火車祭り
都内のビルの一室で、痩せた青年が必死になって書類を仕上げていた。
──今日も1日辛かった。
父親は認知症に加え脳卒中を患ったことによる介護で寝不足な上、上司には上司の夫婦間のイライラの捌け口として会社の中で最も若い彼は虐められ、大量の仕事を割り振られて今の今までサービス残業だった。
その上、薄給に加え父親の薬代を払わねばならず、貯金は0だった。最早、盗みを行わねば生きていけないほどであり、彼は何度も万引きも行っていた。「そうでもしないと生きられない」と自分の心に言い聞かせながら。
「もう、終電が出るな……急がないと」
彼は駅に急ぐ。
──帰ったらまた親父の面倒を見ないと。あの親父、脳卒中なんてでかいことやりやがって。これ以上手がかかるようならほっておいてやろうか。どちらにせよいつか死んじまうんだ。
そんなことを考えていると、すぐ駅についた。
──最初は駅に近いって喜んだっけ。いまじゃくそ上司のせいでまともな仕事ができないけどな。仕事どころか給料もまともにもらえない。
駅のホームで電車を待っていると、不意に眠気に襲われる。いつもならギリギリまで飲んでいるコーヒーとエナジードリンクのせいで眠くないのだが、今日は妙に眠い。
「うっ……」
彼は闇に誘われた。
闇のなかに明るい穴が開く。それが大きくなり、ついには周りの風景が鮮明になる。
気づけば電車のなかだった。ただ、とてつもなく古く、電車のなかには何とも言えぬ懐かしい匂い、強いて言えばかび臭さと劣化したビニールのような匂いが漂っていた。シートはビニール製だが、ビニールが破けて中のスポンジが見え、つり革は手垢と劣化で黒ずんでいた。
──ここはどこだ?
窓の外には都会では見られない田んぼと畦道が広がっていたが、街灯や家の明かりはひとつも見当たらなかった。
あるのは電車の車内灯のみ、闇夜だった。
そんな中、独り彼は佇んでいた。ただ、彼の回りの座席には猫の面を被った人が座っていた。それ以外は老若男女、共通点は一つもなかった。
「お兄さん、こっち来て座りません?」
後ろから声をかけられる。振り向くと、藤色の着物を召した老婦人が座っていた。彼女は面を被っていなかった。
「はあ……」
「遠慮することはありませんよ。一人分空いていますし、立っているのは辛いでしょう」
──こんな言葉かけられたのは何時ぶりだろうか。『遠慮するな』なんて。いつもはそんなこといわれないのに。
「では、失礼させていただきます」
老婦人の隣に座る。少しだが、樟脳のような匂いと炭の匂いが漂っていた。
「すみません、なぜあの人たちは猫の面を被っているのでしょう?」
「あれは火車祭りというお祭りに参加する方々なのですよ」
「火車祭り?」
「火車という猫の姿をした狡猾な妖怪がいましてね。それは年に一度特定の日に現れ、罪人を連れ去り、食い殺すと言う伝承がここにはあります。そこで、罪人たちは食い殺されぬよう、火車と同じ猫になりすますのです。また、連れ去られても悔いのないようにその日は御馳走やお囃子などをします。それが『火車祭り』というのですよ」
──そんな話聞いたことないな。
「実際に連れ去られたという話はありません。そういうお話が残っているということだけですよ」
──ここ最近ごちそうはおろか音楽も聞いていない。たまには気晴らしにいいかもしれないな。
列車の外の風景は田んぼから、民家らしき明かりが見えるようになり、少しずつ村へと変わっていっているようだった。
「そういえば、ここはどこなのでしょう?」
ふと、気になったことを口に出す。
「『ここ』は『ここ』です。貨車の牽く列車の中です」
「貨物列車なんでしょうか?」
「そうともいえますね」
奇妙な老婦人の答えと同時に、列車が速度を落とす。
そして鋭いブレーキ音とともに、駅のホームへと進入した。
「着いたのですか?」
「いいえ、まだ乗り込む人が居るのですよ。次が終点です」
やはり、乗り込む人も猫の面を被っていた。奇妙なことに足音はほとんど聞こえなかった。
始めに乗っていた人たちは、話もせずにずっと列車に揺られていたが、新たに乗ってきた人たちのために無言で場所を開けた。
ドアがしまり、彼らは理路整然と並ぶ。列車は加速するが、彼らは列も崩さずにその場に立っていた。
「そういえば、彼ら話しませんね」
「彼らは火車が怖いのですよ。火車は騒がしいものを狙うとも言い伝えられています。食われないように黙る人はとても多いのです。それに『口は災いの門』ともいいますし、無用な話はしたくないのでしょう」
「ですが、火車はいないんじゃ……?」
ふと思った疑問を口に出した彼だったが、老婦人はそれが聞こえていないようだった。
「もう少しでつきますよ。着いたら貴方もお祭りに参加してはいかがですか?」
と老婦人はいうので、彼は疑念を抱きながらも
「では、参加させていただきます」
と返した。
──親のことはまあいいだろう。一日居なくても死にはしないだろうし。仮に死んだとしても、気にならないね。
列車の速度が落ち、明かりの一つ一つが目に留まるようになる。
そこで、彼は気づいた。
──これが街灯なんかじゃない!
彼が街灯だと思っていたのは、二本足で立ち二つの目が赤く燃えている猫だった。それが列車と平行して走り、列車の中をねめまわしていた。
『次は地獄、地獄。終着駅となります。御乗車ありがとうございました』
不穏な車内アナウンスが鳴り響く。彼は周りを見るのも忘れ、思わず立ち上がった。
「いったいこれはどう言うことだ!」
不意に腕を骨が折れるような力で掴まれる。
「お座りなさい、他の人は騒いでないでしょう?」
「でも……」
老婦人の方を向いた彼に戦慄が走る。
その姿は人間ではなかった。列車の外にいる化け物たちと同じ姿だった。
顔は猫だが目が松明のように燃え盛り、銀の毛を纏う体には赤茶けた斑点が点在し、腕はカメかトカゲのように濃緑色の鱗と鋭い爪を有していた。そんな化け物がサメのような牙を向いて、
「お座りなさい!」と叫ぶ。
声にならない悲鳴と共に、彼の腰が抜けるのと同時に、列車が駅のホームにはいる。
ブザーと共にドアが開き、彼は老婦人だった化け物に担がれて列車を出る。そのほかの人もまた透明な何かに抱えられているかのように列車の外に運ばれている。その時、彼は列車の機関車に当たる場所に有り得ないものを見た。
そこには、体に火を纏った巨大な猫のような怪物が鎮座していた。その怪物が黄色い瞳を彼に向け、
「にゃあお」
と一声鳴く。
その気の抜けたような鳴き声とあまりにも非現実的な光景と恐怖に、彼の張りつめていた神経は萎み、彼の意識は暗くなった。
「うん……?」
目を開けると、群衆のなかにいる。気を失っていたはずなのに、どうして立っているのだろう。
その答えはすぐにわかった。彼は地面に打ち付けられた鉄の杭に麻縄で巻き付けられていたのだ。動いてほどこうとするが、縄は動けば動くほど体に食い込み、さらに体を締め付けた。
「どうなってる! 早く誰かはずせ!」
彼はわめき散らしたが、暴れれば暴れるほどにもがけばもがくほどに麻縄の結び目はきつくなっていく。この悪魔のような拘束から逃れることはできそうもなかった。もちろん、誰も助けになど来なかった。
しばらくすると疲れてしまい、暴れることをやめた。いったん落ち着いて周りを見渡してみると、異様な光景が自分の目の前に広がっていた。
自分と同じような鉄の杭に電車で見た猫の仮面をかぶった人たちが麻縄で縛り付けられている。そんな杭が剣山のように等間隔で生えていた。そのなかにはつい先ほどの彼のように悶えている人や抵抗をあきらめて力を抜いた状態で縛り付けられている人、長い間縛り付けられ抵抗していたのか血が滲んで縄に黒いシミが浮かんでいる人など三者三様といえる状態だった。
だが、それ以上に奇妙なのがこれだけ暴れているのにもかかわらず、猫の面は外れていないことと声どころか暴れる音も聞こえてこないことだった。まるで、自分以外の周りに壁があるようだった。
そんな光景に、彼は声を失った。
しばらくすると、先ほどの化け物が妙な唄を口遊みながら5匹ほど彼らのところに来た。それと同時に太鼓や笛の音も響いた。
悲しや悲し 罪人よ
お主のするなり 生き方の
業の深さを知るがよい
悲しや悲し 罪人よ……
唄を唄いながら、化け物は一番近くに縛り付けられていた人を取り囲んだ。その人はもがいて逃れようとするが、縛り付けている麻縄はほどけそうもなかった。
化け物は周りをゆっくりと時計回りに回る。すると、化け物の周りに闇夜でもわかるほどの厚い雷雲がにわかに湧いてくる。それが強い稲光を発し、鉄の杭に稲妻を一閃落とした。
縛り付けられていた人はその一撃で体が沸き立ち、見ていたものの目に焼き付いた光が収まるころには赤く焼けただれ、ところどころから煙を噴き出していた。ただ、それほどの熱であっても、仮面と麻縄だけは焼けることもはじけ飛ぶこともなかった。
だが、その人はそれだけでは死に至らなかったようで、まだ麻縄から逃れようと、失いつつある命を振り絞りもがき続けていた。そこにまた一閃の稲妻が落ち、その人の頭は水蒸気爆発を起こしてはじけ飛んだ。その骨肉は彼の周りにも飛んできた。
その光景を見ていた彼は、生きる意志を取り戻したかのようにまた拘束から逃れようとするが、麻縄の結びは固く、ほどけることはなかった。
化け物たちは稲妻を鉄の杭に撃ち下ろして一人、また一人と罪人たちを処罰していった。まだ残っている罪人たちはさらに激しく抵抗する。しかし拘束が緩むことはなく、化け物に囲まれた時にはすでに生きる意志を失っていた。
ときどき、化け物たちは稲妻に焼かれた人々の肉と骨を御馳走のように貪り、歓喜の声をあげていた。
生きている罪人が半分くらいになったころだろうか、稲妻に撃たれた被害者の血なまぐさいにおいを先ほどまで吹いていなかった生温かい風が彼の鼻孔まで届けた。それに気づいたとき、大地を轟かすほどの猫の鳴き声が聞こえた。
その声を聴いた化け物たちはピタリと動きを止め、膝を折って地面に膝立ちとなり、両腕を天に捧げるかのように上にあげた。
彼は化け物たちが歌っている唄と楽器のリズムが違うことに気づいた。
嬉しや嬉し 火車様よ
人の心を 持たぬもの
罪人たちを食らうべし
罪を食らうて 生きるべし
嬉しや嬉し 火車様よ……
「なんなんだ……あの唄は」
彼がそう口にした刹那、自分の目でははっきりとみえないはずの距離からでも細部がわかるほどに大きな、猫のような、化け物がそこにはいた。
顔は猫だが、口には猫の歯ではなく鮫を彷彿とさせるほど鋭い歯と血よりも赤い舌が生えており、前足にはカメのような鱗と鋭い爪をもっていた。体表は毛のない滑らかな皮を赤黒いシミや火傷か古い傷とも思える赤茶けた傷が覆っていた。目は月のない闇夜の中でもスポットライトのように黄色く光り、見るものを射竦めるようだ。それが『火車』と呼ばれる妖怪のようだった。
彼の心に恐怖が芽生えたとき、火車は手近にいたまだ生きている罪人を目にもとまらぬ速さで上から杭ごと口に含み、金鋏で鉄板を切るような音と骨を折る音とともに罪人を飲み込んだ。
化け物たちはいつの間にかいなくなっており、見える範囲にいるものは「火車」と縛り付けられている数少ない生ける罪人たち、そして稲妻に撃たれた死人だけだった。その異様な光景に彼の心は崩壊する寸前だった。
火車が人を食い殺し、飲み込む。そこにはネズミをいたぶる猫のような遊び心も人にあるべき逃れるためにもがく理性もなかった。そこにあるのは餌を食らう本能だけだった。
もう以前のように暴れたり逃れようとする罪人は一人もおらず、そこにいる全員が生きる意志を失い、ただ恐怖に駆られていた。
一人、また一人と食い殺されていき、ついには彼の目の前に火車は姿を現した。
近くで見る火車は形容しがたい存在感を発していた。また、火車は肉の焦げるにおいと公衆便所のような肉が腐っているかのような刺激臭を周囲にまき散らしていた。
「にゃあお」
気の抜けた声を火車は吐き出す。その声は列車の先頭にいたあの怪物と同じ声だった。
すでに、彼の声は、枯れていた。
「なぁああご」
火車は一声鳴くと、一口で彼を飲み込み貪った。
「ええ、刑事さん。駅で見つかったときからすでにこの状態でして……」
白衣を着た男とスーツで身を固めた男の二人が厳重な白いドアのある廊下を歩いていく。
ここは彼がいた駅からほど遠くない精神科病院で、彼は駅で倒れているところを発見された。
見回りをしていた駅員が、彼が柱に寄りかかり意識を失っているところを発見。酔っ払いだと判断した駅員は彼を起こしたが、起きたとき駅員を投げ飛ばし、何かに追われているかのように逃走を試みた。だが、もう一人の駅員が彼を確保し警察に引き渡すこととなったのだった。
「彼はなにか言ってますかね」
「言っていることは言っていますが……『火車が来る』、『俺を食い殺す』というようなよくわからないことです。まともなことを言える状態ではないみたいですね」
刑事と医者が2408号室と書かれた扉の前で立ち止まる。
「……見立てではどうだ、お医者さん。証言は聞き出せそうか? 保護責任者遺棄罪と殺人罪の被疑者でもあるんだが」
「収容してからまだ期間が短いのではっきりとは言えませんが……ほとんど不可能でしょう。今も限界まで鎮静剤と抗不安薬を投与してやっとここまで落ち着いている状態ですから」
彼らがドアについている小窓から覗き込んだ先には、枯れ木のようになっている男がいた。もともと痩せていた体は薬でも抑えきれない不眠症と摂食障害に蝕まれ、腕や足は自傷行為と弱った肌によりかさぶただらけになっていた。歩くこともたつこともできず、常に寝そべっている彼の顔は罪に殺された生ける死人のようだ。
そんな彼が、薄い唇を動かして何かをつぶやいた。
「列車を引いて、火車がやってくるんだ……もう逃げられない」
最初はホラーの予定じゃなかったのに、徒然と書き進めていくとなっちゃった作品。
正直もう少しディテールを作りこめばいいとは思うのですが、リハビリのつもりで一週間もかけずに書いただけにあまり出来は良くないですね。
あまり作中では明確ではないですが、彼の罪は盗みよりも、親をないがしろにして殺したことが一番の罪です。仏教では宗派にもよりけりとはいえ、かなりの重罪として見られているため、それゆえ火車に心を食われることに。また、火車という妖怪は実際に語られています。結構いろんなゲームとかで猫として書かれていることが多い妖怪ではないでしょうか。
まあ、細かい話や設定は多いのですが、あまり想像の邪魔をするのは本意ではありませんので、あとがきはこれくらいにとどめておきたいと思います。
読んでいただき、誠にありがとうございました。