第3話 カニのパン
おばあさんは名を「革嶋芳」、女の子は高校二年生で「革嶋きな子」といい、今は左京区で二人一緒に住んでいるということだった。
二人の境遇はなかなかに複雑で、芳さんの話をかいつまむと、芳さんの息子は若い頃に家を出て、ヨーロッパ各国をフラフラしている最中に知り合った日本人女性と意気投合して結婚。イタリアできな子が生まれたが、両親の離婚をきっかけに九歳の時に父親と日本に戻り、小学校まではインターナショナルスクールに通っていたらしい。(きな子のしゃべり方が独特なのは、日本語を勉強していた際に教材としていたのが、当時母親が好きだった土屋アソナの動画だったからということだった)だが、その父親は四年前に亡くなり、その後祖母である芳さんが引き取ったということだった。
「わたしが厳し過ぎたのね。あの子にはあの子の人生があったのだけれど、当時のわたしは認めてあげることができなくてね。けどね、家から出ていったきりで、もう会えなくなるとは思ってもいなかったのよ。いつか必ず帰ってくるものだと思っていたのね」
探しているパン屋というのは、その息子さんが幼いころ何度か一緒に訪れたことのあるお店で、元々この三条会商店街の「ブーランジェリーダンダン」の場所にあったような記憶があるということだった。
ただそれは1980年代半ばだから今から四十年近く前の話で、先ほど二人で店を訪ねて訊いてみたところ、「ブーランジェリーダンダン」は二十年程前に今の店主のご両親が越してきて店をはじめたということで、その前はゲームセンター、更に以前は喫茶店だった時期もあったとは聞いているが、詳しくは分からないということだった。
「孫に食べさせたくてね。来てみたらどうにかなるかなと思っていたけど、そうもいかないものね」
「今探されているということは、そのお店のパン、すごく美味しかったんですか」
「そうねえ。美味しいのは美味しいのだけれど、ものすごくというほどでもなかったわね。でもね、なんだか楽しいお店でお客さんも多かったのよ。わたしもこの子の父親もそのお店でパンを買って帰るのが大好きだったの」
「店の名前は?」
「それがよく覚えてないのよね。洋風なような和風なような、なんだかよくある名前だった気がするのだけど。息子とは『カニのパン屋』って呼んでいたのよ。いつも買っていたカニの形をしたパンがあってね、脚のところに一本ずつチョコとかクリームとかが入っていたの。ね、素敵でしょ」
「うーん。雲をつかむような話ですね。芳さんには酷な話かもしれませんが、そもそももう無くなっているんじゃないでしょうか」
「そうね。……そうかもしれないわね。けど、なんだかあのお店は今もやっているような気がするのよね」
ヒントはあれど、あまりに無理のある探しもののように思えた。
それに、京都洛中はパン都で多くのパン屋で溢れてはいるが、同じ店がずっとあり続けているわけではない。気がつくとあちらこちらに新しいパン屋ができているが、それとは別に、別の場所のパン屋が静かになくなっていってもいるのだ。
長い年月愛され、根づき、作り手とお客も代替わりをしているパン屋もあるが、その数は決して多くはない。パン都は新陳代謝を繰り返しながら人々の暮らしと共にその姿を少しずつ変え、その機能を保ち続けているのだ。
だから、京都人にはそれぞれに思い出のパン屋があるけれど、それが今も通え、食べることができるのかは別の話なのだ。
「おじさんじゃ無理かなー。パン王とかいってもただの無職だもんねー」
スマホをいじりながら、こちらも見ないできな子が口をはさむ。
しかし、なんでこの子こんなに煽ってくるんだろうな。なんかさっきからも鳩をじーっと見てたかと思えば、急にふて腐れてみたりだし……が、まあいい。むしろちょうどいい。客観性が必要なテストにはうってつけだ。
「……ふふふ、確かにパン王という名乗りは『ちょっと印象付けできればよいかな』という、いかにも浅はか&浅馬鹿なユーチューバー感が漂っているのは否定し難いが、それでも僕は伊達にパン王を名乗っている訳じゃない。人の行動には合理的な理由があるのだよ。ちょうどいい、お二人」
突然の芝居がかった言い回しに少し戸惑う二人。
「ちょっと待ってね」