1年目 7月 「定期的に迫り来る壁」
「フミちゃんフミちゃん、ビジネス英語ってノートとってたよね?」
気温もだいぶ上がってきた夏の日曜日の昼下がり。自分の部屋で横になってテレビを見ていたフミヤの上に伸し掛かっていたスズが聞いてきた。
「……英語の時間て、良く寝れるよな」
フミヤの言葉はノートを取るとか取らないとか以前の問題で、『そうだよねー』とスズは分かっていたので軽く流すことにした。
「リアちゃんは取ってるよね? ちょーっちお姉さんに見せて欲しいなぁ」
スズはそれならばと、フミヤのベッドを一人で占領して読書とポテチに夢中なリアに尋ねてみた。タンクトップとホットパンツというラフな格好から褐色の手足がすらりと伸びていて、それがとてもセクシーでスズは見とれてしまいそうだった。
「イイヨー。ちょっと待ってるネー」
了承したリアが自分の部屋に戻って、英語のノートをとってきてくれる。シンプルな大学ノートに、アニメキャラのシールが張られているノートだった。
「ワターシのノート見て、ドウスルノー?」
「もうすぐテストだからね。他の人のノートでも予習しておいた方がいいもかな……ってね……」
リアのノートを開きながら軽口を叩いていたスズは、ペラペラとそれをめくるたびにどんどん動きを固めっていた。
「英語のノートを借りたら謎言語のノートだった──何を言っているのか分からないかと思うが、私も何を言っているのか分からないぜ……」
それは確かに英語のノートだった。見覚えのある単語が並んでいるし、ビジネスではよく使う語句だから覚えておくようにと教授が言っていたことも記憶している。ただ、それに付随している言語は、アルファベットを使っているものの、見覚えのない羅列で、脚注としてすら読むことができなかった。
「えー……なんぞこれぇ……? リアちゃん。これ……何語?」
「ドシタノー?」
リアがベッドからズリズリと這いずりながら降りてきて、スズが広げているノートに目をやった。
「エトーエートー、イタリアーノ語?」
「ああ、イタリア語なのね……って、さすがに読めないなあ……」
スズはノートを閉じると、リアに差し出した。役に立てなかったことが悲しいようで、リアはそんな顔をしながらズリズリと匍匐後進してベッドに戻っていった。
「会長さ、いきなりテストだなんて、何を言っているんだ? オレたち大学生だぜ? テストなんて在るわけがないじゃないか」
「フミちゃん……もしかしたら知らなかったのかもしれないけど、大学生にもテストってあるんだよ?」
「知らないな! もし仮にあったとしても、会長がいれば普通に点くらい取れるだろ」
「んもう、仕方ないなぁ。フミちゃんてばー、そういうのは、もっと言ってくれていいのよー!」
うきゃーと嬉しそうな悲鳴をあげながら、スズはフミヤの脇腹に顔を埋め、顔をグリグリと左右にこすりつける。それをリアが羨ましそうに見つめていた。
「フミヤ、ちょっといいかい──ああ、もしかしたらお邪魔だったかな?」
徐ろにドアを開けて、ワタルが部屋に入ってきた。ノックをしてくれ──などとフミヤは口にもしない。この家にプライバシーというものを気にする者はなく、誰もが勝手に誰の部屋にも入る。いちゃついていようが、夜の運動をしていようが、そんなことを気にするような者は誰もいなかった。
「どうしたのさ、ワタル。わざわざそんな聞き方するなんて珍しいな。会長が大絶賛お邪魔し中だが問題ないぞ」
「ぶーぶー。今日くらいは名前で呼んでくれたっていいのにー!」
そう言いながらも笑顔のままのスズは、さらに顔をフミヤに押し付けた。
「フミヤは数学のノート取ってたよね。持ち込み用のノート作ろうと思ってるんだけど、ちょっと借りていいかな」
「取ってた記憶がないけど、まあ持って行けよ。今なら古代経済と近代政治もセットでお得だぞ」
「そいつはお得だね。大盤振る舞いすぎて後が怖いし、ありがたく遠慮しておこう」
会長が邪魔だから勝手に漁ってくれとフミヤが言い、ワタルはそうすることにした。カバンから出てきたのは何故かトランプやレーザーポインター、ビー玉……
「……フミヤ。このカバンは、通学用じゃないのかな?」
ワタルはそれがフミヤの通学用だと思って開いたはずなのに、出てきたのは大学で使うものではなかった。中から出てきた玩具たちを見て、スズが苦言を呈する。
「フミちゃん、オモチャ入れちゃダメだって言ってるでしょう」
「どこをどう見たらオモチャ見えるんだって。れっきとした勉強道具じゃないか」
れっきしてない勉強道具を手にしながらワタルは少しだけ考えてみてから、まぁいいやと放置し、いくつかのノートの中から目当ての数学のノートを見つけた。
「あったあった。じゃあフミヤ、ちょっと借りていくよ」
「おう。それじゃ、せっかくだしゲームしようぜ」
いつまでもグリグリし続けるスズを押しのけて、フミヤは体を起こした。そのまま手を伸ばして携帯ゲーム機を取ると、ワタルに向けて振ってみせる。
「ボクとしてもね……許されるならテスト勉強なんてしたくはないんだけど、特待生資格を失うわけにはいかないんだよね」
ワタルは勉学の特待生として、全ての学費を免除されている立場だった。その立場を維持し続けるためには、優秀な成績を取り続けなくてはならない。一円でも惜しいワタルにとって、その立場を失うことは避けなくてはならない至上命題だった。
「むむむ、それは仕方ないな」
千客万来のフミヤの部屋に、今度はチャキとシュウが揃って顔を出してきた。
「スズかワタルはいるかしら──ああ、やっぱり二人ともここにいたのね」
「日文のノート借りたいんだけど、二人とも貸してくれないかな? 代わりに自然科学と文学、法学と理学が出せるよ」
「あとで借りに行こうと思ってたから大助かりさ。チャキとシュウのノートなら安心できるからね」
「私もオッケーよ。遠慮無く持ってて~」
ワタルとスズは、諸手を上げてチャキの提案を受け入れた。
「お、そうだ。いいことを思いついたぞ。お前ら、オレのためにノート持ってこいよ」
「……なるほど。そうね、ノートを持ち寄るのはありかもしれないわね。何を言い出すのかと思ったけど、珍しく真っ当で驚いたわ」
チャキが場を仕切り始め、そして仲間たちはそれが正解だと言うように各自が部屋に戻ってノートを持ってきた。マンガを読んでいたはずのリアまで、ノートを持ってくる始末で、フミヤは仕方なくカバンの中を捜索してノートを取り出して積み上げておいた。
集められたノートはかなりの量になっていた。同じ教科は一つの山として積み上げてはいたものの、幅が広いために部屋の床がノートまみれになった。
「壮観ではないか! これで我軍の勝利は揺るぎないものとなるな」
この場に集まる六人は同じ大学に通っている。自宅から最も近く、ランクとしても一流企業に就職できる程度の大学ということもあり、揃って志望して合格した。フミヤは特別推薦枠というコネで早々に進学を決めており、ワタルは全額免除の特待生推薦枠を選んだら同じ大学だった。
「一般教養に限っては、という制限があるけど、それでも充分に心強いね」
大学自体は一緒でも、学部はそれぞれ違う。唯一ワタルとアヤが同じ学部であるが、英文学科と国文学科と学科が違うため、専門課程は重なっていなかった。
「アヤちゃんがいれば、もっと増えそうだけどね」
「そうだ、アヤがいないじゃないか。どうせ部屋で引きこもってるだろ? シュウ、ちょっと引きずってこいよ」
「アヤちゃんなら、今日はサークル活動があるって出かけたよ」
そんな話をしながらも、仲間たちは次々と自身の役に立ちそうなノートをピックアップしていった。
「とりあえず、一つだけわかったことがあるの。きっとみんなも同じことを考えていると思うのだけれど」
「野球したいよな!」
「とりあえず野球は放置しておくことにして、チャキの言いたいことは……履修登録を共有しておこうということだね」
「ええ、そうよ。次のテストからノートの貸し借りが楽になりそうだもの。あとで、持ち寄りましょう」
「効率厨乙」
「効率を考えることは大事なのよ。無駄な時間を過ごさずに済むでしょう? フミヤは──無駄な時間は大好きそうだけれど。でもね、多少効率が悪くても仲間であればそれは許容できるし、付き合うわよ。もしこれが野良だったら、急な用事が百件くらい発生しているでしょうが」
「チアキチアキ? ゲームと現実がごっちゃになってるよ」
普段は現実とエロゲーを一緒くたにするシュウに言われて、チャキはちょっと顔を赤くした。恥ずかしかったようだ。
「ネーネーネー! ナンデ! ナンデナノ!? ナンデワターシのノートだけ残ってるノネー!?」
『こんなに分かりやすいのに……』と言いながらノートをペラペラめくっているリアだったが、残りの仲間たちは顔を見合わさずにはいられない。
「だってそのノート……イタリア語で書かれてるでしょ? それを解読するのはツライよ」
スズが代表して、リアのノートの問題点を指摘した。スズだけでなく、他の者たちもイタリア語は理解できないので仕方のないことだった。
「それじゃ、わたしは勉強するから戻るわね。ノートは今日いっぱい借りておくわ」
「チャキちゃんが、日曜の真っ昼間から勉強するとか言い出したんだけど……明日、大雪でも降るんじゃないかな」
「ハリケーンが発生スルネー!」
女性二人が驚いていて窓に駆け寄って空を見上げたので、チャキはため息をついて疑問に答えた。
「今夜はボスレイドがあるから、勉強なんてするヒマがないほど忙しいのよ」
「なるほど。いつものネトゲーか。そういうことなら小雨程度で済みそうだね」
どちらにせよ、天気が崩れる程度には珍しいことであった。
「俺も勉強してくるよ」
「──っ!?」
シュウの発言に、今度はフミヤとワタルが驚愕した。
「お、おいシュウ。熱でもあるのか。お前がエロゲーしないで勉強するとか、日本沈没レベルの大災害が起こるぞ」
「あのねえ……俺だって勉強くらいするさ。それにね、どうせ夜はチアキが寝落ちしないように一緒にいることになるから、その時にエロゲーするつもりだよ」
なんとなく勉強をする流れになったので、スズもノートを持って立ち上がり、ワタルもそれに続いた。
次々と去っていく同居人たちを見て、フミヤも勉強をしなくてはならないような気がした。
「勉強……するかなぁ」
「ハッハッハー、フミーヤにはそれはムリだネー」
欲しいノートを集めてからリアは再びベッドでマンガを読んでいた。勉強をする気がないと言わんばかりの姿勢は、見習うべきところがありそうだった。
「よく分かっているな。だがオレはやるぞリアぁぁぁぁぁっ!」
「ガンバレー」
リアは興味なさそうに、マンガのページをめくりながら応援してくれた。
「……ところで、テストっていつからよ」
「アサッテダヨー?」
隅に寄せていたテーブルを中央に運んで、フミヤは勉強を始めた。
「そうそう、良い物もらってきたんだよぉ、えへへ」
住人たちが休日の昼間から熱心に勉強をし始めた日の夕食時、その中でただ一人に外出していたアヤがそう切り出した。
「なになに? 新しいエロゲー?」
「五日間無料のシリアルコード?」
「恋愛成就のお守りとか?」
「どうしようもない面白人間か?」
「爆炎魔法少女エピカルです子ちゃんのブルーレイボックスだよネー!?」
「それ全部、皆がほしいものじゃないのぉ……」
なおシュウ、チャキ、スズ、フミヤ、リアの順である。
「過去問だよ、過去問~」
「カコモーン? シロクマのキグルミのシンセキかー?」
反応すると色々危ないので、アヤはリアの言葉を華麗に受け流して、カバンの中から取り出した分厚いコピー用紙の束をバサバサとさせてみせた。
「うちの大学ってねぇ、テストはほとんど過去問の流用なんだってぇ。だから、これやっておくと、なんとかなるんだってぇ。これで楽が出来るね~」
満面の笑顔を浮かべているアヤだったが、それに反して周りの顔が妙にどんより曇っていく。
「昼間の勉強が無駄じゃないかぁっ!」
フミヤの叫びが、全員の心の中にあるモヤモヤを代弁していた。