第9話 カニスティックパン
以降は、蠏江さんから聞いた話となる。
1950年代の終わり頃、西陣の呉服店綴巳屋の三男として生まれた蠏江さんは、大学を出て実家の呉服屋を手伝っていたが、1980年代前半になり和装業界がいよいよ傾きだし、三条会商店街の、今は「ブーランジェリーダンダン」がある場所で商いをしていた綴巳屋の出店を「タペストリー」という喫茶店に切り替え、自身はそこの店長となったということだった。
「実家の本業の方はいずれ兄が継ぐんで、わたしはわたしでなんとか食べていかなあかんかったんですわ。まあ、呉服の方は、今ひとつこう、水が合わんいうのもあったんですけどね」
学生時代のパン屋でのアルバイト経験をいかし、手作りパンを喫茶店でだしたところ評判がよく、いっそのことと改装してパン職人にも入ってもらい、「ベーカリーカフェ タペストリー」として一時期営業をしていたということだった。
芳さんが息子さんと通っていたのは恐らくちょうどこの頃で、カニのパンは名字が蠏江だからとたわむれに作ってみたところ子供受けがよく、看板商品になっていたのだという。
ちょうどバブル期に入っていく中、「タペストリー」での成功を足がかりに、蠏江さんは同じような喫茶店やイタリア料理店など複数店舗の経営に手を広げ、飲食業の会社として独立したのだが、綴巳屋側の都合もあってそのタイミングで「ベーカリーカフェタペストリー」は店じまいをしたということだった。
「よう流行っていたんですけどね。わたし自身が忙しくなって面倒見きれんようになってしもうたんと、元々土地は綴巳屋の方で持っていたもんやから、そっちのスリム化で土地は売って店はしめてしまったんです」
「それで、いざホンマに店たたむってなった時に、おやじさんと一緒にここで『美晴』いううどん屋をやってたそこのきー坊が来て、店辞めるんやったら売れてるパンの作り方教えてくれ、うどん屋で出すからって。商店街の会合で顔合わせるぐらいやったのに無茶言うなあと思ったんやけどね」
チュロス屋の店主はうんうん頷いていた。
「そうやったなあ、あれはなあ、我ながらほんまにええお願いをしたと思ってる。まあ、僕がええ感じに改良して仕上げてきたっていうのもあるんやけど、おかげで色々おもろいことできたやろ」
「なに言うてんねん。わしがずっとアドバイスしてきたから、今でもここで店やれてるんやろ」
「そうかあ?まあ、そういうことにしといてあげてもええけどなあ」
そんなことを言いつつ、チュロス屋の店主は注文への対応で店奥に戻っていった。
その後、うどん屋で出したカニパンの足部分をスティック状にしたカニスティックパンは好評で、それだけを買いに来る人もあり、店主の父親が亡くなりうどん屋をやめ、鯛焼き屋や生キャラメル屋など次々に店を変えていく中でも、そのメニューに適応した形態で提供し続け、今に至るということらしかった。
「仏作って魂入れずていいますけど、実際のところ、魂がどの仏さんに入っているかもこの商売では大切なんですわ。まあ、そうは言うても、流行りものばっかり手を出して店の業態コロコロ変えるのはどうかとは思うし、僕のやり方とは随分違うんですけどね。それでも、自分の作ったものをずっと継承して、お客さんに出してくれてるいうんはありがたいし、それに、たまに考えられんような大当たり出したり、思いっきり失敗して真っ青な顔になってんのは、見ててもほんまにおもろいしね」
「よいお友だちなんですね」
「友達? いや、どうですかねえ。まあ、この年になっても付き合ってるんですから、そうかもしれませんね」
店奥からチュロス屋の店主の声が響く。
「なに言うてんねん、ベストフレンドやろ。だいたい俊ちゃん僕以外友達おれへんやん」




