『波の底の一番星』
海鳴りが、夜の底で重い獣のように唸っていた。
瀬戸内の小さな島で育った私たちは、逃げ場のない潮風の檻の中にいた。錆びついたトタン屋根、夕暮れに染まる造船所の巨大なクレーン、そして誰かの噂話が翌朝には島中を一周する、息の詰まるような共同体。
十七歳の夏、防波堤の上で櫂は言った。
「なあ、透子。星って、死んで何億年も経ってから届く光があるらしいぞ」
「知ってる。今見えてる光は、もうそこにはないかもしれないってやつでしょ」
「じゃあさ、俺たちが今ここでこうやって息してるのも、どっかの誰かには何億年も後にしか見えないのかな」
櫂の横顔は、切り絵のように鋭かった。潮風でバサバサになった黒髪の隙間から覗く耳たぶには、安全ピンで無理やり開けたという歪なピアス穴がある。彼の母親は、夜の町で男をとっかえひっかえし、櫂をネグレクトしていた。私の家は、寝たきりの祖父と、世間体ばかりを気にしてヒステリックに叫ぶ母親で満ちていた。
私たちは、呪いのように絡みつく「家族」という重力に足を取られながら、ただ隣に座って海を見ていた。互いの傷口の形が似ていることだけが、私たちがここにいていい唯一の理由だった。
「櫂、東京に行きたい?」
「行きたいよ。ここじゃ息ができない。でも……」
櫂は言葉を切り、膝を抱え込んだ。波飛沫が上がり、冷たい飛沫が頬にかかる。
「透子を置いてくのは、嫌だな」
「ばか。私は私の足で行くよ。櫂に連れてってもらうわけじゃない」
「強いな、透子は」
「強がってないと、息が止まりそうだからだよ」
櫂がふっと短く笑って、私の冷え切った指先を握った。
櫂の手は、油絵具の匂いがした。彼は学校の美術室の隅で、誰にも見せないキャンバスに、暴力的なまでに鮮やかな夕焼けと海を描き続けていた。その熱が、皮膚を通して私の凍りついた芯を溶かしていくようだった。
「櫂、約束して」
「ん?」
「どんなに泥水を飲んでも、自分の光を消さないで。私は櫂の描く絵が好きだから」
「……約束する。透子がそう言うなら、俺は星になるよ。遠くからでも、透子が見つけられるくらい光ってみせる」
幼い誓いだった。それがどれほど過酷な呪縛になるかも知らずに、私たちは夜空を見上げていた。
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二十五歳になった私たちは、それぞれ別の場所で、別の地獄を生きていた。
櫂は小さなデザイン事務所で働きながら、夜間にアトリエにこもって絵を描いていた。彼の絵はSNSを通じて少しずつ世間に知られ、若手画家として脚光を浴び始めていた。
一方の私は、東京の片隅の小さな編集プロダクションで、泥のような雑務に追われていた。島に残してきた母からの着信画面を見るたび、胃の底がきゅっと縮んだ。「仕送りはまだか」「いつ戻ってくるんだ」「親を見捨てるのか」。島から伸びた見えない鎖は、何年経っても私の足首に食い込んでいた。
初冬の冷たい雨が降る夜だった。櫂のアトリエを訪ねると、部屋の中はシンナーと油絵具の匂いが充満していた。
床には描き殴られたスケッチや、割れた酒瓶が転がっていた。櫂は壁に背を預け、虚ろな目で宙を見つめていた。頬はこけ、かつて島で海風を睨みつけていた頃の鋭さは、すり減った刃物のようになっていた。
「……透子?」
「櫂、ごはん食べたの?」
私が買ってきたコンビニの袋を置くと、櫂は力なく笑った。
「食ってない。何日かも覚えてない」
「だめだよ、そんなんじゃ身体壊すよ」
「絵が、描けないんだよ」
櫂の声は、掠れて震えていた。
「賞を獲ってからさ、周りに人が増えた。みんな俺の『生い立ち』を褒めるんだよ。瀬戸内の寂れた島で、育児放棄された孤独な青年が描く、魂の叫び、だってさ。反吐が出る。俺の傷を、あいつらは金で買ってるだけだ」
「櫂……」
「お前のことだって描けなくなった。俺にとって透子は、あんな島で唯一の光だったのに……今、キャンバスに向かうと、透子の顔すら金の匂いがしてくるんだよ。俺はもう、汚れた」
櫂は頭を抱え、床に蹲った。その背中があまりにも小さくて、胸が引き裂かれそうだった。
私は櫂の隣に膝をつき、その震える肩を抱きしめた。
「汚れてなんかないよ」
「嘘をつくな! 透子、頼むから、俺を見ないでくれ……情けないところを、見せたくないんだ……」
「見るよ。ずっと見てるって約束したじゃない」
櫂の顔を両手で包み込み、強制的に視線を合わせる。彼の瞳は充血し、涙が溜まっていた。
「私の家族だって、私の血を吸い尽くそうとしてる。毎日死にたくなるよ。なんであの島で生まれたんだろう、なんで普通の家に生まれなかったんだろうって、毎晩爪を噛んで泣いてる。でもね、櫂」
「透子……」
「櫂が描く青は、あの海の青は、本物だったよ。誰に何を言われたって、十七歳の防波堤で私に見せてくれたあの光は、偽物じゃない」
櫂の瞳から、大粒の涙が零れ落ちて、私の手の甲を濡らした。
「透子、一緒に逃げようか」
櫂がすがるように言った。子どものような声だった。
「全部捨てて、誰も俺たちを知らない遠い国に行こう。透子と二人なら、俺は絵なんか描けなくてもいい。ただ透子と生きていければ、それで……」
その言葉の甘さに、一瞬、目眩がした。
すべてを投げ出して櫂と二人きりの世界に閉じこもれたら、どれほど楽だろう。世間の期待も、家族の呪縛も、生活の苦しさも、全部置き去りにして。
けれど、それは櫂の魂を殺すことだと分かっていた。
絵を奪われた櫂は、遠からず自分自身を憎むようになる。私もまた、櫂の才能を潰した罪悪感で息ができなくなる。私たちは、互いを愛しているからこそ、寄りかかって共倒れになってはいけないのだ。
私はゆっくりと首を横に振った。
「逃げないよ」
「どうして……! 俺を愛してないのか?」
「愛してるからだよ、櫂」
喉の奥が熱く焼けるようだった。言いたくない言葉を、自分自身の心臓に杭を打つように口にする。
「櫂から絵を奪ったら、櫂の星は消えちゃう。私はね、暗闇の中で櫂が光ってるのを見上げたいの。隣で一緒に泥に沈むんじゃなくて、遠くてもいいから、櫂が自分の力で燃えている姿を見ていたいの」
「そんなの……寂しいだろ。一人で光るなんて、寒すぎるよ」
「一人じゃないよ。私が地上から、ずっとその光を見てる。どんなに遠く離れても、夜空を見上げればそこに櫂がいるって思えるなら、私は生きていける」
櫂は絶望したように息を呑み、そして私の胸に額を押し付けて、声を上げて泣いた。
子どものように、しゃくりあげながら。私は彼の冷たい髪を撫で続けた。雨が窓を叩く音だけが、部屋を満たしていた。
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それから三年が経った。
私たちは、互いに連絡を取るのをやめた。自立した大人として、自分の人生の重みを受け止めきるまでは、会ってはいけないという暗黙の了解だった。
私は出版社に転職し、文芸の編集者として忙しく働いていた。母とは公正証書を作って法的に距離を置き、経済的な支援の線引きをした。母は罵詈雑言の手紙を送りつけてきたが、私はもう、それを見て取り乱すことはなくなった。自分の人生を生きる覚悟が、私を強くしていた。
秋の初め、銀座の大きなギャラリーで、櫂の個展が開かれた。
個展のタイトルは『遠日点』。
初日の夕暮れ、仕事を終えた私は、吸い寄せられるようにそのギャラリーへ向かった。
洗練された白い空間に、たくさんの人々が集まっていた。壁に並ぶ絵画は、どれもかつての破壊的な荒々しさを削ぎ落とし、静謐で、けれど圧倒的な生命力を宿していた。
そして、展示室の最も奥に、その絵はあった。
三メートル四方はあろうかという巨大なキャンバス。
そこに描かれていたのは、夜の帳が降りる瞬間の瀬戸内の海だった。
群青と紫が溶け合う空の端に、ただ一つ、燃えるように激しく、けれど凛とした光を放つ一番星が描かれている。
その星の光は、暗い水面をどこまでもまっすぐに照らし、見上げる者の足元にまで届いていた。
タイトルプレートには、ただ一言。
『汝、星のごとく』
「気に入っていただけましたか」
背後からかけられた声に、心臓が跳ねた。
振り返ると、仕立ての良い黒いジャケットを着た櫂が立っていた。
髪は短く切り揃えられ、かつての痛々しい痩身は消え、大人の男の落ち着きを纏っていた。けれど、その瞳の奥にある強い光は、十七歳のあの夏のままだった。
「櫂……」
「来てくれたんだな」
櫂は穏やかに微笑んだ。かつてのように縋りつくような笑みではなく、自分の足で大地を踏みしめている人間の笑みだった。
「すごく、いい絵だね」
「あんたのおかげだよ」
「私の? 何もしてないよ」
「ううん。あの雨の夜、透子が俺を突き放してくれたから、俺は自分の足で立つしかなかったんだ。誰かに依存して描くのをやめて、一人で暗闇を引き受けて、それでも透子に届く光を描こうと思えた」
櫂は一歩近づき、展示された絵を見上げた。
「俺は星になったよ、透子。あんたがどこにいても見つけられるように、ずっとここで燃え続ける」
「うん。見えてるよ。痛いくらいに」
ギャラリーの柔らかな照明の下で、私たちは見つめ合った。
抱き合ったり、手を繋いだりすることはなかった。触れ合わなくても、私たちの魂がかつてないほど深く結びついていることが分かったからだ。
私たちは、互いの人生を背負い合うことはできない。人はどこまで行っても一人で、自分の孤独を抱えて生きていくしかない。
けれど、夜空を見上げれば、そこには星がある。
どんなに暗い夜でも、見上げれば必ず光を返してくれる存在がある。その事実だけで、人は荒野のような現実を歩いていけるのだ。
「また、見に来ていい?」
「当たり前だろ。一番前の特等席で見ててくれ」
櫂がいたずらっぽく笑った。その顔は、あの防波堤の上で見せた十七歳の少年のものと同じだった。
外に出ると、東京の冷たい夜空が広がっていた。ビルの谷間の狭い空に、小さな星が瞬いている。
潮の匂いはもうしない。けれど私の胸の奥には、どこまでも深く青い海と、決して消えることのない光が、確かに息づいていた。




