増殖
まだ学園に 多くの生徒がいた頃。
少女は 誰も知らない秘密の庭を見つけたと思った。
昼休みの学生たちが奏でる騒々しい会話という騒音に居たたまれず 逃れ出た大食堂から、暗く長い廊下を足早に通り抜け、幾つかの曲がり角と階段を経て、ようやくアイリーンは 秘密の中庭へ至る硝子戸を開けた。
この場所を知っているのは私だけ。
まるで無造作に増築を繰り返したとしか思えない『聖アントニウス学園』の複雑に入り組み身を寄せ合うようにした建築物群の中にあって 奇跡的に残された僅かな狭間。
見上げると 煉瓦造りや木造の歪で ちぐはぐな壁面に囲まれた遥かな高みに 小さく切り取られた青空がある。
そこは、まるで井戸の底のような空間だったが、アイリーンにとっては 唯一の心の休まる場所だった。
足元を見ると、僅かに射し込む陽の光を糧に 緑が芽吹き、名も知らぬ小さな白い花が一輪咲いていた。
花…
そう、遠く幼い日々には そこかしこに 赤や青や黄の四季折々の可愛らしい花々が 咲いていた気がする。
アイリーンは、いつ頃から置かれていたのか分からない古ぼけたベンチに腰を掛け、彼女以外の誰にも知られず孤独に咲く白い花を じっと見つめ続けていた。
何もかもが消えて行く。
あの懐かしい花々が咲き乱れる幼い日々の風景のように。
だが、あれは 本当に あったことだろうか? 今となっては 分からない。
愛梨須が言っていたように、何もかもが あの麦の大海に飲み込まれ無くなっていくのかもしれない。
いや、そもそも この世界は 初めから あの黄金色 一色に埋め尽くされ、記憶の底にあるモノこそが 幻なのかもしれない。
何もかもが あやふやで、現実感を感じられない。
振り仰ぐと 真っ青な四角い空を 白い鳥が飛んで行ったような気がした。
でも、それさえも幻影に過ぎないのだろう。 何故ならば、世界で 最後に野生の鳥の姿を確認されたのは、もう数十年も昔のことなのだから。
そう、ずっと昔から この世界は 滅びつつある。
そして、最後に残されるのは 遺伝子改良され、人の手を借りずとも 永遠に増殖を繰り返すことを覚えた、かつて人間が『麦』と読んでいた あの黄金色の植物だけなのだろう。
その世界に 人はいるのだろうか?
もしかすると、いつか あの黄金の大海が 全てを呑み込み 人が生きていたという痕跡さえも 消え去ってしまうのではないだろうか。
アイリーンは 指先をさすり、血行を促す。 陽の光の少ない この場所にいるせいなのか、いつにも増して 手足が冷える。
その冷えきった感覚に反して 手足には燃えるような痛みと痺れが広がり、アイリーンを苛む。 まるで、彼女の家系が あの『麦』を産み出したことへの懲罰のように。
キィィ…と、微かに軋む音をさせて、アイリーンの ささやかな秘密の園への硝子戸が 開かれた。
「やぁ、やっと見つけた…」
アイリーンが 顔を上げると、いつもと変わらぬ笑顔を浮かべ、セイが そこに立っていた。
「セイ…?」
アイリーンは、その言葉に 黙って頷く彼の顔を見つめた。
「どうして、ここが?」
アイリーンは 心の内にあることとは 異なる問いを セイに投げ掛けてしまった。
一月程前の あの雷鳴を伴い ひとしきり激しく降った雨の日の夕刻に、学園の一番天に近いところ…尖塔の上から、鳥になったというセイ。
その噂を聞いて以後、彼の姿を見なかったことから、ようやく その事実が受け入れられようとしていたアイリーン。
二人の視線が 絡み合い、次の言葉を求め合う。
「ここは、素敵なところだね」
セイが そっと口を開く。
「ええ…」
(私の聞きたい言葉は そんなことじゃない)
「まだ、こんな所が残っていたなんて知らなかった。 君が 見つけたのかい?」
セイは、その穏やかな言葉とは裏腹に 硝子戸の剥げかけた白いペンキで塗られた木枠を 苛立しげに強く握りしめたまま、アイリーンの秘密の園の土の上には けして足を踏み入れようとしない。
「素敵なところだ…」
セイが 同じ言葉を繰り返す。
アイリーンの冷えきった手足が 更に燃え上がるように痛みだした。
「大丈夫かい?」
「…大丈夫。 たいしたことないわ」
アイリーンは 震えるほどの痛みに耐え、つとめて平静に聞こえるように願いながら答えた。
「いや、かなり具合が悪そうだ。
僕が 診てあげる…」
セイの握る硝子戸が カタカタと細かく震え 耳障りな音を立てる。
「入ってもいいかい? 君の秘密の園へ…」
そう言ったセイは、にこやかに微笑みながら アイリーンの許可を じっと待ち続けていた。
To be cotinued……
学園の裏で 蠢く ナニモノカの謀略…。
セイが招くのは、祝福か、それとも破滅なのか?