婚約破棄された悪役令嬢は、冷酷と噂の北方公爵と政略結婚させられましたが、二人きりの時だけ溺愛が止まりません
「――よって余は、ルミネ・フォン・ノルデンシュテルナとの婚約を、本日をもって破棄する」
ああ、やっぱり来たか。
私はドレスの裾を握りしめながら、心の中で盛大にため息をついた。
前世の記憶をこの身に宿す私にとって、目の前で繰り広げられている光景は「知っていた未来」そのものだった。
乙女ゲーム『氷華の王冠』のクライマックス、悪役令嬢の断罪イベント。
ヒロインであるラルマ嬢が涙ぐみ、王太子フィエロが正義の顔をして婚約破棄を宣告し、取り巻きたちが拍手する。
回避しようと三年間頑張ったのだけれど、無駄だったらしい。
悪役令嬢の運命というのは、よほど頑丈にできているようだ。
「ルミネ嬢の処遇については、すでに陛下と協議済みである」
国王の側近が一歩前に出た。
白髪交じりの老臣が巻物を広げ、朗々と読み上げる。
「ノルデンシュテルナ公爵家令嬢ルミネは、北方辺境領主グラシオ・ヴァーサ公爵のもとへ嫁ぐこと――」
会場がざわめいた。
北方辺境。極寒の地。
そして、グラシオ・ヴァーサといえば。
「氷の公爵……」
誰かが囁いた声が、沈黙の中をよく通った。
戦場で三千の兵を率いて隣国の大軍を退けた武人。
だが、宮廷に戻れば一言も発さず、晩餐会では誰とも目を合わせず、感情というものを持たないかのように振る舞う男。
原作ゲームには登場しなかった人物だ。つまり、ここから先は私の知らない物語になる。
「お可哀想に」
「あの冷血漢の妻になるなんて」
「ルミネ嬢への罰ですわね」
貴族たちの哀れみと嘲笑が背中に刺さる。
ラルマ嬢だけが「ごめんなさい」と泣いていたが、その瞳の奥にうっすらと安堵の色が見えたのは、きっと気のせいではない。
私は背筋を伸ばした。
泣くものか。
前世で上司のパワハラに耐えた女だ。
「――謹んでお受けいたします」
それだけ伝えて、振り返らずに広間を出た。
***
北方辺境への旅は、七日間かかった。
南の王都を出てからというもの、馬車の窓の外の風景は日に日に色を失い、五日目にはすべてが白に沈んだ。
針葉樹の暗い緑と、雪と、鉛色の空。
それが世界のすべてだった。
七日目の夕暮れ、馬車が止まった。
ヴァーサ公爵邸は、私が想像していたような陰気な城ではなかった。
濃い茶色の木材と石を組み合わせた、北方様式の重厚な邸宅。
窓という窓に灯りが点っていて、雪原の中にぽつんと浮かぶその姿は、まるで暗闇に落とされた琥珀のようだった。
正門の前に、一人の男が立っていた。
背が高い。
銀灰色の髪を無造作に後ろへ流し、深い紺色の軍服を着ている。
切れ長の目は冬の湖のように冷たく、口元は一文字に引き結ばれていた。
グラシオ・ヴァーサ。
私の夫になる人。
「長旅だったな」
第一声がそれだった。
労いなのか事実確認なのか判別がつかない、感情のない平坦な声。
手を差し伸べてくれるわけでもなく、彼はただ踵を返して邸内へと歩き始めた。
――ああ、これが「氷の公爵」か。
使用人たちが荷物を運び入れるのを横目に、私は黙ってその背中を追った。
邸内は外観から想像するよりもずっと温かかった。
廊下のいたるところに暖炉があり、橙色の炎がゆらゆらと壁を照らしている。
案内されたのは東棟の奥、公爵夫人用の居室だった。
「食事は一時間後に大広間で。使用人に何でも申しつけるといい」
グラシオはそれだけ言って、踵を返した。
扉が閉まる。
私は一人、広すぎる部屋に取り残された。
天蓋付きの寝台、毛皮の敷物、暖炉の上には北方特有の青い陶器が並んでいる。
窓の外では、粉雪がしんしんと降り続けていた。
「……まあ、こんなものよね」
期待していたわけではない。
政略結婚なのだから。
ただ、前世を含めた二度の人生で、一度くらいは誰かに大切にされてみたかったなと思ったのは事実だった。
***
初めての夕食は、果てしなく長いテーブルの両端に座るという、冗談のような光景だった。
グラシオは一言も発さなかった。
ナイフとフォークの音だけが響く。
使用人たちが壁際に並び、凍りついた顔でこちらを見ている。
いたたまれなくなった私は、食事を半分残して席を立った。
「お先に失礼します」
「ああ」
それだけ。
部屋に戻り、寝支度を済ませ、寝台に潜り込む。
慣れない羽毛布団は温かくて、疲労も相まってすぐに瞼が重くなった。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「……誰ですか?」
「俺だ」
グラシオの声だった。
慌てて寝台から降り、扉を開ける。
廊下の薄闇の中に立つ彼の手には、小さな盆が載っていた。
その上には、白い陶器のカップが一つ。
「夕食、半分しか食べていなかっただろう」
彼は部屋に入ると、暖炉の前の小卓にカップを置いた。
湯気が立ち上っている。
甘い香り。
「温めた蜂蜜酒だ。この地方の……その、身体が温まる飲み物だ」
さっきまで氷の彫像だった男が、目を逸らしながら蜂蜜酒の説明をしている。
その耳が、わずかに赤い。
「あ……ありがとう、ございます」
「それと」
グラシオは軍服の内ポケットから何かを取り出した。
薄い革の手袋だった。
裏地に柔らかな毛皮が縫い込まれている。
「ここは冷え込む。王都の手袋では肌が保たない」
私は手袋を受け取った。
革は手に馴染む柔らかさで、内側の毛皮はふわふわと温かかった。
「これ、公爵様が選んで──」
「──グラシオでいい」
彼は暖炉の炎に照らされて、昼間とはまるで別人の顔をしていた。
冷たい湖のようだった瞳が、今は炎を映してかすかに揺れている。
「二人きりのときは、そう呼んでくれ」
その声は雪原に降る粉雪のように、静かで柔らかかった。
私は混乱していた。
これは一体どういうことなのか。
昼間のあの冷淡さは何だったのか。
「あの、グラシオ様。お昼はほとんど口をきいてくださらなかったのに──」
「──ああ。そうだな」
彼は暖炉の炎を見つめたまま、少しだけ黙った。
「人前では、お前に優しくできない。それは先に謝っておく。だが──」
グラシオは私のほうを向いた。
相変わらず表情は乏しい。
でも、その目だけがまっすぐに私を捉えていた。
「この部屋の扉が閉まっているときは、俺はお前の夫だ。覚えておいてくれ」
それだけ言って、彼は部屋を出て行った。
私は温かい蜂蜜酒を両手で包みながら、しばらく動けなかった。
***
翌日から、私の二重生活が始まった。
朝。
大広間での朝食。
グラシオは一言も発さない。使用人が給仕するスープを黙って飲み、黙って席を立つ。
私のほうを見ることすらしない。
昼。
公務の合間に廊下ですれ違っても、彼は軽く頷くだけだ。
使用人たちは、そのそっけなさに眉をひそめ、「奥様がお可哀想」と囁き合う。
だが、夜になると。
「今日は耳が赤い。外に出ただろう」
暖炉の前に並んで座り、彼は私の耳にそっと手を当てた。
ごつごつした大きな手のひらが、驚くほど温かい。
「庭を散歩しただけよ?」
「北風が強い日は控えろ。下手をしたら凍傷になる」
言いながらグラシオは棚から小さな瓶を取り出した。
蜜蝋と薬草を混ぜた軟膏で、彼は慣れた手つきで私の耳たぶに塗り始めた。
「いつの間に用意したの?」
「お前が来る前に、街の薬師に作らせた」
私が来る前に。
つまり、この人は政略結婚の相手が到着するよりも前から、私の肌が北方の寒さに耐えられないだろうと心配していたのだ。
「……ねえ、グラシオ様」
「様はいらない。二人きりだ」
「なら、グラシオ。ひとつお願いしてもいいかしら」
「なんだ?」
「二人きりのときは、私のことを『お前』って呼ぶのをやめてほしいの。せっかく誰も見ていないのだもの、私を大切だと思うのなら名前で呼んで?」
グラシオは虚を突かれたように瞬きをした。
それから、こじ開けられたばかりの暖炉の火を見つめるような、情けないほど不器用な沈黙が流れる。
「……努力、しよう。ルミネ」
わずかに声が震えていた。
その耳が、また一段と赤くなったのを私は見逃さなかった。
「ふふっ、ありがとう──ねえ、グラシオ。どうして人前では、私にあんなに冷たくするの?」
彼の手が止まった。
しばらく沈黙が落ちたあと、グラシオは静かに語り始めた。
「この領地は、北に王国、東に帝国。二つの大国に挟まれた緩衝地帯だ。俺がこの地を治めていられるのは、どちらの国も『あの男には、交渉の余地がない』と思われているからだ」
暖炉の火が爆ぜる音がした。
「もし俺に大切なものがあると知られたら、それは相手にとって武器になる。ルミネを攫って俺に要求を呑ませることができる。そうなればこの領地の民も、ルミネも、守れなくなる」
グラシオは私の目を見た。
「だから人前では、ルミネを愛していないふりをする。これは俺がルミネを守るために被る仮面だ」
私の目から、涙がこぼれた。
前世で読んだネット小説は、いつだって大衆の面前で愛を叫んでくれるものだった。
でも、目の前のこの人は、愛しているからこそ黙っている。
大切だからこそ、冷たくする。
それは不器用で、孤独で、誰にも理解されない愛の形だった。
「──泣くな」
グラシオの指が、私の頬を拭った。
「泣かせたいわけじゃない──」
「──違うの。嬉しいの」
彼は一瞬、面食らったように目を見開いた。
それから少しだけ──本当に少しだけ、口元が緩んだ。
「変わった女だ」
「あなたにだけは言われたくないわ」
***
そうして季節が巡った。
公の場では相変わらず、私たちは仮面夫婦だった。
月に一度の領主館での晩餐会。
グラシオは領内の貴族たちを招き、上座に座り、鉄の顔で政務の報告を聞く。
私は末席に近い場所に座り、夫からは一度も話しかけられない。
「公爵様は奥方様に興味がないのだ」と、客人たちは囁く。
だが、彼らが帰ったあと広間の片付けが終わり、使用人たちが下がったあと。
寝室の扉が閉まると、グラシオは椅子にぐったりともたれて呟くのだ。
「ルミネ、今日のドレス、よく似合っていた」
見ていないふりをして、全部見ている。
「隣に座ったヴェーバー男爵が、随分とルミネに話しかけていたな」
「あら、嫉妬?」
「違う」
即答。
でも、翌月の席順表を見たら、ヴェーバー男爵の席が私から三つ離れた場所に変わっていた。
疲れているにも関わらず、再び立ち上がるので、何事かと思えば──。
「ルミネは、俺のものだ」
私を抱きしめながら耳元で囁くその台詞を反芻しながら、その日は幸福で眠れなかった。
***
異変が起きたのは、結婚から一年が過ぎた冬のことだった。
東の帝国から使者が来た。
表向きは外交交渉。
しかしグラシオの表情が──あの鉄の仮面が、わずかに強張ったのを私は見逃さなかった。
「ルミネ」
その夜、彼は珍しく私の名を正式に呼んだ。
「しばらく邸を離れるな。外出も控えてくれ」
「何があったの?」
「俺たちのことを嗅ぎ回っている者がいる」
心臓が冷えた。
仮面が、剥がれかけている。
その日からグラシオは人前でさらに冷たくなった。
使用人の前ですら、私に話しかけなくなった。
同じ食卓につくことすらやめ、私は一人で食事をするようになった。
夜の訪問も途絶えた。
一日、二日、三日。
暖炉の炎だけが揺れる寝室で、私は膝を抱えた。
わかっている。
これは私を守るためだと、頭ではわかっている。
でも、人間の心はそう簡単に割り切れるものではなかった。
四日目の夜。
もう眠ろうと灯りを消したとき、枕の下に何かが触れた。
手紙だった。
封も宛名もない、無地の紙を折っただけのもの。
開くと、見慣れた硬い筆跡で、たった一行だけ書かれていた。
『北の空を見ろ』
私は窓辺に駆け寄り、カーテンを引いた。
夜空が燃えていた。
緑と紫と青が溶け合い、天頂からカーテンのように降り注ぐ。
極光──オーロラだ。この北方の地でしか見られない、天の炎。
そして、中庭に目を落としたとき。
グラシオが立っていた。
雪の中、外套も着ずに、じっと私の窓を見上げていた。
目が合った。
彼は何も言わなかった。
手を振ることも、微笑むこともしなかった。
ただ、まっすぐに私を見ていた。
──ああ、この人はそういう人なのだ。
声に出せないなら手紙を忍ばせる。
隣にいられないなら同じ空を見上げる。
仮面の下で、仮面を被ったまま、それでも愛していると伝えようとする。
私は窓ガラスに手を当てた。
ガラス越しに、雪の中の彼へ。
グラシオが小さく頷いた。
それだけで十分だった。
***
帝国の密偵が捕らえられたのは、それから十日後のことだった。
グラシオは自ら剣を取り、領内に忍び込んでいた工作員を一掃した。
詳しいことは教えてもらえなかったけれど、私の暗殺を企てていた者もいたらしい。
すべてが片付いた日の夜。
グラシオが部屋に来た。
扉を開けた瞬間、彼は──あの氷の公爵が、疲れた顔で笑った。
「……すまなかった」
私は黙って彼の軍服の胸に額を押しつけた。
血と火薬と雪と、それから彼自身の匂いがした。
「……怖かったか?」
「怖くなかった。あなたを信じていたから」
嘘だ。本当は怖かった。
でも、あのオーロラの夜を思い出すたびに、大丈夫だと自分に言い聞かせることができた。
「グラシオ」
「ん」
「いつか、仮面を脱げる日が来るかしら」
「……必ず約束する」
彼は私の瞳をみつめながら、髪を撫でた。
「だから、今はそれで許してはくれないか?」
甘い、甘いと自分でも思う。
けど、世界中の誰に誤解されても、この人の隣にいられるなら。
たった一つの扉の向こう側に、私だけが知っている本当の彼がいるなら。
それは十分すぎる幸福だった。
***
あれから、さらに月日が過ぎた。
北方辺境は少しずつ変わっていった。
グラシオの武勇と外交手腕により、二大国の脅威は後退し、領地には交易路が拓かれ、人が増え、街が育った。
その間もずっと、私たちは仮面を被り続けた。
——だが。
ある秋の日のことだ。
年に一度の収穫祭。
領民たちが広場に集まり、グラシオが領主として壇上に立つ。
私はいつものように、少し離れた場所から見ていた。
グラシオが挨拶を述べ、乾杯の音頭を取り、杯を掲げる。
そして壇上を降りたとき──彼はまっすぐに、私のほうへ歩いてきた。
領民たちの視線が集まる。使用人たちが息を呑む。
グラシオは私の前に立ち、無言で右手を差し出した。
「……え?」
「もう、いいだろう」
静かな声だった。
いつもの鉄の声ではなく、あの夜の、暖炉の前の声。
「約束だ。仮面はもう被らなくていい」
私の目がじわりと滲んだ。
いくつもの夜を二人で過ごし、いつかこの日が来ると信じて、でも口に出すのが怖くて──。
差し出された手を取った。
彼の手は相変わらず大きくて、温かかった。
広場が、ざわめいた。
あの「氷の公爵」が、妻の手を取っている。
しかもその目元が、かすかに笑っている?
古参のメイドが泣き出した。料理長が腕を組んで頷いた。
門番の老兵が鼻をすすりながら「やっぱりな」と呟いた。
皆、感づいていたのだ。仮面の下にあるものを。
グラシオは私の手を引き、領民たちの前を歩いた。
彼の歩調はいつもと変わらず大股で、少し速くて、でも繋いだ手だけは丁寧に、壊れ物を持つように優しかった。
私は涙と笑顔がぐちゃぐちゃになりながら、その隣を歩いた。
「ねえ、グラシオ」
「ん」
「二人きりじゃなくても、名前で呼んでいい?」
「……好きにしろ」
ぶっきらぼうな声。
でも、その耳が赤いのを私は見逃さない。
***
その夜。
寝室の扉が閉まると、グラシオはいつもの椅子に座り、いつものように暖炉を見つめた。
「人前で手を繋ぐというのは、なかなか緊張するものだな」
氷の公爵が照れている。
私は笑った。声を上げて、お腹を抱えて笑った。
「何がおかしい」
「だって、戦場で三千の兵を率いて隣国の大軍を退けた武人が、手を繋ぐだけで緊張するなんて」
「……戦場より難しい」
真顔で言うから、余計におかしかった。
笑いが収まった後、私はグラシオの隣に座った。
暖炉の炎が二人の影を壁に映す。
「ねえ、もう仮面を脱いだのに、夜は来てくれるのね」
「当たり前だ」
グラシオは炎を見つめたまま言った。
「仮面は脱いだ。だが、この時間はなくならない」
少し間を置いて、彼は続けた。
「世界中にルミネを愛していると示せるようになっても──ここが一番いい。ルミネと二人きりのこの部屋が」
暖炉が爆ぜた。
窓の外で、北風が雪を舞い上げている。
私はこの人の肩に頭を預けた。
「──私もよ」
氷の仮面の奥には、世界で一番温かい場所があった。
それを知っているのは、この世界で私だけだ。
──いや。
これからはきっと、みんなが知る。
扉の内側の愛は、もう隠さなくていい。
けれど、扉が閉まった瞬間の彼が、私は一番好きなのだ。
急にイチャイチャ成分が欲してきたので。




