麦畑
ガタゴトとボンネットバスは走る。
これから起こることなど 誰にも分からなかった。
バスの運転手が 何度目かのあくびをした頃、それは見えてきた。
見渡す限りの麦の穂の波。
地平線まで拡がる なだらかな丘陵地帯が 今にも沈みそうな夕陽に黄金色から緋色に染め替えられてゆく。
私の乗る かなり年代物のボンネットバスが その中を くねくねと伸びるガタゴト道を ひたすらに走り続けて どれ程の時間が過ぎただろうか。
「ほい、見えてきたぞい」
これまた かなり年代物の運転手が バスの最後尾にある客席に座る私を振り返り のんびりとした口調で そう告げた。
(あ、前を!)
……と言いかけた口を噤む。
何十年と通いなれた道なのだから、私が口をはさむこともないだろう。
運転手は 鼻歌まじりに ハンドルを握り返し 事も無げに ゆったりと農道をトレースしてゆく。
最後尾に座っていたせいで視界が悪く 言われたように目的地は ここからでは よく見えない 。 気は進まなかったけれど 好奇心が それに勝り、私は 揺れる車内通路を 左右に揺らされながら ずらりと並ぶ座席の背を頼りに 運転席の脇まで歩み進んだ。
埃にまみれたフロントウィンドウに 左手から西陽が射し込み 視界は良好とは言えなかったが、それでも 前方数キロ先に建ち並ぶ歴史を感じさせる巨大な建築物群が確認出来た。
中でも ひときわ目立つのは 中央に そびえ立つ尖塔。 それは、鋭角な屋根を 今や緋色から紫色に変わろうとしている天空を突き刺す一本の槍のように 夕陽を反射させている。
「あと どのくらいですか?」
そう尋ねると運転手は ホホッという奇妙な笑い声をあげ言った。
「それは、時間かね? それとも距離かね? お嬢さん」
私は 少し むっとしながらも答えた。
「時間です…」
「慌てることはない。 今回は お嬢さん一人きりの入学式だ。 お嬢さんが到着するまでは 何も始まらんよ」
運転手は またもや奇妙な笑い声を小さく漏らすと ひょいと肩をすくめて見せ、私は その仕草にげんなりしながら ガタガタと揺れる車体に抗しきれず 手近な座席に トスンと腰を落とした。
やがて 夕陽は その姿をなかば地平線に隠し 僅かに残照が空を黄金色に輝かせる頃、ようやくボンネットバスは サスペンションをギシリと軋ませ 大きな門扉の前に停車した。
思いの外 時間が掛かってしまったように感じられたのは その門扉の巨大さによる距離感の錯覚だったのだろう。
恐る恐るバスを降りた私の目の前には、差し渡し二十メートル、高さは三十メートルを優に越えようかという巨大な観音開きの扉がそびえ立っていた。
その全面は 繊細な鈑金細工を施された無数の金具で補強され、まるで中世の騎士が鎧を纏っているかのようにも見える。
「ほら、ぼうっとせんと…。 そんなことをしている間に 真っ暗になってしまうぞい」
背後で 運転手が大きなハンドルに両の手を乗せてもたれ掛かり 気だるそうに私を即した。
だが どうすればよいのだろう。 バスが到着したというのに 誰一人出迎えるでもなく 私たち以外に 辺りに人気は無い。
足元に置いた僅かばかりの身の回りの物を詰め込んだバッグを拾い上げ肩に掛けるが 一歩も動けないでいると またもや件の運転手が声を掛けた。
「ほれほれ、いくら待っていても この大門は開かないぞい。 その左手の端に通用門があるじゃろう …」
言われてみてはじめて 巨大な扉の隣に ごく普通の大きさの格子の填まった木製の扉が 石造りの巨大な城壁とも言える壁に埋め込まれたように存在することに気づくことができた。
「わしも、長年 この仕事をやっているが、この大門が開いたのを見たことが無い。 もっとも こんな扉を開くのも大仕事だろうからの」
確かに そうだろう、だったら なんの為に こんな大門を築いたのか。 人は 時として不条理なまでに 自己の権勢を誇ろうとするものだが これは些か程が過ぎているようにも思えた。
「ありがとうございました」
私は 深々と頭を下げ 老運転手に礼を言った。 運転手は ホホッと 三度目の奇妙な笑いを漏らしながら ひょこんと頭を下げ イグニッションキーを回すと ぶろんぶろろろ…と苦し気なエンジン音をさせながら バスを大きくUターンさせて 走り去って行った。
(ふぅぅ…)
私は 大きく息を吐き出すと 気を奮い立たせて 通用門に歩み寄り、勇を奮って その分厚い扉をノックした。
トントントン…
何も起こらない。 門番は居ないのだろうか。 仕方なく もう一度 力を込めて 扉を叩こうとすると、
ザッ…というノイズの後に 音質の悪いスピーカーからのような声が聞こえた。
「お入りなさい、鍵は開いています」
手を伸ばし、大門に取り付けられた金具と同じように古びているが繊細で豪奢な装飾を施されたドアノブを回し 扉を押し開けた。
辺りは すっかりと暗くなり 空には 無数の星が鮮やかに煌めきだしている。
だがしかし、開いた扉の向こうには 石造りの通路が底知れぬ真っ暗な口を開けているだけだ。
躊躇していると 再度 先程の声が聞こえた。
「お進みなさい」
そうは言われても…と、不平を口にしようとした瞬間 通路の左右の石壁の最下段のスリットから 仄かな灯りが洩れ出した。
仕方なく 私は それを頼りに ゆっくりと足を踏み入れ 一歩ずつ足元を確かめながら 歩き出した。
肩に担いだバッグの肩紐が 食い込み 左右に担ぎ直したかったが、この狭い通路では それも難しい。
(あぁ、なんでこんな所に来てしまったのだろう)
そう思い始めた頃 ようやく目の前に もう一枚の扉あることに気づいた。
今度は 扉をノックすることもなく ぐっと力を込めて押し開く。
扉は 難なく開かれ、そこには 星明かりと 揚々巨大な壁を越えて 姿を見せた満月の光に照らし出された広々とした庭園と中央を真っ直ぐに突っ切る石畳の道があった。
To be cotinued……
ようやく到着した『学園』。
そこは、繚子が 想像したものとは 大きく違う場所だった。