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2年目 8月 「見慣れない勘違い」

「こんなに暑いのに、ワタルってばよく平気だよね」

「まあ、慣れだよ」


 ティーシャツにハーフパンツとこんもり膨れた腹をはみ出させながら、リビングでのんびりしていたシュウは、いつものようにスーツを着込むワタルに聞いた。


「夏用の生地の薄いスーツだし、シャツも半袖だしね」


 ワタルの見た目は若いサラリーマンのようだった。もっとも、そのスーツに使われている生地は若いサラリーマンなら目を飛び出させるほどの金額である。


「サラリーマンっぽいだろう?」

「確かに。そう考えると普通なのかな。そういえば、今日は仕事?」

「ああ。今日は同伴もないし、暗くなる頃に出る感じかな」

「じゃ、夕飯早めにつくるよ」

「まるでぇ、夫婦の会話みたいだよぅ?」


 キッチンで冷蔵庫からオレンジジュースの二リットル入り紙パックを取り出していたアヤが、二人の会話にツッコミをいれた。


「しかもさぁ、年季が入ってる感じがするよぅ。あ、オレンジジュースいるぅ?」


 二人とも欲しいと言ったので、アヤはグラスを二つ追加した。テーブルにグラスを運んで渡しながら、アヤもソファに座った。


「でもでも、いつもワタルくんてスーツだもんねぇ。たまには、他の格好も見たいなぁ」

「そう言われてもね。スーツしか持ってないからさ」


 ワタルは私服を一揃いも持っていなかった。そのための金があったら借金の返済に回すのだ。仲間と過ごすためなら気にしないのに、自身には徹底して使わない。

 さすがに寝るときは寝間着だが、それだって着古したズボンとシャツである。


「そうなんだけどさぁ」


 買ってやると言ってもワタルは拒否する。仲間だからこそ受け取れないとキッパリしていた。親友だと認め合うフミヤでさえ、突き崩すことはできなかった。


「あ、いいこと思いついたよぅ」


 アヤがパンと手を打ったが、シュウとワタルはその先を聞くことがためらわれた。こういう時のアヤは、決まってどうしようもないことなのだ。


「悪い予感しかしないね」

「しかも、とびっきりと来たもんだよ」

「なんでよぅ。そんな警戒しなくっても大丈夫だってぇ」


 アヤが言うと説得力ないなと、シュウはアヤが過去に言い出したことを思い返してみる。どれもこれも、どうしようもないことだった。


「ちょっと聞いてみるねぇ」


 スマホを取り出すと、アヤはメッセンジャーアプリを起動して、質問を投げた。すぐ、答えが返ってきた。


「オッケーだってぇ。じゃあ、行こう~」

「どこに? というか、誰に聞いたの」

「フミくんのお部屋だよぅ。聞いたのは、フミくんにだよ?」


 アヤに引っ張られて、ワタルはフミヤの部屋に連れ込まれた。



 ワタルは死んだ魚のような濁った目で、アヤの着せ替え人形にされていた。

 アヤはウキウキしながら、こっちかなぁこれもいいなぁとフミヤの服を物色しては、ワタルにあてがう。そして違うと思うとそれを放り出して次の服をクローゼットに求める。どんどんと散らかっていくので、それをシュウが拾ってハンガーに掛けてクローゼットに戻していく。

 そんなことを一時間ばかり繰り返して、ようやくアヤは納得がいくコーディネートを完成させた。


「わ、わ、わ。これヤバイよぅ」


 白い無地のVネックティーシャツに、黒地のチノパン、七分丈サマーカーディガンといった、ワタルという素材をふんだんに活かしたシンプルな装いになった。

 フミヤの服なのでワタルが着ると多少大きいが、不格好に見えないのは素材の差という覆しきれない最大の武器のおかげだった。

 アヤの要望で、サラサラストレートの髪型もラフな感じに崩されている。薄暗いライトグレーの髪は、今日ばかりは左右に分けられて顔がハッキリと見える。


「ヤバイヤバイヤバイよぉぉぉぉ」


 さっきから、アヤはヤバイしか言ってないが、ワタルの私服姿はそれだけのインパクトがあった。

 シュウは、いつものように作っているキャラをどこかに放り出しているアヤのほうが『ヤバイ』んじゃないかと心配したくなる。

 アヤのことだから、ワタルがあんまりかまってくれなければ、すぐにフミヤに流れたり、どこかでイケメンを見つけたらそっちに流れていくかも、とも思う。

 それ自体を否定するつもりはないが、アヤも特定の相手を見つけて落ち着いて欲しいと思うのは、シュウが既にそういう相手を持っているからかもしれない。


「ワタルくん大好きっ」

「はは、ははは、ありがとう……」


 抱きついてきたアヤに、ワタルは乾いた笑いで答えるしかなかった。

 ワタルはアヤに好きだと言われて、困っているようだった。少なくとも、借金を返しきってホストをやめない限りは、ワタルはそれを受け入れないと聞いている。

 そんな思いを、シュウは一言に込めていた。


「……アヤって、よく分からないや」

「アヤだからね」


 ワタルも、アヤをきちんと理解しているようだった。


「つまりはねぇ、イケメンは正義ってことだよぅ?」


 全くもってシュウには縁のなさそうな言葉だったので、シュウは気にしないことにした。


「タッダイマー」


 ちょうどそこにリアが帰ってきたようだった。

 アヤはワタルの手を引いてリアを出迎えに走って行ってしまった。


「あーあ、片付けないままだよ……」


 ひとまず、シュウは先に片付けをしてからのんびりと向かうことにした。



「フミーヤがイケメンになったかと思ったヨー」


 それがリアの第一声だった。


「ワタールの私服姿もイイネー。それで大学に行ったら、大変なことになりそうダヨー」


 間違いなく女子に囲まれることは確実だった。スーツ姿でも充分に誘われまくるので、正直これ以上は勘弁して欲しいというのがワタルの本音である。


「へえ。素材の差って、ここまでのものなのね」


 アヤがチャキまで呼び出してきた。チャキはリビングにいたのがフミヤの服を着たワタルであることをひと目で見抜き、すごくシンプルにワタルを評した。


「着慣れなさすぎて、居心地が悪いね」

「いいじゃない。たまには、そういう格好をしてみることも、己を磨くことではなくて?」

「そう言われてしまうとね。ボクも仕事柄、必要なことに感じてしまいそうだよ」

「じゃあじゃあ、服買いに行こうよぅ!」

「いや、それはやめておく」


 そこだけは、ワタルが譲れない線だった。

 アヤはスマホを構えて、カメラでワタルを撮りまくっていたが、容量オーバーの警告を見て、『にゃ~』と意味不明な叫びをあげる。このはしゃぎっぷりは、誰にも止められそうになかった。


「そろそろ着替えてもいいかな」

「ええええええっ。ギリギリまでその格好でいてよぅ」

「アヤの言うことなんて放っておいて、ワタルの好きになさいよ」

「そうさせてもらうよ」

「ま、待ってぇぇぇぇぇ」


 アヤは必死にワタルにすがりつくが、ワタルは頑張ってアヤを引きずって歩きはじめた。


「あっれぇ、ワタルくん何してるの?」


 靴を脱ぎながら、スズは珍しい格好をしていたワタルに聞いた。ワタルは背を向けていたが、それがワタルであることを迷わずに見抜いていた。


「それフミちゃんの服だよね。なになに、コスプレ?」

「いや……なんか、アヤに着させられた」

「スズーオカエリー。すごいネー、ワタールだってよく分かったネー」

「だって、私がフミちゃんを見間違える訳がないじゃない」

「おお、スズすごーい」

「そりゃあね」


 スズがそれなりに豊かな胸を張ってみせた。


「髪の色と背丈で見分けられるでしょう。そんなこと、誇るほどでもないわ」


 リビングから、そんなチャキの声が聞こえてくる。


「ま……まあ、そうなんだけどね」

「アヤ、そろそろ離してくれないか」

「いーやーだー」


 駄々っ子のように、アヤはワタルの腰に抱きついたままだ。


「もう出るの?」

「うん、そろそろ支度をしたいかな」

「じゃあ、任せてよ」


 スズはアヤに馬乗りになると、伸ばされた腕の根本へと指を這わせる。アヤの脇は半袖でガードされているが、夏向けの薄い生地なので、ほぼ素通りである。


「わひゃっ、あんっ、あっ……だめぇ……あははははは」


 脇へのくすぐり攻撃でアヤはあっという間に陥落し、ワタルから手を離した。スズはそれに気付きながらも手を緩めない。


「ほれほれほれほれ~」

「あはっ……いひっ……ら、らめ……あははっ──あははは……」


 涙とヨダレを垂らしながら、アヤは攻められるままにされていた。

 それを見て、ワタルは脇目もふらずに部屋へと向かっていった。



 いつものようにスーツに着替えて出勤していったワタルを見送ったあとで、アヤは潤んだ目でスズに寄り添った。


「アヤ、女の人でもいいかもしれないかなぁ」

「やめてよ!?」

「わあ、百合だ。これはこれで……アリ!」


 その二人の絡みを、シュウは嬉しそうに見つめていた。


「百合なんてマンガかエロゲーの中にしかないと思っていたけど、まさか目の前で見ることが出来るなんてね。眼福眼福」

「ちょっとシュウくん、アヤを何とかしてよ」

「いやいや、これはこれでいいものだよ」


 まったく頼りにならなさそうなシュウから、スズはリアへと視線を送った。


「リアちゃんっ」

「ンー? スズは、アヤで色々勉強するのもいいんじゃナイカナー」


 リアまでこの調子である。


「んもう、私はそういう趣味はないんだってば!」


 近づいてくるアヤの顔を必死に抑えつけながら、スズは叫んだ。

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