5
――エドワーズ家の統治である限り、この地は安泰であろう。
エヴァンの目論見の通りの筋道が立った頃である。ジェイクの元に王太子、アーサーから勅命が入った。
ジェイクは手紙を見て目を疑った。
――ハンナの母のカトリーヌが囚われた。父の忠臣の一人が異教を疎んじている。カトリーヌは教会と距離を取っていたが為に疑われた。ハンナが捕まるのも時間の問題だから連れて行け。
ジェイクは机を蹴るように執務室を出た。着の身着のまま、王都へ馬を走らせた。ジェイクの馬術はセオドアよりも上手く、人よりも馬を飼い慣らしていた。
王都に到着してからは王太子自らの手引きで牢のある塔の中をハンナの元へ走った。
ハンナは静かに石の上に座っていた。
その時は生きる気力のないハンナ一人を引き摺り出した。ハンナはジェイクに従った。
夜の道を二人で馬に乗って駆けた。
ジェイクは心に誓う。この娘を幸せにしなければならない。
ただ娘を幸せにするのは自分でなくとも良い――。
ジェイクは今、何年かぶりにハンナの前にいる。
愛おしい女。牢の中では気高い心を失わず。自らの命の行く末を神に託していた。
「おまえを貰い受けるに際しては我が家にある王家の首飾りを差し出すことが条件だった」
しかし、そこでいくつかの齟齬が生じた。
「国王の配下がそれを取りに来た時、それは既になかった。兄には愛人がいて、自由にさせていたからそれが首飾りをとんでもなく安い値段で行商に売ってしまっていたのだ」
何故ここに王家の首飾りがあったのか。それは何代も前の王家と繋がる祖先の遺産だった。
それは現王家の持つ国宝の首飾りと対になっていた。
現王は過去の遺物を集める好事家の一面があった。
ジェイクにはそれを国王の機嫌取りに使おうという目論見があった。
が。何事も計略通りにはならない。
価値ある遺産が失われた事に、現王は激昂した。
「更にそこで大きな齟齬が生まれた」
現王はセオドアがジェイクを演じていることを知らなかった。
「兄は焦って、代わりのものを用意したが当然見破られた」
王家への背信はそれだけでない。
女がいない。ハンナがいない。極東から奴隷として連れてこられたが舞台に上がり、しかしその歌や思想が人を惑わすとして軟禁され、密約で解放された女。
王家の臣下はエドワーズ家の歪な状況に気付いていた。
愛想の良い侯爵、付き従う人形のようなメイドに、よく口が動く執事。
どうやら代わりは首飾りだけではないようだ――。
決定打はセオドアにあった。セオドアはいつからか異教を信仰していた。恐らくは愛人の影響。
それを王家の使者に知られてしまった。
異教は重罪。その場で爵位剥奪の上、家の取り潰し。異教徒は燃やして灰にせねばならない。国の安寧の為に。
推して知るべし。
王家とエドワーズ家の歯車はどこまで行っても噛み合わなかった。信頼関係は今や完全に失われた。
エドワーズ家は崩壊した。
「全ては私の手回しの拙さ、不甲斐なさが原因だ」
ジェイクはハンナの前に立った。
「しかし私には成さねば成らぬことがある」
ハンナはジェイクを見つめた。
「時間はかかったが、首飾りは取り戻した。ハンナ。イーサンについて気に病むことはない。彼は死ぬのを望んでいた」
イーサンは元は王都で盗みを働いたり詐欺をして稼ぐような小悪党だった。家族を得て一時期は幸せに暮らしていたが流行病で全員早死にしてしまったので以降は街に出ては盛場で賭博をする楽しみしかなかった。よって金を幾らでも必要とした。
墓場でジェイクから更に金をせびろうとしたところを勘違いをしたハンナに斬られたという経緯だったが、ハンナを怒らせてそうするよう仕向けたというのが正しい。
イーサンは全ての事情を知ってはいたが、ハンナの件に一切関わっていなかった。
「ハンナ、苦労をかけた。私を含めて全員愚か者だ。三人は結局何処にも行けずに戻って来た。死に切れなかったようだから介錯してやった。女二人と、一人は血を分けた兄弟だ。三人とも鳥に食わせてやった。この村の鳥は雑食だ。肥えて大変美しい声で鳴く」
ジェイクの告白にハンナは言葉を無くした。
ジェイクはハンナの前でゆっくりと手袋を外した。
ハンナは全てを理解して、ジェイクの手を両手で包んだ。
「ああ、あなただ」
ハンナの目から涙が溢れ落ちる。
「あの人が手袋で隠して、私には決して見せてくれなかった手の甲。私をあの冷たい石の塔から救い出してくれたのはあなただ」
ジェイクの手の甲から手首にかけてはには大きな刀疵があった。これはセオドアにはない、剣術の訓練中の怪我であった。
ジェイクはハンナに微笑んだ。
「私はここに戻って自ら復興の指揮を取ろう。だからおまえも戻るがいい。案ずることはない。以前の通り、何不自由ない生活を約束しよう。そしておまえのその東方の知識を私に分け与えておくれ。あなたの妹は別の場所にいる。何も心配するな」
ジェイクはハンナの手の甲にキスをした。
「一目見た時から私はあなたの虜だ」
その後、ジェイクは所縁ある人間を頼り、その後、屋敷は瞬く間に再建された。
王都の馬車がやって来た。今度こそ置いていくのは松明でなく見舞金であり、祝い金であった。
薔薇園を再興させるまでには数年を要した。
その頃には前王が病で倒れ、治世者が変わっていた。新しい王はジェイクのカレッジの同級生、アーサーであった。
ジェイクとハンナは結婚した。しかし、大々的な式はしなかった。婚姻証明書には速やかに王の印が押された。
婚姻後の二人は同じ寝所で寄り添って寝た。時折ハンナが昔の記憶に苛まれて魘される事はあったが、そのような時、ジェイクはハンナを優しく宥めるのだった。
ハンナは以前と同じく社交場などの表舞台には出なかったが、使用人を連れて村を歩く姿は度々目撃されていた。子供達が連なってその後をついていくのは村の名物になった。
ハンナの黒目黒髪の見た目は人目を引いた。痩せ細っていた彼女であったが、太陽の元を歩けるまでの元気と生来の美しさを取り戻していた。
ハンナは村人との交流で心の安らぎを取り戻しつつあった。また、菓子を作り、それを村人に振る舞ったり、使用人に街で売らせる楽しみを得て暮らしていた。
街でその店が大変繁盛したこともハンナを勇気づけた。
ジェイクはセオドアを名乗った。元来人前に出るのは好きでなかったが、彼は変わった。
恰も兄と同じように振る舞った。以前は完全に兄に社交の一切を任せていたが、ハンナと同じく出たがりでなかっただけで彼自身に才覚はあった。村人は死んだジェイクが戻ってきたと錯覚した。
唯一の違いは妻の話をする事だった。
ジェイクはハンナの話をよくした。
国王によりその見た目から魔女の汚名を着せられた、兄からは愛されることなく放置された数奇な運命を持つ女は男を知らなかった。
ジェイクは彼女を愛した。
ハンナの血を分けた妹を屋敷に呼び寄せようとしたが当人に断られた。彼女は十五になり、一回り年上の教師の男と結婚して幸せに暮らしていた。
ジェイクとハンナの間には二人の娘が生まれた。二人の特徴を併せ持つエキゾチックな容姿は世人の憧れとなった。
ジェイクは大層な子煩悩だった。ついでのように近隣の街や村の教育に更に熱を上げた。
ジェイクはハンナの手を取る。彼は自らが失ったものを再びこの手に引き寄せたのであった――。
「エドワーズ卿なくしてこの地の安寧は有り得ない」
その村は以前ほどの栄華はない。しかし、異国の料理や音楽に満たされた村は保養地としての地位を取り戻していた。
静かな村に川のせせらぎ。
川辺の巨石に腰掛け、リュートを弾く栗毛色の髪の男の傍には黒髪の女が寄り添い、歌う。その周りを子供が駆け回る。
「さあ、ハナ。次は何をしようか」
おしまい。