。この時ばかりは怒りのあまりに、体調のことなど気にならなかった。
そんなことをすれば、彼女は泣き出すと思っていた。
だって、彼女は昔から泣き虫だったから。いつも自分が彼女の前に立ち、様々なことから守ってきたから。
でも、今日の彼女は違った。
固く握りしめられた拳は激情のあまりか、それともタクトに対する恐怖のあまりか震えている。精一杯開かれた大きな瞳には今にもあふれてこぼれだしてしまいそうな程の涙をためている。
それでも決して、一滴の涙もこぼさずに。決して、タクトから目をそらさずに。必死に訴えかけている。
「お兄ぃ何なの! ホント意味わかんないよ! 中学に上がったらいきなり家を出るし! 学校でも話しかけてくるなって! パパもママも何か変だし! 私たちは家族なの! 兄妹なの! 葉山タクトと葉山ユアなの!」
彼女の……ユアの心の叫びがタクトに突き刺さる。
すぐそばで鳴いているはずの鳥のさえずりがぼんやりとしか耳に入ってこない。
「なんで何も言ってくれないの? 私たち兄妹でしょ! 一人で全部抱え込まないでよ! お兄ぃ、前、言ってたよね? 兄妹は特別だって! 一人で抱え込むなって! お互いに迷惑をかけあっていいんだって! どんなことでも相談しろって! 兄妹っていうのは何があってもずっと、ずーーーーーっと、一緒にいるもんだって!」
タクトにとっては耳が痛くなるような話だった。いつもだったら軽くあしらって終わらせるような話だった。だが、タクトは動くことができなかった。そればかりか、口を開くことすらできなかった。何かで張り付けられたかのように動かない。
いや、それ以前にタクト自身に行動しようという意思がなかった。自分の目の前に立つ少女の変わりように、ただただ唖然としていた。自分が見ていなかった、たったの一、二か月でのユアの変貌、いや、成長ぶりはタクトにとっては信じられないものだった。
「私、嫌なの。このままだと本当にバラバラになっちゃう。私はこの家族が好き。パパもママも。もちろんお兄ぃのことだって大好き」
ユアの思いに体が触れるたびに不思議と体の痛みは薄れていった。
「だから、ね?」
胸倉をつかんでいたはずのタクトの手はいつの間にか、ユアの両手で優しく包み込まれていた。
その数か月ぶりの手はとても、とても、温かく感じられた。
ユアはじっと待ち続けている。「もう私の言いたいことは全部言ったよ。だから次はお兄ぃの番」とでも言うかのように。
その瞳は何かを訴えかけるかのように、一瞬たりともタクトの目から外れることはなかった。
ユアのからその強い意志をひしひしと感じ取れた。
そして、タクトはその意志をしっかりと、真正面からすべて受け止めた。
そのうえで、
「てめぇにはかんけーねー」
残酷なまでに無慈悲に、冷酷に、突き放すかのように、そう吐き捨てた。
ユアの顔が見てられないぐらいゆがんだ。それでも、泣くもんかと涙だけは必死に押しとどめていた。
「そっか………………」
震える声でそれだけを絞り出すとユアは歩き出した。
さっきまで近くでさえずっていたはずの鳥もいつの間にかどこかへ飛び去っていた。
「パパとママ、パーティーの準備してるし、心配もしてるから今日ぐらい帰ってあげて」
少し離れた位置から背中越しにユアの声が聞こえると、タクトに残ったのはユアの走り去る音だけだった。
「なあ、今のって1―Cの葉山ユアだよな」
「いや、でも泣いてたぞ。あの葉山があんな風に泣くか?」
「ほら、見てみろよ」
「うわっ、クズじゃん。うげーー、朝から嫌なもん見た。ん? 確か、アイツって入学式の日にも」
「やっぱ、あいつかよ。チッ、クズが」
いくらかの時間が経ったころ。ボケーと突っ立っていたタクトは周りからの視線によって、ようやく意識が戻ってきた。それから、周囲にいた学生たちをひとにらみしてから歩き出す。
長くて鬱陶しくなっている黒髪をいじりながらタクトは空を仰ぐ。
朝から最悪なタクトのことなんか意に介さず、やはり今日は見事な快晴だった。
前方に視線を向けると、小さくなっていくユアの姿がかろうじて見て取れた。
「やっぱ、晴れの日なんてクソだな…………」
タクトは晴れの日が嫌いだ。
正常な感覚を持っていないからというのもあるが、晴れの日はあのことをよりいっそう意識させられるのだ。
今日もユアの瞳は頭上に広がる青空よりも幻想的で、一点の曇りもないブルーだった。
今日もユアはさんさんと輝く太陽さえもがわき役に思えてしまうような神々しくて美しいブロンドヘア―で周囲を照らしていた。
タクトの真っ黒の瞳と髪とは違って。