とある魁の夢
生と死の狭間に佇む、星の夢
パチリと世界に色が付いた。
気が付くと私は、池の様な湖の様な……水辺の畔に立っていた。
本当に大きな水辺だ。
霧が漂い、先があまり見えないのに、広いと言う事だけは、はっきりしている。
霧の向こうに大きな山が見える様は、この世とあの世の境の様に見えて、薄ら寒いものを感じた。
山を見上げ続けていると、パシャンと水の撥ねる音が何処からか、聞こえた。
「おや、こんな所に人……ですか?」
「……え?」
聞こえて来た声に、視線を下すと、目の前に一人の男が立っていた。
さっきまで、誰も居なかったはずなのに、水際すれすれの位置に立っているのだ。
故郷で見た様な、でも、何処か違う装束姿。
長い黒髪をそのままにし、浅黒い肌の何処にでも居そうな顔立ちの……人の好さそうな男。
だが、その瞳は普通では無かった。
私は息を呑んだ。
だって、その瞳は色こそ、黄色と白色が斑に混ざっているが、ぼんやりとした光を放っている様な輝きは……私の瞳と同じだったから。
男もまた私の瞳に気が付いた様で、驚きを露わにした。
そして、悲しそうな笑みを浮かべる。
「あなたも、星……なのですね」
「貴方も……?」
「えぇ……嘗ては星達を統べる星主でした。先を翔け、その後に続く者を導く宿命……魁の星……今はその役目を終えていますが……ね」
穏やかに告げる男の表情からは、真意が読み取れない。
少し警戒しながら、私は問いかける。
「貴方の事は何と、お呼びすれば?」
「そう……です、ね」
男は考え込むと、チラリと水面を見てから視線を戻した。
「私の事は水と」
「では、水先輩」
役目を終えたのなら、彼は私よりも年上なのだろう。
ならば、星の宿命については、彼の方が先輩となる。
故に、先輩と呼んでみたのだけれど……
彼は目を丸くしたまま固まっていた。
思いもよらない事を言われたみたいに、固まっていたが、頭に沁みて来たのか頬を紅潮させ、口元が綻ぶ。
「ふふ、初めて呼ばれました。あなたに習って、私は後輩さんと呼びましょう」
よろしくお願いしますね、と、微笑むのは本心の様で、目の前に現れた時よりも生き生きとしている様に感じた。
「所で、後輩さんは何故……此処へ? 此処は生者にはあまりよろしくない場所なのですが……」
「あ、それはですね……」
私は此処へ来た理由を話した。
そして、此処が夢であると聞いた水先輩は、何処かホッとした様に肩から力を抜いた。
「良かった……から……しな……ないですね」
水先輩の声が上手く聞き取れない。
途切れ途切れの単語は、少し物騒に聞こえるのだが……感じるのは安堵感のみなので、違うのかも。
「水先輩?」
聞き返しても、水先輩は曖昧に微笑んで答えてはくれなかった。
「……後輩さん、あなたの迷いは、時を巻き戻すか、否か……なんですよね?」
「はい」
「巻き戻して来たのは、あなたが望む未来……の、ため」
「はい」
確認した水先輩は、眉を寄せた。
「あなたは、巻き戻した時に周りがどうなるのか、そもそも本当に巻き戻しなのか……考えた事はありますか?」
「えっ……と?」
どう言う事だろう?
力を使うたび、私は成人した日の朝に戻される。
これを巻き戻しと言わずに、何と言えば良いのか?
それに……周りがどうなっている、か? 時が巻き戻るのだから、周りもそうなのだと考えていた。
水先輩が示したい事が解らず、首を傾げると水先輩は溜息を吐いた。
「思い至って無いのですね」
「……?」
「これは、友人からの受け売りなのですが……」
そう前置きをした水先輩は、何処からか一冊の書を取り出した。
「時間とは書の様な物……らしいのです」
所を開き、パラパラと中身を捲る。
「題名がその時間を示し、中身がその時間に起こった事だと……時代とはそんな書を一つの所に集めたもので、棚の様なもの……だと」
此処までは、解りますか? と、聞かれ、私は頷いた。
「なら、問題です」
幼子に問う様な優しい声で、水先輩が問いかける。
「その棚の中から、書を一つ抜き取り、別の書を入れたとして……書はどうなるでしょう?」
「? 抜き取った方の書が……ですか?」
「えぇ、取り敢えずはそちらで」
頷いた水先輩の考えが、ますます解らない。
「現実の棚なら……抜き取ったとしても、書が無くなる事は無いですけど……」
でも、これは時間の話。
問われているのは時間としての事だ。
違うのかもしれない。
「その通りです。棚から抜き取ったとしても、書そのものが消えて無くなる訳ではありません。当たり前の事ですよね?」
「……はい」
「それが時代の中でも、起こっていたとしたら、どうでしょうか? 巻き戻しによって書が入れ替えられ続けていたとしたら……古い書は、何処へと行くのでしょう?」
確かに何処へと行くのだろう?
今まで私は入れ替えた書……巻き戻した時間は消えていると思っていた。
「棚の外に積み上げられている?」
だが、もしも……現実の棚と同じ様に書が消える事が無かったら……棚の外へと持ち出された書は、棚の外に積み上げられている事になる。
でも、積み上げられているのは、棚の外。
棚に影響を及ぼす事は無い……と、思う。
考え込む私に、水先輩は緩く首を振り……
「確かに、少量であれば影響は無いでしょう。ですが……大量なら? 棚の大きさを凌駕する量であったら? 棚は押しつぶされてしまうでしょうね」
「え……」
「更にもしも、入れ替えたのでは無く、押し込めたとした場合……棚の中に複数の似た様な書が存在する事になります。それも、大量に」
閉じられた書が、水先輩の手から消える。
「棚に存在する限り、書は記憶として機能します。その記憶が、無意識とは言えあなた以外の存在に残っていたら……混乱するとは、考えられませんか? 知らない記憶が時々頭を過る、それが現状と似通っていたら……今を恐れ、あなたを恐れる可能性がある……無いとは否定できません」
「……あっ」
思い当たる事がある。
それは、仲間だったり敵だったり……幾つか前の事がするりと言動に現れている事があった。
何度も繰り返し、似た様な選択肢から導き出された……再び生じた事象だと、思っていたが……
そして、私に対して距離を取っている事も……
あれらは……巻き戻りの影響だった?
「そんな不具合が制限なく、詰め込まれたとして、詰め込まれた棚は無事でいられるでしょうか? 多少は許容しても……いずれ、限界が来ます。棚は……時代は崩壊するでしょう。そうなったら、国どころか世界すらも、存続が出来なくなる……結果、世界は崩壊し消え去る。時に干渉する事は、その危険と隣り合わせなのだと、友は言っていました」
水先輩の瞳から温かさが消える。
「繰り返しの果てに、結果が出る前に……世界が壊れると、あなたは解っていましたか?」
「解って、なかった……」
そう。
本当に解っていなかった。
漠然とだが大丈夫だと、思っていたのだ。
確かめようが無い事だからと、実際に不具合いが起きている訳では無いのだから、と。
楽観視していた事は否定できない。
「なら、聞きます」
真剣な表情の水先輩は、私に問いかける。
「あなたは、巻き戻しを何回使いましたか?」
「……っ」
その問いかけに私は……血の気が引いた。
「おもい、だせない……わからない……です」
余りにも繰り返し過ぎて、回数が解らない。
選択肢が限定的だと、繰り返している事に気が付くくらいには繰り返していた。
選択肢の内容と、結果はいくらでも思い出せるけど、それが何回目の時だったのかは……記憶してこなかった。
「もしかしたら……あなたが出会った送り出してくれた人は、あなたを止める為に訪れたのかもしれません。でも、あなたの様子を見て、止めるよりも気づかせた方が良いと判断したのでしょう」
確かに、あの青年は突然現れて、私を送り出した。
あの時は深く考える余裕が無かったけれど、今にして思う。
青年は何故、世界の狭間に居たのだろう?
いきなり話しかけられて、送り出されたから、名前を聞く暇も無かったが……狭間で他の誰かに出会ったのは、あの時が初めてだった。
でも、其処に居た理由は言っていなかった。
もしも、水先輩の言う通り、私を止めに来たのなら、何故、考えを変えたのだろう?
解らない事だらけだけれど……止めに来たと言うのは、あながち、間違ってはいないと思う。
無自覚に世界を壊していく私を、脅威だと見ない訳が無いのだから。
「私……世界を壊そうとしていたんですね」
「……全部が全部、そうだとは……限りませんよ? 世界が違うのですから」
先輩の方が何故か申し訳なさそうに、言葉を紡ぐ。
「似ているようでも、違う事もあるのかもです」
「でも、先輩の目は私の目と同じです。とても、近い世界線なのかも……」
水先輩が、友人から教えられた事が……同じ瞳を持つ先輩が居る世界と、同じ事が私の世界でも起きる可能性は高い。
水先輩は少し困った様な顔で、私の頭を撫でた。
「あなたを追い詰めるつもりは無かったのですが……すみません、色々、詰め過ぎました」
「いいえ。水先輩……言ってくれて、ありがとうございます」
自分がどれだけ考え無しだったか……鈴音にも言われたのに、自覚しなさいと。
私が人では無くなった事を否定し、認めようとしていなかったから、そちらを優先したけれど……この事も言いたかったのかもしれない。
こんな状態のままで行動したって、上手くいく訳が無い。
それに気が付かせてくれた鈴音と蘇己、そして。
「叱ってくれてありがとう、水先輩」
「……」
ポカンとした水先輩はそのまま黙ってしまう。
「……先輩?」
「あぁ、いえ……ふふ」
私の頭を再び撫でながら、水先輩は微笑む。
自然な笑顔にホッと力が抜ける。
「あなたの様な後輩が、初めから居てくれれば……違ったのでしょうね」
「何がです?」
「お役目中の事です。あなたの様な後輩が居れば、きっと……色々な事が楽だったかもしれません」
過去に意識がいっているのか、遠くを見つめる瞳は暗く、悲しさ寂しさと言った感情が混ざり合っているのが見て取れた。
「私は、状況に流されるまま、遠くまで歩んでいきました。道のりは平坦では無く、険しさばかりで……迷い、後悔の連続でした。勿論、一人では無かったですよ? 私を支えてくれる仲間は……居ました。でも……」
瞳を伏せた先輩は小さく零した。
「私には……彼らの……想いが、重かった。始まりも、私自身が望んだのでは無く、ただ……そのままの状態であったなら、確実に死んでいた。つまり、死にたくなかったから、流れでついて行くしか選択肢が……無かったのです。本当はいつだって……」
逃げ出したかった。
聞き取りにくいその声は、水先輩の本心だった。
「ふふ、私はね……臆病者なんです。嫌われる事も、失う事も怖かっただけの。ただ、回避しようとしてきた事が、あの時代では人格者だと言われたに過ぎません。本当の私は決断すらままならない……中途半端で無責任な男なのですよ」
「先輩……」
「本当は、誰かに先輩と呼ばれる事も、おこがまし、い?」
水先輩が次の言葉を紡ぐ前に、彼の頬を両手で包んだ。
そのまま、ムニュムニュと捏ねる。
「こ、こーは、ひゅはん?」
水先輩が困惑しているけれど、構うもんか。
「水先輩は、無責任じゃないですよ」
私が思う事を、そのままぶつけてやる。
「無責任って言うのは、私の事を言うんです! 何も知らないくせに、叶わない、届かないなんて言って、危険行為を繰り返してたんですよ? しかも、それに気が付かないままで! 皆から言われるまで、気づこうともしなかった……ね? 無責任でしょう?」
送り出されないままだったら、世界を滅ぼしても、その事に気が付かない……見ない様にして自分一人になっても、巻き戻しを続けていたと思う。
何もかもが、自分のせいなのに。
「だから、先輩は無責任なんかじゃない! むしろ……苦労人? 人が好過ぎる? えーと……うん、生きていくのが不器用な人。それでいて、凄く凄く優しい人」
誰かを見捨てられない……多分、そんな感受性の強い人。
ただ、それだけの人だけど……だからこそ、仲間がついて来たんだ。
「それに……水先輩は逃げなかったんでしょう? 星の宿命から」
「!」
「だから、凄いと思う事はあるけど、無責任とは思わないです。少なくとも、私は」
捏ねるのをやめて、私は水先輩へと微笑む。
「先輩は頑張った。きちんと、最後まで」
「後輩さん……」
「私の先輩は立派な先輩なんです。先輩本人が否定しても、私がそれを否定し返しますから! だから、もう……自分を責めないで水先輩」
鈴音と蘇己が教えてくれた様に、私も水先輩に教えたい。
「泣いて良いんだって。自分の為に、泣いても良いんだって……先輩に会う前に、教えて貰ったんです。そうなのかなって、心に響いたんですけど……私は、泣けなかった」
涙が出なかったのは、きっと私の心の何処かも人間じゃなくなったから。
でも、水先輩は違う。
水先輩は人だ。
まだ、その心は壊れていない。
だから、この言葉は私よりも、先輩の方が必要なんだ。
「ワーッと泣いて良いんだよ、水先輩」
さっきのお返しに、先輩の頭を撫でる。
撫でていると、先輩は自身の手で顔を覆う、肩が震え、聞こえてきたのは小さな嗚咽だった。
静かで激しさは無いけれど、心のままに泣いている。
あぁ、良かった。
この人はまだ、人で居られる。
同じ星の宿命を持って、それを終えた先輩が人間でいてくれる事に、私は安堵する。
きっと、私はもう……
でも、初めの頃よりも、それを深刻に捉えてはいない。自覚したからなのか、それとも……
泣き終えた先輩は「お恥ずかしいところを」と、気まずそうに視線を逸らした。
腫れぼったくなった目元は痛々しいけれど、表情が明るくなった気がする。
「……あなたを手助けしなくてはいけないのに、私の方が救われてしまいました」
「私、何もしてないですよ? 叱ってくれた先輩に、ただ、教えて貰った事を伝えただけで……それなら、先輩の方が……」
役に立つ事をしてくれた、と、続けようとしたのを、先輩の指先が止めた。
その指先の冷たさに、驚く。
だって、その冷たさは……ローゼ達と同じ。
死者の冷たさだったから。
「せん、ぱい?」
「黙っていた事が一つ、あります」
水先輩の姿が揺れて、変化した。
服装や顔立ちが変わるのでは無いけど、明らかな変化。
生気を失った、まるで蝋で出来た様な肌、輝きを失い虚ろに変色した黒い瞳、そして。
口元から胸を染め上げている、朱の色。
流されたばかりの鮮やかなその色は、彼の結末も鮮やかに示していた。
「見ての通り、私は死者です」
「先輩……役目は、終えたって……」
「終えましたよ。私の死をもって、星の宿命は終わったのです」
輝きと色を失った瞳が伏せられる。
「私に課せられた魁の宿命は、世に蔓延る悪行を国主に伝える事でした。でも、それが本当に正されるのかは……天は定めていなかったんです。その証拠に、伝えた後に私は国主から毒杯を賜り、真っ先に報復しそうな部下と共に死ぬ事になったのですから」
「そんなのって……」
「しかも、毒杯は悪行の元凶達がすり替えて起こした事だと、死後に知りました。あれらは生き、また繰り返していると……此処に、現世と冥府を繋ぐ狭間に訪れる仲間達から、聞いて……私は呪いました。定めを負わせる天も、逃げおおせた元凶も、何も出来なかった国主も全て」
気持ちだけですが、と、水先輩は苦笑した。
「でも、それ以上に巻き込まれ続けた私自身が、許せなかった。捨てる勇気も、正す強さも無かった私自身が何よりも……許せなかった」
「そんな事……」
「あるんです。今更、思うんですよ……私は、もっと早くに死ぬべきだったと。それが出来ないのなら、仲間達を連れて逃げるか、断罪される覚悟で元凶達を殺すべきだった。この結末は臆病者だった私が招いた、自業自得だとも……解っているんです。でも、それでも……」
一拍置いた先輩は続けた。
「私は怖くなってしまった。次にもたらされる定めが、次の生が、恐ろしくなってしまった。だから、此処に留まって廻らずに居た……それにも限度があると解っていました、消えてしまっても良いと思っていたのですが」
私へと先輩は微笑む。
穏やかな笑みに、私の何かが騒めく。
「あなたに会って考えが変わりました。もう一度、歩んでみようと」
「もう一度……」
「えぇ、冥府へと降りてから、巡ります。お叱りは受けるでしょうけど、消える事は無いでしょうし……その気持ちをあなたが、くれたんです」
私へと手を伸ばした先輩は、途中でやめようとする。
まるで自分が触れたら、いけないみたいに。それを否定する為に私から手を伸ばして、掴んだ。
「ありがとう。優しき星の子、私は……あなたの強さが羨ましかった」
「私は、先輩の優しさの方が強いと思う」
「ふふ、こういう所は私達、同じなんですね。私は北斗の星で、あなたは北極の星なのですが……兄弟……いや、子供ですね。私に子供が居たら、あなたの様な子になるのかも」
「私も……先輩がお父さんだったら……良かったな」
実父とは違い、先輩とだったら仲の良い家族なれたのかもしれない。
そんな世界は叶わないけれど、想いを巡らせるくらいは良いだろう。
水先輩も寂し気に笑い、手を離した。
「最後に、後輩さん。私の名前なのですが……」
先輩は拱手をすると、表情を引き締めた。
「名は宋江、字は公明。どうか、この名を忘れないでいて欲しいのです」
「なら、先輩も。私の名前は――――」
自分の名前を先輩に伝えると、先輩は瞳を細め頷いた。
「美しい天の河の名……ふふ、あなたに良く似合います」
先輩の笑みを焼き付けていると、先輩が少しだけ私を後ろへと押した。
「もう逝かなくては、何処かでまた会える事を願っています」
「はい……また!」
頷いた私は無理にでも笑みを作る。
先輩が心配しない様に。
そして、先輩は私の名前を一回呼んでから、笑顔のまま後ろへと倒れ。
バシャンと音を立てて、水の底へと沈んで行った。
そこで、世界はプツンと途切れたのだった。