桜──君の名を呼ぶ
「きれいね」と、君がつぶやいた。少し上を向いて、まるで独り言みたいに。聞き逃してしまいそうなほどの小さな囁きだった。もちろん僕の耳が君の声を取りこぼすわけがない。それは僕の数少ない取り柄と言っても良いくらいだった。
春を彩る花が僕達の頭上を覆っていた。川沿いの並木は満開で実に見応えがある。朝と呼ぶには遅く、昼と言うには早い時刻で、散歩をするために用意したみたいな良い日和だった。
「きれい……雪みたい」
確かめるように繰り返す。確かに君の言う通りだった。優しくて暖かな雪のように花片が降り注いでいた。
本当は君とたくさん話をしたかった。昔みたいに無邪気に笑ったり喧嘩をしたりしたかった。それなのに気がつけばタイミングを見失っていた。いつ口を開けば良いのか迷い、何を言えば良いのか見当もつかなかった。僕達は無邪気さなんてものから、ずいぶんと遠いところまで来てしまったような気がした。
少し前を行く君が足を止めて、体全体で振り返った。微笑んでほんの少しだけ首を傾げる。ずっと変わらない君の癖だった。細めた目が綺麗な三日月になって、黒く長い髪が左の肩をさらりと撫でた。
手を伸ばせば触れそうな距離で、視線が柔らかく絡む。全てが見透かされているみたいな錯覚に襲われて、僕の心臓は驚くほど強く鼓動した。
君は何事もなかったように歩きだす。僕も何も言わずに足を進める。そっと手を胸に当てて、君に気付かれないように静かに深く息を吸って吐く。
君がまた花を見上げる。僕もその視線を追った。
「うん、キレイだね」
なんとか搾り出すようにして君の背中に声をかける。花なんて見てやしないけれど。返事がなくても、背中を向けたままでも、君がふわりと笑ったことがわかる。
そして、君の名前を呼ぶ。
(了)
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