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日陰のテニスコート

作者: 石川安泰
掲載日:2026/03/07

日陰のテニスコート

                           石川安泰


ピンク色の校舎のために、僕たちの中学はピン中と呼ばれていた。

体育館とグランドは、このピンク校舎の南側に位置している。対して校門を入ってすぐの二つのテニスコートは校舎の北側にあって、しかもカギ型をした校舎に囲まれるように接しているので、光が射さなかった。

女子テニス部と男子テニス部とで、それぞれのコートを所有していたが、特に男子用のはひどかった。コートの表面はでこぼこで、絶えず練習前に二人がかりで重いローラーを引かなければならなかった。鋲で地面に打ちつけられたビニールのラインは、ところどころ浮き上がったりちぎれたりしていて、ボールがそのラインをかすめるたびにバウンドが変わった。

雨が降ったあとなどは、日が射さないのでなかなか乾かず、いたるところに水たまりが出来た。雑巾を手に一斉にみんなで繰り出し、水を含ませてはバケツに絞った。そんなとき、水はけのいい女子コートではいつもストロークの軽快な音が響いていた。

テニス部の顧問はスポーツ刈りをした中年の社会科教師だった。毎日女子のコートににこやかに現れては、彼女たちと楽しそうに練習をして帰っていった。彼は現代流行らない熱血教師であった。教壇に立てば目を輝かせて「僕もまだ青春の中を走ってるんです」と言った。その教師が男子コートに入ることはなかった。

男子テニス部には三年生がいなかったので、僕たちのチーム割りは二年生の気分で行われた。僕、つまり石野誠は豊田一彦(通称イチヒコ)と組んで、後衛を担当することになった。同級生には、イチヒコのほかに杉本スギ小林コヤシがいた。

顧問や三年生の替わりとして現れたのは高校生のOBだった。彼らはその日の気分で作成したメニューを嬉しそうに提示した。

腕立て伏せ50回、腹筋50回、スクワット50回、〝ウサギ飛び”コート10周〝空気椅子”50回(背中を壁につけ膝が直角になるまでかがんだ状態で、両腕を前に突き出し、手を結んで開いてするのだ)ランニング5キロ・・・今日はこれを3セットやること・・・という按配だった。これらは最初二年生も交えて行われたが、OBの指示で彼らは早々と切り上げコートに入りボールを打ち始めるので、僕たち一年生だけが引き続きOBの監視のもと、ひたすらメニューをこなすのだった。

 〝ウサギ飛び”〝空気椅子”などというのは昭和時代の産物だった。いずれも膝に負担がかかるということで避けられているものを、自分たちだけで昭和ブームにハマっているOBは好んだ。

そのOBのなかでも、かつてキャプテンだった神崎さんには独特の威風があった。紺のブレザーの学生服を着た彼は、銀色の甲冑をまとったバイクに股がり、地鳴りのような爆音とともにいつも颯爽と現れた。上着から躍り出たえんじのネクタイを風に翻えらせて。

 どう見ても事故リスクの高い乗り物のエンジンを切って静かにさせてから降り立った彼は、二年生のラケットを借りると、空気椅子では腕を、腹筋では腹を、腕立て伏せでは背中を、スクワットではふくらはぎを殴ってくれた。殴られるのは一年生だけだった。彼はラケットを何に使うか知らないようだった。

さらに彼は、勉強だからと言って、ルールもまだ分からない僕らに審判台に登らせジャッジを強要した。イン、アウトがよく見えなくて戸惑っていたり、カウントを間違えるたび、またラケットが飛んできた。

そうして放課後、地響きのようなバイクの音が近付いてくるたび、僕たち一年生は顔を見合わして力なく笑い合うようになった。

せめてもの反抗として、彼に〝ゲシュタポ”というあだ名を進呈したが、一年生だけのときしかその名を口にできないのが残念だった。

テニスコートの脇には、花壇のように円形に土を積み上げてある。中央には僕の名前と同じ“誠”と大きく彫られた石碑が校門を向いて(テニスコートには背を向けて)でんとあぐらをかき、その両側に小さな植樹が二本控えている。石碑は青銅色をしており、谷川に転がっている石に比して威厳をたたえていた。

その石碑の横で小さくなっている植樹の一つを指差してゲシュタポが自慢げに言ったことがある。

「これ、おれたちが卒業記念で植えたんだ」

以来、その木は僕たちのうっぷんを一身に受けることになり、日に日に痩せさらばえていった。

でもさすがにゲシュタポのテニスの腕は確かなようだった。ボールを叩いた時の音、打球のスピード、伸び、すべてに二年生や僕たちとは迫力が違った。真剣にボールを打つときは、彼はバイクに縛り付けたラケットを大事そうに外し、コートに入った。自分のラケットを握ると、ラケットの使い方を思い出すようであった。

それは日陰のなかでも銀色に輝くラケットだった。


二年生に囲まれるようにして僕たち四人が腕立て伏せをしているとき、またもやゲシュタポのバイクの音が近付いてきた。

僕たちは一斉に動きを止めた。キャプテンが「ほら、止まるな。続けろ」と怒鳴った。だけどもう腕に力が入らなかった。ゲシュタポにこれから受ける仕打ちを思うとキャプテンの怒鳴る声など何でもないのだった。ゲシュタポはコートの横にバイクをつけているようだった。二年生たちの怒号を浴びるうち、ついにエンジンの音が止まった。僕は心の内で大きな溜め息をもらした。目の前の地面に倒れ込みたい気分だった。と、その時だった。どこか遠くから野太い声が聞こえてきた。

「おい、神崎だぜ。あの泣き虫野郎だぜ」

信じられない言葉の意味に、僕は反射的に膝をついて顔を上げた。

たむろしていた三人の〝個性の強い人〟たちが屋上から顔を出し、ゲシュタポを指差して聞こえよがしに言っているのだった。

僕は当事者でもないのに身体がこわばるのを感じた。隣のイチヒコがポカンと口を開けている。二年生たちも屋上を見上げて押し黙っていた。

 泣き虫野郎・・・ゲシュタポには過去に一体何があったのだろう。僕は泣き虫だから泣き虫の気持ちはよく分かる。ブルータス、お前もか・・・ゲシュタポ・・・君も泣き虫だったのか・・・ゲシュタポが小さくなっていく。小さくなって、小さくなって赤ちゃんになる。赤ちゃんはもっと小さくなって卵になる。ゲシュタポはついに卵になった。

見る見る赤くなったゲシュタポの顔から、火山の爆発のような大声が発っせられた。

「うるせえ、お前ら、根性あんだったら一人づつここに降りてきてみろ」

一人づつ、というのがミソだった。あの絶対的権力者のゲシュタポは、今や小さな小さな卵であった。

途端に自分でも訳の分からない怒りが込み上げてきた。僕は屋上の〝個性の強い人〟たちに目を向け、拳を握り締めて誓っていた。

〝どんなことをしてもゲシュタポを守ってやる”ゲシュタポを守るということは僕自身を守るということだ。僕とゲシュタポは一つになるのだ。泣き虫同士一つになるのだ。僕は感動で体が打ち震えた。

屋上の〝個性の強い人〟たちが顔を引っ込めた。まっ青な空ばかりが残った。静けさが不気味だった。汗が急に引いていてそよ風に鳥肌が立った。

二年生たちはゲシュタポのところに集まっていた。その中から突然キャプテンの大きな声がした。

「ぼうっとつっ立ってないで、次は空気椅子を3セットやれ!」

僕たちは、コートを挟んで校舎の反対側に張り巡らされているフェンスまで走った。背をつけて結んで開いてを始めれば、校舎の日陰が僕たちの足元で息絶えていた。暖かかった。ようやく動悸が静ってきた。落ち着いてみると、〝個性の強い人〟たちが降りてこなくて本当によかったと思った。ウルトラマンと同じで勇気には時間制限があるのだ。カップラーメンと同じで3分以上経つと伸びてしまうのだ。

見るからに高そうなバイクに跨るゲシュタポを囲んで談笑していた二年生たちは、交代でゲシュタポの降りたバイクに跨り始めた。彼らはアクセルを吹かす仕草をして、シートの具合やタンクを膝で締めた感じを確かめているようだった。僕の家は貧乏だった。お母さんの口癖は〝お金がない〟で、それを聞いたお父さんとの口論が始まるのが常だったので、バイクに羨望を抱くだけでも僕には罪だった。

日向ぼっこはいいもんだなあ、やっぱり人間も光合成は必要だなあ、なんて穏やかに考えていたらさっそく手がだるくなってきた。

そのときいつも言葉少ななコヤシが隣でぼそっと漏らした。

「いいなあ」

「ん?」

「おれ、高校入ったら中型の免許すぐ取るんだ」

「中型ってなんだっけ」

「ほら、あのゲシュタポが乗ってるやつ」と彼は顔を輝かせて言った。

「音が何とも言えないだろ。あのドッ、ドッ、ドッていう重い音がさ。それにあの銀色のタンクがしびれるんだよな」

「ふうん。中型というからには、大型や小型があるのか?」

「400までが中型。それ以上は大型。大型になれば何ccでもいいんだ」

「その大型とかは取らないのか?」

「いつか取りたい」

「小型ってないのか?」

「知らない」

「何で?バイクに興味があるのにそんなことも知らないのか?」

「・・・」

「情けない」

「マコトは知ってるの?」

「昔は小型ってあったんだよ。原付がそれに代わったんだよ」想像で適当に言っておいた。

 人を言い負かすのは楽しかった。いつも口の悪いスギの気持ちがよく分かった。むしゃくしゃするときはコヤシをこうしていじめて気晴らしすることに決めた。

それにしてもこのおとなしいコヤシが、爆音轟かしてあのサイのようなバイクで疾駆するのかなあ。想像つかないなあ。もしかしたら今どき流行らない暴走族になる気かしらん。やっぱりいまのうち仲良くしとかないと、レトロなパンチパーマとかリーゼントとかいう頭をしたコヤシが突然現れて逆にいじめられるかもしれないなあ、と将来のことまで思い及んでコヤシの顔を伺うと、またいつものような表情の乏しい彼に戻っていた。

逆隣のイチヒコは、念仏のように手を明け締めしながら回数を数えている。

「何でOB来るんだろうな。何か他にやることあんだろうにな」と同意を求めてみたところ、彼は前を向いたまま言い返してきた。

「でも、お前だけ、いつでもボール打たしてもらってんじゃん。やっぱりいくら上手だといってもお前ばっかり・・・言ってもしかたないけど」

僕が上手・・・確かにイチヒコたちよりは、よくコートに立っているような気はしていたけれど、そんな目で見られていたとは・・クラスメートのイチヒコは頭脳明晰で学級委員であった。小学生の頃から、学級委員といえば一目置かれる優等生の象徴ではなかったか。

今まで人を羨んだことしかなかった図書委員の僕は、たちまち有頂天になった。しかもこのイチヒコに羨まれたのだ・・・ということは毒舌家だけれど秀才の誉れ高いスギも、何も考えてなさそうなコヤシも、同じように思ってるってことか・・・

僕はイチヒコの言葉を三回反芻して幸せな気分に浸ったが、すぐに萎んだ。性格が謙虚なのであった。


今にも頭がジャリの地面につきそうなくらい前のめりになりながら、フェンス脇のローラーをテニスコートに引き出すため僕は一人奮闘していた。

その日も6時限目終了のチャイムが鳴るや、僕はゼッケンのついた体操服に着替え、テニスコートに飛び出したのであった。

日差しがジリジリと後頭部に照りつけていた。コートに入ればもう日陰なのだけれど、ローラーは地面に貼りついたように頑として動かない。

吹き出てきた汗が目に入り、鼻の頭から滴り落ちた。

言うことをきかないローラーは腹立たしいけれど、僕の胸はそれに勝る幸せで満ち足りていた・・・今日もまた、校舎の二階の窓からは、桟に肘を預けた水音が僕に熱い視線を注いでいるのであった。

いつでも頭のなかに描くことのできる水音は、そのぱっちりとした大きな目にかかりそうになるまで前髪を垂らし、笑うとビーバーのような二本の前歯が現れた。

僕が彼女を意識するようになったときのことは、今でも鮮明に覚えている・・・美術の時間、写生のために屋外に繰り出したときのことだった。

僕はスケッチブックを縦にして、手前に見える針葉樹数本を画面左隅に、その後方遠くに見える山の稜線をこじんまりとまとめ、大きく残った部分に強く青い空と日の光を受けてシャープに浮かび上がる雲を描いていた。

ふと筆を休めて、まじまじと絵を見る。これこそ芸術家マコトの真骨頂なのだ、と満足していると、後ろに人の気配を感じた。それが水音だった。

「きれい・・・上手なのね」

彼女は、僕の頬にくっつきそうなくらい顔を近付けて見入った。彼女の頬の産毛が僕の頬をなでた気がした。突如、君の絵を描きたい、と僕は思った。ヌードなんかじゃないよ。僕は芸術家だけれど、ヌードはまだ早い。まずは君の顔を描かせて欲しい。ヌードはずっと後のことだ。

 そして水音は顔を離してから僕を向いて笑顔をつくった。離れぎわ、僕の頬をさすった彼女の髪からシャプーの匂いがした。シャンプーの匂いでなくてトイレの匂いだったら許せるだろうか。許せるに違いない。僕は愛に体が熱く火照ってくるのを感じた。

僕と同じテニス部員の秀美が、続けて同じように僕の絵を覗き込み、同じように「きれいね」って言った。同じようにシャンプーの匂いがした。シャンプーの匂いでなくてトイレの匂いだったら許せるだろうか、とは考えなかった。

その日を境に、放課後水音は所属するバトミントン部に向かうまでのしばらくの間、いつも二階の窓から顔を出しているようになった。

時折彼女は「マコト君、頑張ってね」と手も振った。そんなとき、僕も無言で笑顔をつくって返すのだった。

「さあ、もう一息」

僕は後頭部に感じる彼女の視線に打ち震えながら、ローラーの把手を握る手に力を込め、足を踏んばった。

その途端、右足が軽くなってすぐ目の前一面にジャリがあった。手をつかねば・・・でももう間に合わない・・・衝撃が脳天に走った。

僕は反射的にあごを引き、ひたいからジャリに突っ込んでいたのだった。運動神経のなせる技だった。あのままだと両目をやられていたかもしれないのだ。把手を掴んだままだった手を地面について起き上がると、視界の前を赤いものが遮った。

手で拭ってみた・・・血だった。両手についた血を見つめて、天を見上げて、僕は叫んだ。

「何じゃこらー!」

 おじいさんが昭和時代によく見ていたという古いドラマ〝太陽にほえろ〟の松田優作の演技そのままだった。完璧に再現することができた。お母さん方のおじいさんで、〝自分は一角の人間ではない〟といつも言っていた。〝僕もいつも生きにくさを感じていておじいさんと一緒だ〟と言うと、〝お前はまだ若い、ついてくるな〟とおじいさんは言った。

 どくどくと心臓が高鳴っているのが、血の流れる音のように思えた。瞬く間に目の前が今度はまっ白、立っていられなくなった。

「大丈夫?大丈夫?」という声が遠くに聞こえて顔を上げれば、もやのなかに水音が心配そうに覗き込んでいた。秀美の姿も隣に見えた。

彼女たちに抱えられるようにして保険室のドアを開けた。誰もいなかった。先生を呼んでくるから、と僕は彼女たちに促されベッドに横たわった。

廊下を走る数人の足音が聞こえたと思うとガラガラとドアが開いた。

脱脂綿をその優しい指先で僕のひたいにあてていた先生が「傷はどうってことはないわ。ちょっと寝てなさい。貧血はすぐに直るわ」と微笑みながら言って、カーテンを引いた。しばらくして先生と水音たちは出ていった。静かだった。消毒水の匂いがしていた。


100チーム以上が参加する年に一度の大会があった。僕たち一年生にとってはデビュー戦でもあった。

よく晴れた日曜日だった。丘陵にある校舎の一室で、他の学校の生徒たちに交じってテニスウェアに着替えた。

いつも練習ではゼッケンの入った体操服だったが、晴れ舞台だということで一年生みんなでお揃いのテニスウェアを新調した。真っ白のシャツとパンツには、月桂樹の冠のようなワンポイントマークが入っていた。

僕はラケットまで新たに購入した。ゲシュタポのと同じメーカーのラケットで、バスのなかで二年生たちに何度も冷やかされたものだった。一式にお金を出してくれたのはおじいさんだった。

窓からは両側にサッカーのゴールを備えた広い校庭が見渡せた。太陽の光を十分に受けて地面が黄金色に輝いていた。丘にあって太陽に近い分、光が強いのだろうか、と僕は思った。

フェンスに張り出された対戦表に従って、皆はそれぞれのコートに散らばっていった。僕はイチヒコとフェンスの外の芝生に座り、自分たちの前の試合が終わるのを待っていた。突如、僕は極度の緊張感に見舞われ、心臓の音は高くなり、手足は硬直し、頭が朦朧とした。

屈伸をして、自分で手足を揉んでほぐすうち、イチヒコに肩を叩かれた。終わったらしく、四人がコート中央に集まって握手をしていた。

フェンスのドアを開けてコートに入れば、軽い風に低い砂煙が起こった。コートがピン中のものより広く見え、圧迫感を覚え、息が苦しくなった。白いつばのある帽子を被った相手チーム二人は、上級生らしく見えた。彼らとしばらくストロークをしたあと、審判の催促でネットに集まった。相手がラケットのトップを地面につけて回転させた。

「ラフ」と僕、

「スムース」とイチヒコ、二人が同時に声をあげていた。

僕たちは顔を見合わせた。相手チームの二人は苦笑していた。

イチヒコに任せてもう一度やりなおしてもらい、サービスを取った。

風が強かった。だが、吹きやむのを待つ気持ちの余裕は僕にはなかった。空に向かってトスを上げるとボール流れた。しまった!と思いながらボールを叩いた。

次のファーストサーブもフォールトした。今度は、太陽の光が目に入ってボールが見えなかった。いつも日陰のコートで練習しているので光には慣れてなかったのだ。

サービスゲームを簡単に取られていた。僕は舞い上がった。コートチェンジする短い時間で気持ちが落ち着くことはなかった。

本来、後衛は前衛の決め球に繋げるのが役目であったが僕はすべて忘れていた。相手チームの前衛の右を抜くパッシングを狙ってはネットにかけた。

いつもでこぼこの湿ったコートで走っているので、乾いた平坦なコートで足の踏ん張りの感覚が分からず転けた。転げた拍子にラケットは放り出され、おろしたてのテニスウェアがまだらになった。

イチヒコもようやく訪れたチャンスボールにスマッシュミスした。僕は「いいよ、気にすんなよ」と言った。これまでの自分のミスに向かって言ったようなものだったが、相手のミスをあげつらうことのない寛容なパートナーを演じた。

僕は相手のミスを誘うためロブを上げた。風が強かったのでベースラインをオーバーした。イチヒコもミスをしてお互いの傷をなめ合うようにドンマイ、ドンマイと言った。

1ゲームも取れずに惨敗した。ラケットが泣いていた。僕は相手チームの二人と交互に握手をしたあと、一刻も早くコートを後にしたくてきびすを返して歩き始めた。そのとき後ろから肩を叩かれた。

「負けたチームは審判やらなきゃならないんだよ。お前審判台に上れよ。俺、ラインズマンやるから」

そしてイチヒコは笑顔をつくって付け加えた。

「気にすんなよ。今度スマッシュ決めるよ」

スギ、コヤシのチームも1回戦で負けていた。彼らは1ゲーム取っていた。


すぐにやってきた冬に対抗するため、僕たちは単パンの上にジャージを重ねてはいた。また男子はかじかむ手を守るために軍手をしてラケットを握ったが、女子は誰も素手のままだった。

日陰のコートでもくもくと苦行に励むうち、冬は小走りに去ってゆき僕たちは二年生となった。学年があがっても僕はイチヒコ、水音と同じクラスになった。秀美もまた同じクラスであった。イチヒコはやはり学級委員となった。担任の先生はテニス部顧問の熱血だった。

クラブには一年生が六名入ってきて、先輩面をしてしごけるようになった。僕たちは何度か試合に参加し、経験を重ねることで、ストレート負けを喫するようなことはなくなったが、それでも勝つことはなかった。あと1セットというところまでこぎつけても、結局は逆転負けをした。僕のラケットの輝きは段々くすんでいくようだった。

いつでも誰にでもストレートなスギは、僕のチームの戦績をイチヒコのものではなくて、僕の精神力によるものだと評した。だけどそんな彼のチームだって勝つことはなかった。

春の優しい空気に、冬眠状態だった僕の水音への恋心は、厚手のセーターを脱ぎ捨てたように膨らみ始めた。だけど、教室のある三階の窓から覗いているはずの彼女の笑顔はもうそこにはなかった。僕はなすすべを知らなかった。


練習後の帰宅途中だった。僕は自転車に跨って緩やかな上り坂になっているバス通りを登りきり、自転車をおりて一息ついていた。けれど一息つくべきではなかった。後悔先に立たず、転ばぬ先の杖、猿も木から落ちる、弘法も筆のあやまり、馬の耳に念仏、どんぐりの背くらべ、目の上のたん瘤、捨てる神あれば拾う神あり、勉強の甲斐あって脈絡なくことわざが頭をよぎった。

脇道の家の壁にもたれるようにして煙草を吸っているのは、三人の学らん姿なのだった。以前、屋上からゲシュタポをからかった連中だった。胸の動悸が激しくなった・・・〝くわばら、くわばら〟しらんぷりして通り過ぎよう。それにしても彼ら卒業してどこかの高校に通っているはずなのに、何でこんなところで昔の仲間ととぐろを巻いているんだ。

「おい、あの泣き虫の神崎にラケットで叩かれてたやつだぜ。あいつもきっと泣き虫なんだぜ」

 泣き虫・・・お前らに泣き虫の気持ちが分かってたまるか・・・条件反射なので仕様がなかった。僕は三人を向いて睨みつけていたのであった。

とたんに彼らが寄ってきて、囲まれた。足が竦んで動けなかった。

一人が言った。

「おい、今おれたちに喧嘩吹っ掛けたよな。おまえ」

「・・・」

「上着脱げよ。やるんだろ。おれたちと」

僕は黙っていた。何を喋っても言い返されるのに違いなかった。

もう一人が言った。

「黙ってちゃ分かんねえだろ。よう、とにかく脱げよ」

 おう、やってやらあ。三人がかりでないと勝負できないのか。卑怯者!

「いや、別にそんなつもりじゃ・・・」誰の口が言っているのだ。

「なに言ってんだ!」

二人が凄もうとするのを、番長格らしいやつが制し、戯けた口調で言った。

「暴力はいけないよ。君たち・・・僕たちはとても貧しくてね。カンパしてくれないかな。貧しい僕たちに」

 僕も貧しいんです。家では腹を空かせた妹と弟が待ってるんです。母親は弟を産んだときに死にました。父親は僕たちを捨てて出て行ったんです・・・こんなこと言えば即座に殴られる。

 では本当のことを言えばどうだろう。僕の家には本当にお金がないのです。お父さんは最近リストラに遭いました。リストラが何かよく分かりませんが、お父さんは仕事にいかなくなりました。仕事に行かなくなるとお母さんの機嫌は悪くなり、お父さんとの口喧嘩は絶えなくなりました。お金もなく、僕にはあなた達のようにグレる余裕もないのです・・・いずれにしても殴られる。

脇を同じ中学の生徒たち数組が見て見ぬふりをして通り過ぎていった。そのなかには女生徒もいた。僕は走って逃げようと思ったが、追いかけられ、捕まったら殴られることを思うと足が動かなかった。

「ちょっとここじゃあ何だから、向こうにいこうね」

番長がそう言って僕の右腕を掴んだ。

手かせ足かせをはめられて引きずられていくようだった。街灯の明かりのとどかないところまで連れていかれ、ブロックの塀に背中を押しつけられた。

「物分かりの悪い人間は嫌いだよ、僕は」

 分かりました。私は転びます。キリスト様、私は弱い人間です。キリスト様、お許しくださいますか。どうして沈黙してらっしゃるのです。キリスト様・・・

番長の口調は低く重くなっていた。整髪液の匂いがした。彼らは先の尖った皮靴をはいていた。これで蹴られたら痛いだろうなあと思った。

僕はおもむろにポケットから財布を出した。彼らはひったくるようにして中身を自分のポケットに収めた。

「分かればいいんだよ。いいやつだなお前」

彼らの声が急に優しくなった。親しげに三人から肩をぽんぽん叩かれた。

解放されてから並木の下の細い歩道を自転車を引いて歩いた。

水音にこんな姿を見られなくて良かった・・・けれど口さがない連中によって、噂はすぐに広まるかもなあ。そして大事な大事な、僕のなけなしのお金は無くなった。

しばらくして涙があふれてきた。やっぱり涙が出てきやがった。


夏休みの練習では、キャプテンを除いて三年生はほとんどコートに顔を出さなかった。受験勉強のためだった。代わりに現れたのはラケットを握ったゲシュタポを先頭とするOBたちだった。彼らは相変わらずだった。彼らの専横下で僕たちの夏休みは終わった。

良く晴れた日の放課後、ストロークが一回りするとキャプテンが集合をかけた。僕たち二年生と一年生は、三年生に向き合うように整列した。真ん中のキャプテンが“誠”の石碑が背を向けて置かれている壇に上った。

「今度のキャプテンはマコトにやってもらおうと思う。副キャプテンはイチヒコ。みんなで二人を支えてやってくれ」と彼は厳かに言った。

僕はキャプテンの言葉を心のなかで吟味するうち幸せが体いっぱいに充満してきた。僕は学級委員になったようだった。汗をかいた肌にそよ風が心地良かった。

休憩中、審判台の下で座っていると他の二年生が僕のところに集まってきた。

「逆のほうがいいと思うんだけどなあ」とスギは言った。

「え?」僕は立ち上がった。

「イチヒコがキャプテンでマコトが副キャプテンってことだよ」とスギは続けた。

僕は審判台に何かの力で体を押しつけられているような気がした。風が冷たかった。残りの二人は何も言わなかった。コヤシはいつも物静かだった。スギはイチヒコの顔を伺った。僕もつられてイチヒコを見た。彼はうつむいたまま仕方なさそうに小声で言った

「おれ、副キャプテンでいいよ。先頭に立って教えるだけのテニスの能力俺にはないよ」

「でも、能力は関係ないんじゃないか?キャプテンは人をまとめていくってことだろ。そういう意味じゃ、やっぱりイチヒコのほうが適任だよ。一年生だってそう思ってるよ・・・それにマコトは本番に弱いしさ」とストレートにスギは言った。

コヤシは俯いたままだった。この場を逃げ出したいような様子だった。僕は泣きたい気持ちだった。だけどスギに面と向かって言われたことに無性に腹が立ってきて、僕はだんまりをきめこんだ。急におじいさんを思い出した。母方のおじいさんの口癖は、〝自分は一角の人間ではない〟だった。〝僕は自分のおじいさんと一緒だし、いつも生きにくさを感じながら闘っているんだ〟というようなことは口にしなかった。

「まあいいじゃないか。俺も副キャプテンでサポートするしさ。みんなでやっていくんだと思ってればいいんじゃないの。俺たち二年生は四人だけなんだから」

イチヒコが重い空気を追いやるように明るい口調で言った。

「・・・そうだな。イチヒコの言う通りだな」

スギの言葉にコヤシはようやく笑顔を見せた。

怒りが収まってきて初めて、キャプテンの責任に気が重くなってきた。自分で副キャプテンに立候補すれば良かったと僕は後悔していた。


三年生はクラブに来なくなったが、〝ゲシュタポ”が久しぶりにやって来た。今回は50ccのバイクで静かに現れたので、ボール拾いをしていた一年生たちが大きな声で挨拶をするまで、ストロークをしていた僕は彼と気付かなかった。いやに小振りのバイクでゲシュタポまでが小さくなったように見えて、いつもの威厳が感じられなかったが、それでも皆の顔に落胆の色が表れるだけの効果はあった。

ところが彼は以前のような暴君ではなくなっていた。ただし一年生に対しては「しごけ、しごけ」と発破を掛けるので、それに抗う勇気の持ち主は二年生にはおらず、後輩たちはいつもと違う練習メニューに恨めしそうに僕たちを見ていた。

彼らをランニングに行かせたあと、僕たちはゲシュタポの50ccバイクを囲んで乗り方を教えてもらった。

コヤシの目がらんらんと輝いていた。

「左手はクラッチな。まずクラッチを切って左足でローに入れる。右手のアクセルを吹かしながら、ゆっくりと左手を緩めてクラッチを繋げる。ゆっくりとだぞ。あ、こらコヤシ、馬鹿早すぎるんだよ。左手緩めるのが」

いつもならラケットが太股に飛んで来たものだが、ゲシュタポは笑うばかり。

「コヤシはテニスよりバイクのほうが脈あるなあ」

バイクに跨ったままのコヤシは、ゲシュタポの言葉に嬉しそうな顔をして俯いた。

イチヒコ、スギに次いで、僕もバイクに跨ってエンストを繰り返しながら校門のあたりを走った。400ccのサイのような巨体に比べたらブルドックくらいのものだったけど、それでも加速の凄さに圧倒された。ハンドルを思わず離して後ろに転げ落ちてしまいそうになった。

慣れてくると小さな冒険心が湧き起こってきた。後輩たちはまだ帰ってきていない。

「先輩、外ちょっとだけ走ってみていいですか?」と僕はゲシュタポに聞いた。

「近くだけだぞ。お前、無免許なんだからな」と彼は笑顔を崩さず答えた。

僕は校門を出て校庭の回りのジャリ道を走り抜けた。ギアをサードまで入れた。ハンドルが握る手がぶれて、自分が荒馬を御するロデオの選手になったような気がした。つきあたりの舗装された道路を左折しようとしてエンストした。僕は心を落ち着けて、左の足先で二度ギアを落とし、一度軽く上げた。そして左手でクラッチをきっておいてセルを回した。

エンジンがかかった。僕はトンとギアを再びローに入れ、ゆっくりと右手でアクセルを吹かしながら左手を緩めると、ブルドックは唸り声を上げながら発進した。うまくいかないが、何とかギアをトップまで入れた。

信号は運良く青だった。角のパン屋の前には買い食いをしているクラスメートがいたが、僕には気がついていないようだった。

ランニングから帰ってくる一年生たちとすれ違った。彼らは集団になって走っていた。

「ああ、先輩だ」という声を後ろに聞きながら颯爽と通り過ぎた。振り返らないで手を振っておいた。

〝もう少し行こうぜ。ランニングコースを。大丈夫、大丈夫。信号もないし、クラッチの切り替えもいらないぜ”頭のなかのその声に従うことにした。無免許・・・法を犯す・・・その甘美な響きがハンドルをきらせなかった。

風が気持ちいい。帰りに水音に会うかなあ。会うだろうなあ。赤い糸で結ばれてるものなあ、と無理に呑気なことを考えていた。

突如、身体の右側に何か気配を感じた。

警官だった。お巡りさんだった。まだお巡りさんか国家権力か判別できなかった。

風の音が耳から消えた。

「止まれ、止まれ」バイクの警官は大声で言いながら、手で道路脇に止めるよう指示した。

「エンジン止めろ」

バイクを降りた彼が威圧的に言った。エンジンを止める僕の手は震えていた。

「免許証出して」

「・・・」

「免許証はどうしたんだ。あん、黙ってちゃ分かんないだろ」

「・・・」僕はまだ未成年ですよ・・・国家権力だった。国家権力の横暴だった。

「お前中学生だな。中学生は免許も持てないんだぞ。どこだ。ピン中だな。バイクは誰のだ?」

涙が出そうになった。僕の目を覗き込んだ警官の口調が急に優しくなった。

「乗り慣れてないやつは、腰が落ち着いてないから見ればすぐ分かんだよ」

警官はトランシーバーで連絡を取り始めた。通信音のシャーシャーという音のはざまに、相手の事務的な応答が漏れていた。

警官は僕を向いて言った。

「バイクは警察で預かるぞ。持ち主にはあとで取りに来てもらうからな」

間も無くやってきたパトカーに乗せられた。犯罪者のようだった。手錠をかけられ、僕はこれから少年院に入れられるのだと思った。派出所につくと、堅い丸椅子に座って質疑を受けた。最後に警官が言った。

「後で葉書が行くので、来たら親と家裁行ってもらうよ。家裁って分かるか?家庭裁判所な。学校の担任の先生にも印鑑もらってよ」

校門を入るとゲシュタポを先頭に皆が飛んできた。飛んでこなくていいのに、飛んできた。ゲシュタポには、面倒かけてすいやせん、兄貴、と言おうとして遮られた。いや、俺が乗るのを止めなきゃいけなかったんだ。すまん。

一週間後、本当に件の葉書は来た。国家権力に融通という言葉はなかった。国家権力を目にして、お母さんと新しい仕事に就いていたお父さんがまた激しく喧嘩した。落胆を引き連れて印鑑を貰いに教員室の熱血のところに行った。

「そりゃあ大変だな。まあ元気があっていいじゃないか、と僕が言っちゃあいけないんだよな」と彼は頭をかきながら明るく言った。その態度に救われた気がした。こんな時は熱血教師もいいもんだと心底思った。


秀美が下駄箱に片足をかけて靴を脱いでいた。脇を通ろうとした時、彼女の赤いショートパンツに僕の手が意図せず触れてしまった。突然、おじいさんの言葉を思い出した。〝昭和の時代、女の子はブルマーというパンツを履いていた〟と。それ以来、ブルマーへの強い興味が芽生えた。

「あっ、ごめん」

初めての感触に僕はどぎまぎしていた。予想外に柔らいのであった。いつも軽口を叩き合っている彼女の顔を見ることができずに僕は足早に通り過ぎた。わざとじゃないぞ、わざとじゃないぞ、と心の中で弁解していた。

秀美はクラブを除けば、いつでも水音の隣にいた。秀美の肌は黒かったが、水音が白いので余計に目だった。テニスコートには日が差さないのに「日焼けで小麦色になったの」と彼女は冗談とも本気ともとれない口ぶりで言っていた。また彼女はクラスで、またテニス部でただ一人、左利きだった。左手でラケットを握る彼女を見ると、僕はふと何か神秘なものに触れるような気がした。

他中学との練習試合があった帰りに、彼女とは家の方向が同じなので一緒に帰ったことがある。バスを降りて肩を並べ歩いていたときだった。僕は試合に負けて冴えない気分だった。そのとき彼女は黒い顔で笑顔をつくって、家にこないかと僕を誘った。

 ちょっと寄っていく?・・・ドラマを見過ぎな僕は、その意味深な言葉にどぎまぎして赤面した。

「あ、うん。いいの?いいよね。じゃあ」

明るくて秀美ほど黒くないお母さんが、猫の顔をしたスリッパを用意しながら迎えてくれた。

「ああ、マコト君ね。話は秀美から聞いてるわよ」

階段を上がって彼女の部屋に通された。女の子の部屋に入るのは初めてでまた胸がどきどきした・・・きれいに片付けてあったがなんの変哲もない・・・畳部屋だった。壁に貼られた男性アイドル歌手のポスター、文庫本と一緒に本箱に押し込まれている小さな熊のぬいぐるみ、木目調の学習机・・・拍子抜けして、安心した。

僕は窓に腰掛けて、向かいの空き地を見た。背の低い青葉をこんもりと擁した木が規則正しく植えられ、夕日がそれぞれの陰を薄く伸ばしていた。空には高いうろこ雲が、赤茶けた光に照らしだされていた。僕はスケッチブックを開いて淡い水彩画を描きたい衝動にかられた。

 突如、天啓が下った気がした。そうだ、画家、画家だ、おまえは画家になるのだ。テニスなんか二の次なのだ。

 画家と一口に言っても、僕はいずれ油絵をやる。太陽を描くには油絵なのだ。ゴッホだ。ただのゴッホじゃない。いわゆるヴィンセント・ヴァン・ゴッホだ。そんじょそこらのゴッホじゃない。正真正銘のヴィンセント・ヴァン・ゴッホなのだ。ゴッホは何を描いた。アルルの跳ね橋、糸杉、そしてヒマワリなのだ。あの太陽のままのヒマワリなのだ・・・感動で体が震えてきた。

 僕は太陽を描く。光りを描く。いずれ描く。今は描けなくてもいずれ描ける。あはは・・・見つけた。見つけた。僕の人生。僕の太陽。あはは、あはは・・・

 誰かの声が聞こえる。何だ、うるさい。僕の幸福を妨げるのは誰だ。うるさい・・・

「いつもはこの部屋もっと、散らかってるの。お母さんが勝手に片付けちゃって。何がどこにあったのか分かんなくなっちゃうの」

突然の秀美の声に我に返る。天啓がすっと引いていった。

「あ、ああ、僕んとこも同じ。暇なんだよ、母親ってのは。散らかってていいってこっちは言ってるのにね。ありがた迷惑なんだよね。何かの虫でも沸いてくるでなし・・・」

階段を人が上がってくる音がしたので、僕は口をつぐんだ。

「私もお邪魔させてもらっていいかしら」と言いながら盆にカップを乗せたおばさんが入ってきた。

「どうもすいません、おかまいなく・・・ああ、どうぞ」と僕は立ち上がって言った。

彼女は「畳のうえで御免なさいね」と言いながら三つのカップがのった盆を置いて、その一つを僕のほうに差し出した。僕は正座して受け取った。

秀美は怒ったように乱暴に自分でカップを取り、足を崩して座った。男らしかった。

おばさんは意に介さないように、僕を向いて言った。

「この子ったら女の子のくせにまったく片付けをしないのよねえ。マコト君の部屋はどうなの。男の子でも片付けくらいはするでしょう」

「ええ、僕はきれい好きなもんですから」

秀美が怒ったような目を今度は僕に向けた。僕は純真無垢な笑顔を返した。

秀美がスプーンの上に角砂糖を置いて、一度紅茶につけて溶けていくのを確認してからかき回した。そして左手でカップを持ち上げ口をつけた。

おばさんが同じように砂糖を溶かして左手でカップを持って言った。

「今日、試合だったんでしょ。どうだったの?」

「二回やって二回とも負けました」と僕は言った。最近では堂々と胸を張って負けたと言える度胸がついた。

「勝負事は勝ち負けはっきりするから大変ね。でも今度頑張ればいいわね。秀美はどうだったの」

「勝ったわよ。二回とも」と彼女は素っ気ない返事をした。秀美は大会でも、いつも上位まで勝ち残るのだった。男らしかった。

彼女の言葉を無視するように母親は言った。

「この子は勝ち気だけは強いのよねえ。その割に勉強はできないの。なぜかしら」

秀美は口を尖らせて横を向いた。いつもこれよ。

「秀美も名前の通り、少しでも優秀で美しかったらいいんだけど・・・こんなに黒くて」

「はあ・・・」

「テニスコート、日が射さないらしいじゃないの。だのにねえ」

「へえ・・・」僕の相槌は自分で変だと思った。

「無理に直すと馬鹿になるからっていうんで左利きも直さなかったのに、勉強できないのよねえ」

秀美は横を向いたままだった。勝手に言えば、って風だった。おばさんは勝手に言うわ、って風だった。

「いわゆる名前負けですよね。僕の母親も、人間は誠実さがすべてだから〝誠”って名前つけたのに、ってよく僕に言うんです」我が意を得たり、とばかりに返した。

おばさんはきゃあきゃあ嬉しがってた。おばさんも結構太陽っぽかった。険しかった秀美の顔も綻んだ。太陽族、って言葉が浮かんだ。意味が全然違うような気がした。

 いつもこんな感じ?っていうように秀美に視線を送った。いつもそうよ、っていうように秀美が瞬きした。

僕は右手で透明のカップに注がれた紅茶をすすった。温かくておいしかった。窓から差し込む夕日が、透明なカップを通ってセピア色の液体と融合しているような気がした。


長く待ったあと通された部屋には消毒水の匂いが充満していた。先日学校で行われた健康診断で、僕は再度大学病院に赴き精密検査を受けるよう指示されたのだった。

上半身裸になって寝台の上に仰向けになった。ベルトを緩めてパンツを少しずらしておなかを出すよう若い白衣の看護婦に言われた。

「あ、そんなにずらさなくていいんですよ」

陰毛に留まらず陰茎までを見せてしまった。恥ずかしかった。

彼女は気にもせずに、コードのついた吸盤状のものを僕の胸や腹につけ始めた。

検査のあと、椅子を回転させて僕に体を向けた白髪混じりの医者が、ボールペンを持った右手を頬にあてて言った。

「君、今何か運動やってる?」

「はい、テニスを」

僕は胸を張って答えた。キャプテンをやっています、と言いかけた。

「ふむ、テニスね・・・君ね、緊張して動悸が激しくなりやすい体質だね。これはね、運動して精神力を強くすることだね。スポーツどんどんやって精神力を鍛えてください」

言わなくてよかった。

帰りの電車のなかで考えた。

気の弱い人間は美人と結婚できたためしがない・・・もしそれが真実ならば、僕は水音と結ばれないってことかもしれない・・・僕は焦りで体が熱く火照ってきた。

いや、求愛に気弱も何もない。求愛は生物の本能ではないか。本能が後ろ盾としてあれば、僕は気丈夫なはずではないのか・・・おじいさんの影響でこのところ家でしきりと聞いていたビートルズの〝シー・ラヴズ・ユー”のメロディーが、僕の頭のなかを流れていた。


夕闇が忍びよってきた階段下の下駄箱で、制服に着替えた水音がしゃがんで靴を履いていた。あたりに誰も見えなかった。この、誰も彼女の近くにいないという状況を待って、僕は何日も過ごしたのだった。

この時を逃してはもう二度とないと思った。〝シー・ラヴズ・ユー”の旋律がまた僕の頭のなかで流れ始めた。それは最初、校舎の回りを流れる川のせせらぎのような小さなものであったが、次第次第に大きくなり、ついにはスピーカーを使った大音響になってしまった。

ふと彼女がこちらを向いて、そのビーバーのような前歯を出して微笑むのが僕には想像できた。

突如、将校のバッジをつけ、腰から引き抜いたサーベルを頭上に振りかざした“本能”も現れ、「進めー!」と絶叫し始めた。僕は彼女に向かってゆっくりと歩を進めた。俯いた水音の横顔に、風に吹かれた髪がさらさらと流れていた。

僕はそのとき、はっと息を飲んだ。階段の陰になっている逆側の下駄箱に、秀美の姿があったのだ。

〝車は急に止まらない”という言葉が頭に浮かんだ。

「あ、あのちょっと水音に話しがあるんだけど・・・」と僕は言った。

二人が振り向いた。僕は顔を上げた水音を直視した。

水音は立ち上がり、体を僕のほうに向けて首をかしげ、なに?っていう顔をした。

「私、先に帰ってるね」秀美は気遣うように控え目に言った。彼女の遠ざかる足音を背中で聞いた。

緊張が全身を猛烈なスピードで掛け巡った。頭が真っ白になった。毎夜練習した告白の言葉は・・・出てこなかった。

何か言わないといけない。何か・・・こんな下駄箱でぐずぐずしていると誰かまたすぐにくるかもしれない。ようやく秀美がいなくなったのに・・・こんな下駄箱で・・・触れてしまった秀美のショートパンツ・・・おじいさんが言うところの昭和のブルマー・・・

僕は咄嗟に口走っていた。

「真っ赤なブルマー!」

「えっ?」水音が目を大きくしていた。

とにかく続けないといけないと思った。

「もとい、ショートパンツの君が好き、である!」

である、である、吾輩は猫である・・・水音の顔が見れなかった。僕はきびすを返して走りだしていた。

夕闇のなか、自転車を力いっぱい漕いでいた。急な雨が頭を打ち始めた。僕は暗い空に顔をさらし、すべてを洗い流してくれ、と願った。

翌日、水音から断りの手紙をもらった。前後左右から見直した。透かしてみても、なだめてみても同じだった。頭にきてくちゃくちゃにしてごみ箱に投げ込んだ。ごみ箱から取り出して、広げて見直したが同じだった。

学校での水音の態度に変化はなかった。秀美の態度はその日を境に何かよそよそしくなった。


練習開始前、ラケット片手に近付いてきたイチヒコが「ゲス、ホワット」と言ってからもったいぶって、声を低めて喋り始めた。英語を使うのと、大仰なのが彼の悪い癖だった。

「水音のことなんだけど、この間クラスの〝個性の強い〟グループが三人で家で遊んでたときにね、来ないかって連中が彼女を電話で誘ったんだって」

彼はそこで一呼吸置いて、僕の顔を覗き込んだ。頭がガンガン鳴り出した。

「それで?」

彼はにやりとして続けた。

「でね、美音は行ったらしいよ」

「ほんと?」

「ほんとに」

「まじ?」

「まじ、まじ」

「家には他に誰かいたの?」

「どう思う?」

「母親がいたんだろ?」

「誰もいなかったんだって」

「どうなったんだよ」

「知りたいか?」

「焦らすな。殴るぞ」

「すごんでも全然恐かないよ」

「早く喋れ」

 イチヒコとはいつもこうして言葉の押し問答をせねばならない。彼はいつもこうしてあることないこと吹聴する。学級委員ともあろうものが、陰で卑小な色眼鏡で人を判断する。良いのは表面ばかりだ。大ばか者、と一喝してやりたいところだが、一通りは寛容に聞くことにした。

「早く喋らんか。ばか者」口調が老人化してきた。おじいさんの上をいった。

「二階の部屋でトランプとかしたんだって」

僕は自分の心臓の鼓動が聞こえるくらいだった。

「それから・・・」

「そのとき母親が突然帰ってきたらしらしいよ。それまで何してたかは分かんない。だけどあの〝個性の強い〟連中のことだからなあ。まあどうせすぐ情報は流れてくると思うよ。黙ってられないだろうから。水音も可愛い顔してても相当なスケらしいぞ。家に行くだけで大体想像つくだろう」

イチヒコの声が遠くに聞こえていた。ビデオのような、あんなことやそんなことをやっていたとでもいうのか。

彼は何かまだ言おうとしていたが、僕は自分でも訳の分からない反吐のような怒りが込み上げてきた。

「おまえなあ!」

イチヒコを睨みつけて怒鳴っていた。

「おまえ、いつでもどこでも変な情報仕入れてくるけど、本当だったためしあるのか。おまえ、学級委員だろ。クラスをまとめていく責任があんだろ。それをいつも中途半端なウソを面白おかしく流してかき乱しやがって。おまえは一番客観的に物事判断しないといけない立場じゃないのか。終いにばらすぞ。おまえが今言ったこと女の子たちに。女の子に総スカン食ったら学級委員も終わりだよなあ。おまえ自身がよくそう言ってるものなあ」

 我ながら怒りにまかせてこんな長いセリフよく言えたものだった。

自分に感動して涙が出てきた。その潤んでいるはずの僕の目を見て、イチヒコが狼狽していた。自分の犯した罪に対して、僕が涙を流そうとしているとでも思ったのだろう。

「いや、その、あの、待って・・・俺もそう思うんだけど・・・」

彼のその態度に少々怒りは収まったので、一回り上の人生の先輩のような優しい口調で言った。

「あまり、人のうわさ話を真に受けてそんなこと言うもんじゃないぜ」

「あ、ああ・・・そうだね」

彼の自尊心はこなごなだった。深い自己嫌悪に陥った様子のイチヒコを見て、気が晴れた。

でも、そうは言ってみたものの、本当ではないかと疑い始めると、きっと本当なのだという気がしてきた。いつも一緒にいる秀美に対してもよく似た思いを抱くこととなった。

我慢できなくてさっそくクラスの男に喋ってしまった。

午後に入ってから、女の子のイチヒコに対する視線が険しいような気がした。

そういえば昼休みに女の子たちが集まってひそひそやってたのはもしかして・・・僕は考え始めるときっとそうだと思ってしまう癖があるから、きっと思い過ごしに違いない。きっとそうなのだと思った。

6時限目の授業が終わるとイチヒコが僕の机のところにやってきて小声で言った。

「マコト、さっきの噂、お前まさか女の子に喋ってないよな」

「ああ、何で僕が喋んなきゃいけないんだ」

「どうも女の子たちの態度がおかしいんだよ」

〝女の子〟には本当に喋っていないのだ。それにそもそもは彼自身が悪いのだ。いい薬だと考えよう。

「思い過ごしだよ」

言ってはみたものの、すぐに僕が喋ったことばれるだろうな。イチヒコごめん。君の学級委員としての信用は崩れました。

女の子に見限られたら学級委員は終わりなんだ、そういつも言ってたかわいそうな君・・・とにかくばれるまで黙っていようと僕は思った。


イチヒコと二人でクラブに行こうと教室を出かけたときに、突如、秀美が仁王のように前に立ち塞がった。

「どこ行くの」

「クラブだよ」と僕は言った。

「マコト君、今日掃除当番でしょ」

「あ、そうか、忘れてたよ」

「忘れてたじゃないでしょ」

「まあいいじゃん」

「まあいいじゃんって何。もう思い出したでしょ」

「そんなまじめな顔すんなよ。やっといてよ」と僕は軽い気持ちを崩さずに言った。

彼女の目尻が釣り上がった。

「責任感の問題よ」

「僕、責任感ないよ」

「開き直ってどうするのよ」

「そのまんまだもんね。かーちゃんがとーちゃんのことを甲斐性なしとよく罵るんだよね。そのとーちゃんの息子だもんね。責任感も何もございません」意地になってきた。

「逆切れっていうのよ。そういうの」

「それならそれで結構。結構毛だらけ猫灰だらけ。お前のかーちゃんでべそ」おじいさんの口癖が浮かんで収集がつかない。

「俺、先に行ってるね」

イチヒコはそう言い残して脇を通り過ぎていった。僕の目を見据えて彼女が言った。

「どうしてあなたはいつもそうなのよ。誰かがやらなければならないことなのよ」

笑顔しか見たことのない彼女の剣幕に、思わず涙が出そうになった。条件反射だった。

彼女は潤んだ僕の目に気付いたか、急に口をつぐんだ。穴があったら入りたかった。布団があったら電気を消して頭から被りたかった。


掃除を終えてほうきを教室の隅のロッカーに仕舞っているとき、教室の前の廊下が騒々しくなっていた。

教室を出てみると、人だかりの向こうに、スギがリーゼント頭の同級生に胸倉を取られて体を壁に押しつけられていた。昨年のクラスメートの、オールドファッションに傾倒する〝個性の強い人〟だった。

「お前、いつもいつも偉そうに指図しやがってよ。なめんじゃねえよ。いくら秀才か知らねえけどよ」

「おれ、そんなつもりで言ったんじゃないよ」

スギは涙声になっている。

女の子たちが「やめなさいよ、暴力に訴えるのは」と口々に叫んで制止しようとしていた。

男たちはというと・・・傍観している。

“ほうら見ろ、いつも人の気持ちを考えないで辛辣なこと言うからこんなことになるんだ”と僕も同じように遠巻きを決め込んでいたら、スギの目から涙がこぼれるのが見えた。

その途端、言いようのない力が吹き上がってきた。これまで僕に縁のなかった正義感というものだった。何より僕はテニス部のキャプテンなのだ。部員を守る義務がある。気が付くと僕は人ごみをかき分け二人の間に割り入っていた。

この〝個性の強い〟の男は一年生の頃、教えてくれと言われて昼休みに仲良く一緒にテニスをしたことがあった。こういうとき、普段努力して積み上げておいたコネが役に立つのだ。スギはきっと後で僕を見直すはずだ。

僕は静かに、諭すように言った。

「スギが何言ったか知らないけど、こいついつも人のこと考えないで物いう癖あるから、もうそのへんで勘弁してあげ」目の前に何かが飛んできた。避ける間がなかった。

一瞬気持ちがよくなるような感覚に包まれて、意識が遠くなった。しかしそれは一瞬だった。僕は廊下に膝をついていた。

シャツの前が赤く染まっていた。鼻から口のあたりに生暖かいものを感じて拭ってみた・・・血だった。どくどくと鼻血が流れ落ちているのだった。両手の血を見て、僕は叫んだ。

「何じゃこらー!」

 完璧な昭和ドラマ〝太陽にほえろ〟の松田優作だった。周りの誰も理解していないのが残念だった。

ところがまたたく間に気分が悪くなってきた。秀美が横で大丈夫?大丈夫?と言っている。前にもこんなことがあったなと思った。

女の子たちが、その〝個性の強い人〟に詰め寄って「マコト君には何も関係ないじゃない」と責めている姿がぼんやり見えていた。


秀美が学校を休んでいた。2限目の授業で、教壇に立った熱血が、秀美の家が火事になり彼女の母親が大火傷を負って入院した、今のところそれ以上のことは分からないと言った。僕は、夜遅く夢うつつでサイレンの音を聞いたことを思い出した。

その後、イチヒコが女の子から情報を仕入れてきた。父親の出張中の事故で家は全焼したそうだった。軽傷で済んだ秀美は近所に住む祖父母のところに身を寄せていて、おばさんの容体は芳しくないとのことだった。

秀美の家を思い出した。窓に腰掛けて向かいの空き地を見たことを思い出した。おばさんが入れてくれた透明カップの温かい紅茶が甦った。

 あの家が燃えてしまった。黒焦げの柱だけをところどころに残して。明々と燃え上がる炎が向かいの空き地の潅木を照らし、消防車の放水が続くなか、救急車におばさんが運び込まれる。秀美は父親と呆然と救急車に乗り込む。いや、おばさんを呼び続けているのかもしれない。否、泣き叫んでいるのかもしれない。僕には何も分からない。

 それから僕は体中を包帯で巻かれて病院のベッドに横たわるおばさんの姿を想像した。親指をほんの少し火傷しただけで心臓の音に合わせてズキズキと痛みだし、夜も寝れなかった幼い日のことを思った。

 隣には秀美と秀美のお父さんがいる。いや、緊急治療室で、ガラスの窓を通して秀美は見ているのかもしれぬ。秀美はどんな風にしているのだろう。呆然としているのだろうか。体をぶるぶると震わせて。あるいは泣き腫らして、ウサギのような赤い眼をしておばさんの姿を見ているのだろうか。立って見ているのだろうか。壁に横付けされた長椅子に前かがみになって座って廊下を見つめているのだろうか。頭を抱えているのだろうか。壁に背をつけて廊下の電灯を見つめているのだろうか。僕には何も分からない・・・

三日後、おばさんは亡くなった。死んだということが僕には分からなかった。この事実に、僕はどう対処していいのか分からなかった。秀美にどんな顔をしてあったらいいのか分からなかった。想像のなかの秀美は以前の秀美より小さく見えた。小さくなって、小さくなって、羊水のなかの胎児になった。胎児から卵になった。僕は卵になった秀美を見た。

教室では学級委員のイチヒコが自主的にカンパを集めて回り始め、クラスの有志で通夜に行くことになった。有志といいながら、結局全員が参加することになった。通夜に皆で行くことが秀美を励ますことになるのだろうか、というごたくを並べる不謹慎な輩がいて、総スカンを食らったのは僕だった。なぜそんなことを口走ったのか、僕自身にも分からなかったが、みんながまだ大人未満でありながら精神的に大人であってくれたことに感謝した。

バスを降りた僕たちは、白黒の縞の幕が垂らされた塀ぞいに歩いた。花輪が数本並んでいた。瓦屋根を持つ大きな門をくぐった。大人未満の僕は、どうして大人はこういう様式にこだわるのだろう、と考えた。次に秀美の家庭はクリスチャンじゃなかったんだ、ということに思い当たり、大変な発見をしたように感じ、やっぱり仏教だよね、と独りごちた。 

 押し開けられた左右の扉には、家紋のような金色の模様が施してあった。重そうな扉だった。

テントまで列が出来ていた。そのテントの下に、秀美がハンカチを目にあてているのが見えた。父親の横の彼女はやっぱりとても小さく見えた。けれど卵にはなっていなかった。みんな押し黙っていて静かだった。涼しい風が吹いていた。テントを被うような大きな楠が、さざなみのような葉擦れの音をたてていた。

彼女に向かってどんな顔をしたらいいんだろう、何て言ったらいいんだろう。何かとりとめもない言葉がいいのかな。檀家制度っていうのはね、江戸時代にクリスチャンが迫害されたでしょ、その時に幕府がすべての民をどこかのお寺に所属させたんだよね・・・唐突すぎる。

 僕の心臓の鼓動は大きく鳴り始めた。テントと反対側を見て心を落ち着けようと思った。このままだと、僕は何かを口走ってしまうかもしれぬ。おばさん、元気?とでも僕なら言いかねない。

 2メートルほどの丈の石塔があった。屋根の数を勘定した。一三段だった。

・・・彼女の前に来た。涙を拭いていた彼女と目があった。

 何か声をかけねばならぬ。ならぬ。ならぬ。なりませぬ。おばさん、などと、決して言ってはなりませぬ。

「おば・・・」言ってしまった。とにかく続けなければならぬ。

「おばんでやす」

 突如、彼女の黒い頬が緩んで、小さく微笑んだ。少なくとも僕にはそう見えた。

僕は反射的に笑みを返していた。

 僕には何も分からなかった。僕はその夜なかなか寝つけなかった。


イチヒコと二人で後輩たちに球出しをしていると、隣のコートで秀美が豪快にスマッシュを決めるのが目のはしに入った。

僕は左手に持っていたボールが切れたので、かがんで足元のかごのなかから三つ掴んだ。

そのとき、秀美の大きな掛け声が聞こえた。あのとき以来の長い間、他の女子部員たちの声のなかに見つけることができなかった声を、今はくっきりと聞き取ることができた。

僕はまたボールを出し始めた。

帰りがけに、僕は薄暗い下駄箱に片足を掛けてスニーカーの紐を結んでいた。

「マコト君、一緒に帰ろう!」

突然の声に飛び上がりそうになって振り返れば、秀美がひまわりのような笑みをたたえて立っていた。

「驚かすなよ。暗いところに黒い顔で見えなかったよ」

「なによ」彼女がふてくされた顔をした。

僕はコスモスくらいの笑顔をつくった。もう普通に、自然に、秀美と喋れる気がした。

「今日は水音いないの?いつも途中まで一緒に帰ってんだろ?」

「何か用事あるからってクラブにも行かないで帰っちゃったの」

「ふむ・・・そうだ!」突然僕は閃いた。

「どうしたの?」

「これからバッティングセンター行かないか?テニスボール打った後には野球のボールを打つ。そういうもんだ」

「そういうものなの?」

「そうさ。バッティングはね、内角にきたら脇を締めて体の前で叩く、いわゆる引っ張った打ち方をする。外角にきたら脇を広げ、ボールを引き付け引き付け、我慢できるまで我慢して、右方向に流す。体の近くで打つんだ」

 僕は一体何を講釈たれてるんだ。ちっとも自然な会話じゃなかった。

「だから?」

「テニスはなるべく体の前で打つでしょ?」

「だから?」

「根本的にテニスとは違うんだよね」

「・・・」

 沈黙には耐えられない。うっ、と呻き声のような声を僕はあげていた。

「馬鹿みたい」

「・・・」

「ウソ。行きましょう。バッティングセンターへ」

「いざ行かん。バッティングセンターへ」

また彼女はひまわりになった。

僕もコスモスになった。

正門を出た。ジャリ道のガードレール下からは、せせらぎの音が聞こえていた。

舗道に出て、なだらかなカーブを自転車が転がるに任せて下った。彼女が「気持ちいい!」と叫んで両足を大きく上げた。プリーツのスカートが風に大きく膨らんでいた。真っ赤なブルマーが見えた気がした。〝よく小学生のころ女の子のスカートめくりをしていた〟というおじいさんの言葉を思い出し、幸福になった。


太陽が日中の熱を含んだ空気を引きずるようにして西の空に沈んだあとには、もう夜気が一面を被っていた。

バッティングセンターの緑色のネットが螢光板のように浮かび上がり、打球の金属音がこだましていた。

左打席は100キロのスピードのもの一つしかなかった。まず僕が120キロの右打席に入って見本を見せることにした。

 無理をした。僕は100キロまでしか経験していなかったのだった。だけど僕はポテンシャルの人間なのだ。ポテンシャルでは誰にもひけをとらないのだ。そう先輩が僕を評して言ってくれたことがある。いや、思い違いだろうか。いや、勉強ではイチヒコやスギに劣るかもしれない。ディベートではやはりスギやイチヒコに譲るかもしれない。だけどテニスではどうだ、参ったか。いや、他校との試合で僕はいつも負けているかもしれない。うるさい、うるさい。じゃかーしい。

「見てろよ。あの手のようなものがボールを持って徐々に上がってくるから、それでタイミングを取るんだ。力を抜いて、タイミングさえ合えばよく飛ぶから」

僕はフェンス越しに彼女に言ってからコインを入れた。機械の手が作動し始めた。しばらくして、しなるように投げられたボールが空気を擦る音を立てて飛んできた。

空振りした。続けて三度空振りした。

真剣になってきた。僕はボールに集中した。秀美がいることを忘れた。機械の手が上がって・・・飛んできた。そら、当った・・・また当った。どんなもんだい。

そして彼女がいることを思い出した。

僕は彼女を野球部の監督よろしく左打席におくった。なかなか構えが堂に入ってるじゃん。でもやっぱり空振り・・・まただ。

「よく見て、タイミング計って」僕はフェンスの後ろから声を掛けた。

当った。でもゴロ・・・また当った。でもフライ・・・当った。ライナーだ・・・またライナー。

「その調子。その調子」

「芯に当ると気持ちいいね」大きな声で彼女が応えた。

額の汗を拭いながら秀美がドアを開けて出てきた。

「まっすぐ飛んでいくと、何か空に吸い込まれていくようで気持ちいいね」と言って彼女はひまわりの笑顔を僕に向けた。

秀美はやっぱり笑っている顔が一番いい。

彼女はフェンスに顔をつけ、暗くなった空を見上げた。

僕も彼女の隣に行ってフェンスに手を掛けた。無数の星が出ていた。

「私転校するかも」

「えっ?そうなの?」

「お父さんが全然違うところに住みたい、って言うの」

「そうなんだ」

「私はどうかって聞くから、私は友達と離れたくないわって応えた」

「それでお父さんは?」

「今一緒に住んでる祖母のそばにいたいこともあるから、まだ悩んでるわ」

「そう・・・」

「どう思う?転校しない方がいいと思う?」

「そうだね。どうせ高校に行くときにはバラバラになる。あと少しの中学校生活くらい同じ方がいいよ」

 今転校すれば、秀美は小さくなってしまう。小さくなって、小さくなって、終いには羊水の胎児になって、卵になる。でも僕だって、この学校にいつまでいるかは分からない。お母さんとお父さんの喧嘩は絶えない。離婚するかもしれない。離婚すれば僕はどちらかに付き、学校を変わることになるかもしれない。自分だって分からない。

 でもやはり君はピン中にいた方がいい・・・僕は君に何を言っていいか分からない。僕には何も分からない。そういうときには、自分のことを喋るのだ。

「僕はね、カッコ悪いんだ」

 唐突だった。暗いので分からないが秀美はたぶん隣できょとんとしてる。僕は星を見る。

「いつもどんな試合でも負ける」

「そうね」

「イチヒコやスギには馬鹿にされる」

「かもね」

「〝個性の強い人〟には殴られて気を失う。お金を取られる。後輩は陰で馬鹿にしてる。どこでもかしこでも緊張する。緊張、緊張、キンチョール、けっこう毛だらけ猫灰だらけ。精神力、精神力、清心女子大、神戸女学院、ねえ、将来はどこの大学に行くの?」

 僕は一体何を言ってるのだ。

「昔から思ってた・・・マコト君、変」


フェンスに貼られた対戦表に従って、皆は散らばっていった。僕とイチヒコは目前のコートで一回戦を行うことになっていたのでその場に残り、芝生の上に足を伸ばして座った。

コートのほうを向きながら、イチヒコがぼそっと言った。

「なあ、前に水音のうわさのこと言ったよな」

「え?何のことだったっけ」

僕はすぐに気付いたけれどしらばくれた。

「彼女があの〝個性の強い人〟たちの家に行ったって話だよ」

「ああ、その話か」

「あの話、ガセネタだったよ。違う学校の女の子だったらしいや。マコトに言われた通り、あまりうわさというのは当てにならないや」

僕は何かとても愉快になってきた。

「どうだろう。火のないところに煙は立たないんじゃないか」

 イチヒコはポカンとしている。僕はあまのじゃくなのである。

僕は仰向けになって寝ころんだ。際限のない青い空にあんまんのような雲がゆっくりと流れていた。僕は自分の体も雲の動きに合わせて静かに揺れているように思えた。

意識が遠くなりかけたとき、イチヒコの顔面が目の前を遮った。

「おい、そろそろ俺たちの試合始まりそうだぞ」

「ああ」

起き上がった。体が軽かった。

〝今日はいける”そんな声がどこかから聞こえた、が期待はしない。僕は『一角ではない』おじいさんの孫である。

僕たちはつばのついた帽子を被ってコートに立った。

相手チームはまだ一年生なのだろう。真新しいテニスウェアの二人は所在なげな表情でネットの反対側にたたずんでいた。

僕はネットの手前で「フィッチ?」と言うと同時にラケットのトップを地面につけて回した。

外れた!僕たちはサービスを選んだ。

僕はベースラインの前ぎりぎりに左足をつけ、サービスコートに向かって一直線になるように右足を置いた。そしてちらりと相手コートに目をやったとき、フェンスの向こうに、両手をホーンのように口もとに置いた秀美の姿が見えた。

地面に垂直に、ひじをのばしたままゆっくりとボールを上げる。

「マコト君、頑張って!」

 頑張らない。

秀美の声はボールとともに、遠く青い空に吸い込まれていく。僕の体は遠のくボールを追いかけて伸び、風を擦る音をたててラケットがボールをとらえた。そのインパクトの瞬間、太陽の光を受けた銀色のラケットは、鈍く光って見えた。

                                       了


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