第1話:こうして、「最悪」は始まった
一陣の風が吹き抜ける。道端に広がる花畑だろうか、甘い春の香りが道行く人を楽しませる。
それは素晴らしい朝だった。友達と談笑しながら学校へと向かう元気いっぱいの学生たち。暖かい日差しをいっぱいに浴びて美しく咲き誇るたくさんの花々。春のそよ風に乗せて歌う色とりどりの鳥たち。雲ひとつない、どこまでも青く、高い、見事なまでの快晴。
そう、それは本当に素晴らしい朝なのだろう。…………一般的な感性を持ち得る人にとっては。
そして、残念ながらそれの持ち合わせの無かった彼にとっては『素晴らしい朝』など、ただの苦痛にしかならない。
「頭いてぇ」
彼、獅子神タクトは顔をゆがめ、ひどく腹ただし気につぶやいた。
その一言は決して大きいものではなかった。だが、それは今の雰囲気にそぐわない、陰湿で憂鬱なものをまとっており、その場にあったすべての耳にこべりついた。
そして、思わず反応して振り返ってしまった全員を後悔させた。
理由は簡単に推測できる。一つはタクトのあまりにひどいありさまだろう。
血色の悪い顔。おぼつかない足元。震える手。ぼさぼさで伸び放題な髪。暗くにごった目。どんよりとした雰囲気。
それは、もう本当にひどいもんだった。
本人ばかりか見た者の心まで蝕む。そう言われると厨二心をくすぐられ、どことなくかっこよく感じてしまうが、実際問題本人は今にもぶっ倒れそうなほど苦しんでおり、周囲の人もさっきまでの浮き足立った気分はどこへやら。今では足に墓石でもくくりつけられているかのような気分だった。
だが、今のタクトのざまも仕方のないことだろう。タクトは朝から色々ありすぎた。
起きたらなぜかベッドの上で座っていて、色々と濡れていたせいで朝っぱらから洗濯をするはめになり、左肩は何かが乗っているかのように重く、何より頭痛がひどい。
頭の中をメチャクチャにかき乱され、何か大事なものを抜き取られたかのような喪失感。
何か異物を埋め込まれたかのような嫌悪感。
そして、異常な痛み。足を一歩踏み出すたびに、何かを手に取ろうとするたびに、何かの映像が頭をよぎるたびに、何が起きたのかを考えようとするたびに激しい頭痛が襲ってくる。
それだけでもタクトへのダメージはひどいものだったが、
「ギャハハハハハハハ」
「おまっ、それサイコー」
「あーしのほうがマジヤバだかんね」
「マジヤバいんですけどー、マジウケー」
類人猿共の騒々しさがその苦痛にさらなる拍車をかけまくっていた。
タクトのゾンビっぷりのおかげで今でこそおとなしいが、先程までのお祭り騒ぎはすごかった。若い者特有の甲高い声。若いが故のテンションの高さ。若いからこその派手さ。
この天気のせいか、いつもの5割増しはうるさく感じられる。
それに加えてその数が暴力的だった。今もいくつものグループがタクトを遠巻きにひそひそとやっている。
それもそのはず、ここはタクトの通う中学校までの一本道だ。
全校生徒800人超えの、この辺では割りと大規模な学校。登校の時間がこうなるのはしょうがない事ではある。
だが、しょうがないからといって誰もが割り切れるわけではない。
現にタクトの苛立ちはまさにピークをむかえようとしていた。
「クッソが。朝っぱらから何なんだよマジで」
すぐそばが静かになってもその周りは依然としてうるさいし、静かになった奴らも奴らで自分を指差して何かを囁きあっている。それは苛立ちもするだろう。
そのかいあってか、タクトの容態は加速度的に悪くなっていった。
「はーはーはー。マジでざけんなよ」
だが、それは自業自得というやつだ。
…………………タ…………………タッ……………タッ………………タッタッ…………………………タタッ…………………タッ………………ッ
「あのバカに色々言われる謂れはあっても、はーっはーっ、お前ら類人猿共に騒がれるのは、はーっはーっはーっ、……腹が立つ」
残念ながら、このような状況を作り出した大きな要因は彼にある。
ッ、タッ……………………タッ、タッ………………タ………………タッ………………、………………………タッ…………ッ…………、……
「どいつもこいつも、はーっはーっはーっ、うぐっ、……なめやがって。何も知ら、ないくせにごちゃご、ちゃと」
今、周囲の学生たちがタクトを指差していることも、先程タクトのほうを振り返った学生たちが嫌な顔をしたことも、どちらも同じ理由だ。
タッ、タタッ………………ッ、タッ、……………………、……ッ、タッ、……………タタッ、タッ…………………………タッ
「はぁーはぁーはぁー、…………俺、はあのバカを、くっ……否定して、なぶって、泣かせて、突き放さなきゃ、はぁーはぁーいけねぇんだよ」
その理由は単純でいて明快。生徒たちがタクトを見た途端に態度が急変した点。タクトを遠巻きにしている点。今にも倒れそうなタクトを前にして、ただの一人も手をさしのべようとはしない点。これらの点を踏まえれば、答えは自ずと導き出される。
ッ、…………タタッ、タッ、タッ、タッ、……………………タタッ、……ッ、タッ、タッ………………タタッ、タッ
「なのに、あのバカは、はぁーはぁーはぁーはぁーなん、かい怒鳴っても、何回、威嚇しても、ごほっごほっ……何回泣かせても。はぁーはぁーはぁーはぁー。ほんと、何なんだよ、あのバカは」
そう。獅子神タクトは嫌われ者なのだ。しかも、そんじゃそこらの嫌われ者とは一線を画す、とんでもないやつだ。タクトが嫌われているのは何も、クラスだけではない。クラスを超え、学年を超え、学校全体にまで及ぶ。
タタッ、タタッ、タタッ、タッ、………………タン!
「だ~~~れだっっ!」
元気いっぱいな明るい声とともにタクトの背中に何かがぶつかる。いつもなら難なく耐えられるような軽い衝撃。だが、絶賛生ける屍中のタクトにとっては効果てきめんだった。
その結果、「きゃっ」というかわいらしい悲鳴とともに顔面から豪快にダイレクトクラッシュ。
「あいててててて。………………あれっ、タクトくん? おーい、タクトさんやーい。大丈夫ですか~~? ねーー、生きてる?」
ちなみに、悲鳴をあげたのはタクトの背中に乗っている少女で、実際に被害を被ったのはすべてタクトである。
「………………………さっさとどけ。このクソデブアホビッチが」
タクトのドスを利かせた声が背中の少女に浴びせられる。
しかし、彼女のほうはあっけからんとした様子で楽しそうに笑っている。
「おっ、生きてた生きてた! それにしても派手に転んだねーーーー。タクトくんダッサーー! ぶふっ」
その彼女の態度はタクトの扱いになれていることから来るものであろう。だが、そもそも今のタクトには覇気が、いや、生気がなかった。
「い、いから、はぁーはぁー、さっさとどけっつってんだよ!」
タクトは彼女から食らった、とどめの一撃になっても何らおかしくなかった一撃をどうにか耐え、少女を地面に転がし、ふらつきながらもなんとか立ち上がった。
「あてっ! もぉ、何すんのさタクトくん」
彼女は言葉とは裏腹に、どこか嬉しそうな顔をしながら手を斜め上に差し伸べる。
「…………………………」
タクトは自分のほうに差し向けられた手をしばらく凝視したのち、何事もなかったかのように再び学校へと足を進める。
「まあ、そうだよね……………」
彼女は顔を一瞬曇らせるものの、すぐに、気合いを入れ直すべくか、アスファルトの地面を「パッーーン!」と思い切りはたくと同時に元気よく立ち上がった。
「さあタクトくん! 今日も張り切っていこう!」
そんな彼女の空元気とさえ思える、変に明るすぎる声がタクトを通過し、薄気味悪い程に青く、美しい空へと吸い込まれていった。