愚行
人は 過ちを犯す生き物だ。
そうして 進歩してきた。
だが、過ちを 過ちと認識しなければ、
どうなってしまうのだろう?
じっとりと濡れた感触と口中の鉄の味。
酷い頭痛がしたが、なんとか両手をつき上体を起こす。
霞む目が 徐々に焦点を結び、雨に濡れた地面が赤く染まっていることに気づいた。
雷鳴が微かに轟き、次第に それも遠くなってゆく。
降り続いた雨は もう止んだようだ。
膝をつき、よろよろと立ち上がると 血と雨に ぐっしょりと濡れた全身に 激痛が走り、両手で顔を覆い 口から漏れ出そうになる悲鳴を抑え込む。
だが それは、けして痛みから来るものではない。
嵐の到来とともに訪れる絶望と悔恨の思いに耐えかね、 既に 逃れられぬ運命に囚われていると知りながらも、 何度も繰り返される愚行に、彼は涙を流しながら 虚しく己を笑った。
*****
窓の外を見ると、早朝の光が明るく射し込んでいたが、遠く地平線の向こうから西の空に灰色の分厚い雲が じわじわと押し寄せてくるのが見える。
先程から感じていた頭痛が しだいに激しくなり、今夜半には天候が悪化し 嵐になるだろうことを予感させた。
彼は、恨めしそうに窓枠に四角く切り取られた空を睨み付けたが、嵐が訪れるたびに繰り返される この忌々しい疼痛を どうすることも出来ないことを知っていた。
そう、この永遠に続く痛みからも、そして この醜く増殖した学園の建築物群の檻からも、
自分を囚え続ける、あの甘い夢からも。
夢を見た。
それは、鳥になった夢。
何度も、何度も 同じ夢を見る。
永遠に続く 甘く苦い夢を。
だが、あれは 本当に夢だったのだろうか?
たとえ、夢だったとしても、いつか 夢の中だと思いながら、それを現実としてしまう日が来るのではないか?
彼は、こめかみを押さえ ズキズキと鈍く響く頭痛に耐える。
間も無く 彼の待つ この教室へ、今年 ただ一人きりの新入生が やって来るはずだ。 伝統ある『聖アントニウス学園』の教師として、初日から無様な姿を見せるわけにはいかない。
ともすれば、激しい頭痛に膝を折り 倒れそうになりながらも、彼は ひたすら姿勢を崩さず 背筋を伸ばし 待ち続けた。
そろそろ 定刻の始業時間になろうとする頃、ドアの外で なにやら小声で話し合う声がする。
どうやら、初日から遅刻の罰を与えずに済みそうだと 彼が考えていると、控えめなノックの音がした。
「入りたまえ」
彼が 声をかけると ゆっくりと扉が開き、一人の黒髪の少女が あずおずと 教室へ入ってきた。
慣れない土地に来て、初めての学園生活の初日、今まで 彼女が体験してきた学校とは 全く違う学内の様子に戸惑うのは分かるが、 ほんの数歩 教室へ足を踏み入れただけで 少女は 先へ進もうとしない。 きっと臆病で人見知りの激しい性格なのだろう
彼は、少しばかり苦労しそうな生徒だと内心苦々しく思いながらも、自分から名乗ることにした。
「セイだ…」
すると 途端に 彼女の表情が変わり 身をこわばらせた。
いったい どうしたのかと訝しげに思いながらも 、彼は 仕方なく自己紹介を続けた。
「先生のセイでもなければ、学生のセイでもない。 今日から お前を教育する担任のセイだ」
少女は 東洋系と思われる その薄茶色の瞳で、じっと彼の顔を凝視して言った。
「セイ…、ですか?」
「教師を 呼び捨てにするとは感心せんな。 慣れない学園生活で 緊張しているのは分かるが…。 まあいい、とにかく座りたまえ」
彼は 何故か その少女の強い視線に躊躇して思わず目を反らしてしまい、 その心の動揺を覚られまいと、あえて手にした教鞭で 彼女のために用意された机を 強くコツコツと叩いた。
「私は、座れ…、と言ったはずだ」
少女は、そう指図されると 急ぎ自分の席へと駆け寄り ガタガタと音をさせ 椅子を引き 座った。
どうも、扱いにくい生徒のようだ。
だからといって、何も変わりはしない。
セイは、例年通りに 自分の教え方を伝え、これまでに何度も繰り返してきた通りに 新年度の授業を始めた。
そう、何も変わりはしない。
同じことを繰り返すだけだ。
こうして、同じように 新入生を迎え、毎年 この学園にふさわしい人間に育て上げる。 それが、彼に与えられた仕事だった。
だが、誰に命じられ…。
なんのために。
いつから 私は ここにいるのだろう?
*****
「とうとう、今年は たった一人だけしか 迎え入れることが出来なかったとは…」
『聖アントニウス学園』の広大な敷地に建つ無数の建造物の中でも 最も古く、あの尖塔を除けば最も高層建築である洋館の一室に アイリーンの執務室はあった。
「国中を探しても、適格者は 彼女 ただ一人しか見つけられませんでした」
その男は、なんの感情も込めない声で アイリーンの独り言のような言葉に答えた。
「なんと、忌々しい」
アイリーンの視線は 数十棟の屋根が列なる建築物群の向こう、雷雲迫る 広大な麦畑へと向けられている。
「セイの様子は どうですか?」
「比較的、安定はしているのですが、このような天候が続くと 保証は出来かねません。 それは、私にも 当てはまることなのですがね」
男は 苦笑する。
アイリーンは、一つ溜め息を吐き 豪奢な革張りの椅子から ゆっくりと立ち上がると大きなデスクを回り込み、微動だにせず立っている男の側に ギシリ ギシリと 微かに軋む音をさせながら歩み寄った。
「貴方は 大丈夫よね?」
そう言って アイリーンは、男の首もとに きっちりと締められた黒いネクタイを軽く握りしめると、クイッと顔を引き寄せ 固く結んだ男の唇に 軽く紅い唇を重ねた。
「貴方は 特別。 あんな不良品とは違うわ…」
アイリーンは、そっと唇を離すと 男のネクタイを直しながら言った。
「何もかも、予定通りにはいかなかったけれど、最後まで止めるわけにはいかないわ。 それが、ワタシタチの存在意義なのだから…」
「大丈夫です。 たとえ、これで終わりになったとしても、ワタシタチだけでも 生きてゆけます」
男は そう言ったが、アイリーンには 信じられなかった。 あの忌々しい麦の群れは 確実に いつか近い将来に世界を覆い尽くすだろう。 そうなってしまってからでは 取り返しがつかない。
今では 作り物となってしまったアイリーンの身体が、もう感じられるはずのない鈍い痛みで 常に そう訴えかける。
『 phantom pain 』
それが、 この世の終わりまで 永劫に繰り返される この身体を苛む痛みの枷の名前。
ありもしない幻影に踊らされるなんて、なんて滑稽なんでしょう。
そう、必ず……
必ず……
今度こそ、必ず 取り返す。
アイリーンは、かつて生身であった頃の記憶が 残酷にも思い出させる、柔らかな唇の感触と温もりを反芻しながら、何度も心の中で その言葉を繰り返した。
夕刻迫る薄暗いアイリーンの執務室の硝子窓が カタカタと耳障りな音をさせている。
いつの間にか 強く吹き付けだした風が 西の空にあった雨雲の群れを 学園まで到達させていたのだろうか。 執務室の硝子窓に 大粒の雨が打ち付けられる音がし出した。
「ええ、必ず……」
男が、アイリーンの心の中の声を復唱するように呟いた。
次の瞬間、突如として閃いた稲光が 男の顔を くっきりと照らし出すと、そこには セイと名乗る教師と同じ顔があった。
To be cotinued……
『学園の意志』が望むのは、過ちを繰り返さないこと。新たなる明日を 生き抜く人間。
本当に それだけだろうか?