3
夜盗に破壊された窓、その向こうの森、戻てこの部屋、全てが静寂を保っていた。
暗がりに男の声が響いていた。男はまた女を呼んだ。
「ハンナ」
ハンナ。それは正しく女の名であった。
また、それを口にしたのは先程の農夫の息子であった。彼は室内に悠然と歩を進める。
彼の栗毛色の長い髪は後頭部で一つにまとめられている。落ちた前髪に隠れそうな青い目は常に伏せがちであった。顔半分はスカーフで隠れている。
「私を殺しに来たのだろう。殺せ」
叫ぶ女を無視して、農夫の息子はやはり煤けた暖炉に近寄った。そして暖炉の上の手燭を手に取ると、腰にぶら下げていた袋から引き抜いた白い蝋燭を徐ろに突き刺した。蝋燭に炎を灯す仕草は魔術のように鮮やかだった。
男はその手燭を持ち、今度は部屋の中央まで歩いて行って、床に身を屈めた。
「ここは客間だ。何故ここに来た、ハンナ」
彼は床の燃え滓を浚った。すると焦げた絨毯が現れた。彼はその絨毯を指差して女に言った。
「おまえも薄々気付いていたのだろう」
彼はハンナの返事を聞かず、焦げた絨毯を引っ張り上げた。
床には他と同じような木の板が敷いてあるだけだった。
彼はその床板を何枚か、簡単に外した。
軽々とした動作に見えるが、実際の床板は重い。農夫らしい太い腕で順調に板を横に退かしていく。
やがて現れたのは地下に繋がる石造りの階段であった。
「ジェイクに会いたいか?」
そう言って彼は手燭を女の前に置いた。それから暗がりの中を一人で階段を降りていった。
ハンナの前に炎の光が灯っていた。
ハンナは家人を失ってから世人を避けて暮らしていた。村外れの、同じく世捨て人の老婆の家の離れにて、大いに彼女の世話になった。
そこでハンナは匿われた。
ハンナ自身はジェイクから与えられた一頭の馬に導かれてそこにいた。
老婆はハンナと足の太いその馬を無愛想に出迎えた。
それからは気難しい老婆とのほぼ会話のない生活。老婆は聴覚に障害があった。また、視覚による刺激も避けていた。
ハンナは老婆との自給自足の静かな生活に不満はなかった。しかし、唯一ハンナが困惑した事と言えば、老婆が決して夜の火を点さない事だった。
今、彼女の前には蝋燭の炎が瞬いている。
ハンナはこの気遣いに農夫の息子へ畏敬の念を抱いた。
ハンナ自身は元々身分によって相手を軽んじる風潮が好きでなかったが、灯を授けられたことのみで農夫の息子が信用に値する人物であるような錯覚を得た。
階段の下で再び灯りが灯った。彼はトーチを持っていた。
ハンナは手燭を持ち、幽鬼のようにフラフラとその後をついていく。
「あの日、私はたまたまこの地を離れていた。仲間と共に新しい炭鉱の視察へ向かっていた」
石造の階段に響く、男のくぐもった低い声。
地下に辿り着くまでは長い。
石の階段は苔が生えて滑りそうだ。
腐臭がした。
「戻って来たらばこの有様だ」
「今はもう全て変わり果てた」
「絶望を語るにはまだ早い」
「……」
「あなたは逃がされたのだ。それはあなたへの慈悲であって、哀しみ憂う事はない」
「私は彼と共に死にたかった」
「みすみす無駄死にすることはない。あなたは疎まれていたのではないんだ」
彼の言葉にハンナはハッとする。
「あなたは誰」
ハンナの問いに農夫の息子は首を少し後ろに向けて、青いその目だけで微笑んだ。
地下に着いた。伽藍堂の広間の奥には祭壇があった。
この国でよく見かけるものとは違う。幾つかの羊の頭蓋骨にたくさんの燭台。儀式めいていた。
彼はトーチを羊の骸骨の前に置いた。
「ジェイクは羊飼いの子供にあなたの噂を流すように命じた。あなたが村の者から忌避されるように。しかし彼を責めないで欲しい。彼は何も知らなかったのだ」
男の告白はハンナを困惑させた。
「真実を全て捉える事は困難だが、あなたが知りたいというのであれば」
男はハンナを見つめた。
「見せよう。心して見るがいい」
そして男は再びトーチを取り、別の壁面にその眩いまでの光を掲げた。
灯りに照らされた壁面の前には一瞬判別し難い彫像のようなものがあった。
そこに立てられた十字架に吊るされたのは人の死骸であった。祭壇とは離れて、仰々しく飾られていた。
その死肉はネズミに食い荒らされ、最早襤褸雑巾のよう。脂漏化した肉体は腐った木のように朽ちていた。
「異教の神に生贄として捧げられたのは彼の執事であった。全く人とは愚かな事をしでかすものだ」
男は十字架の裏に回ってその人を外した。血と肉を失った体は軽いようだった。彼は恐れる事なくそれを抱き留めてゆっくりと床に横たえた。
その後、立ち上がった彼は力任せに十字架の木材を引き抜くようにして倒した。それが倒れる時には激しい音がして、辺りに埃が舞った。十字はその衝撃で壊れた。
十字架の楔を外した後ろに扉があった。彼はその扉を足で蹴るようにして開けた。一寸先は闇。酸いた匂いがした。
「おまえが愛した男はここから逃げた。色欲と強欲に狂った二人のメイド、そしておまえが最も愛した小さな娘と共に。そして、ここを閉じた者たちは地上に戻り、皆、失意のまま焼け焦げて死んだ」
男は遺体を見つめて目を細めた。
「エヴァン。助けられなくて済まなかった」
男は遺体の傍らで片膝を突いた。手を合わせ、その魂の抜け出た肉体に暫しの祈りを捧げた。
エヴァンは往時のハンナの最も良き理解者であった。つられて手を合わせたハンナはここでまた更に深い悲しみに落とされていた。
「……おまえはどうして彼の名を知っている……」
ハンナは男を睨みつけるが男は意に介さない。男は立ち上がって言った。
「尊く美しいものには必ず翳がある」
スカーフを取り、口元を晒した男の顔を見てハンナはそこに崩れ落ちた。
そこにはハンナが嘗て愛した男と同じ顔をした男がいた。
「私が本物のジェイク・エドワーズだ」
続きます。