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|東野《ひがしの》 |藤原京《ふじわらきょう》

 下野(しもつけ)の国の春は、菜の花に染められていた。ここ、東野(ひがしの)藤原京(ふじわらきょう)の大守、清原(きよはら)英衒(えいげん)は遥かな都の異変を愁いていた。もともと貴族、藤原(ふじわら)氏の流れを汲む彼にとって、東野(ひがしの)藤原京(ふじわらきょう)は、都への恋慕からつくられたものだった。

 知らせをもって駆けつけた若武者は、彼が手塩にかけて育ててきた、二十機の機武(きぶ)衆の一人であった。

「西国を平定し終われば、奴らの眼がこの東野に向くのは自明の理。」

 彼のこの説得に応じ、関十州(かんじっしゅう)受領(ずりょう)達は、機武(きぶ)軍の編成に重い腰を上げた。 上野(こうつげ)下野(しもつけ)結城(ゆうき)を抑える清原(きよはら)氏、常陸(ひたち)上総(かずさ)を抱える鹿島(かしま)香取(かとり)の兄弟、安房(あわ)里美(さとみ)氏、武蔵党(むさしとう)相模(さがみ)北条(ほうじょう)氏、伊豆(いず)三浦(みうら)氏、下総(しもうさ)千葉(ちば)氏など、荒くればかりだが、どれも剛者(つわもの)の武者を抱えていた。特に、甲斐(かい)源氏(げんじ)の故国を預かった、相模(さがみ)北条(ほうじょう)氏は、源氏(げんじ)機武(きぶ)軍の残軍を束ねて、央山公路を押さえた。だが、神速を誇る源氏(げんじ)機武(きぶ)も、都では大智(おおとも)機武(きぶ)の前に歯が立たなかったという。

相馬(そうま)多太良衆(たたらしゅう)との交渉ははかどらんのか。」

 彼の右腕とも言うべき男、梯馬(はしば)彪衛門(ひょうえもん)が答えに詰まった。この先の戦いの流れを左右する交渉は、磐城(いわき)に引いている相馬(そうま)党の協力を得なければ進まないだろう。彼らが陸奥国の南部(なんぶ)衆とともに生み出した南部(なんぶ)機武(きぶ)と称される逸材でなければ大智(おおとも)黒鉉(くろがね)衆どころか、佐々木(ささき)大内(おおうち)先手(さきて)機武(きぶ)にすらかなわないだろう。

 彼の主、先々代の清原(きよはら)仙衒(せんげん)がこの地に都を築いてから、早六十余年の歳月が流れていた。少年だった(はしば)梯馬(はしば)彪衛門(ひょうえもん)ですら、都を追われる主君の悲哀を感じていた。

 だが、成長した彼の卓越した才を見抜いた主君は自らの胸中を、先代の清原(きよはら)桐衒(とうげん)と彼にだけ漏らしたのである。

大智(おおとも)の野望を阻むために、この地に都を築き、御門(みかど)をお迎えするのだ。そうせねば、御門(みかど)の血筋どころか、この陽のもとそのものが奴に食いつくされる。」

 今の主である清原(きよはら)英衒(えいげん)は、この言葉の全てを未だ知らされてはいない。だが、聡明な彼は、自らの直感で、巨大な敵を感じ取っていた。

「わしに息子がおればのう、ゆっくりと余生を送れるものを。」

 二十人の機武(きぶ)衆として、各受領(ずりょう)は自らの三、四男坊や腕の立つ部下の子を送ってきた。その少年達は、彼の機武(きぶ)将、仁王丸(におうまる)の鍛錬の下、まさしく仁王(におう)機武(きぶ)衆として近隣に名を轟かせていた。



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