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 旅装束を纏った男が馬を連れて川沿いを歩いていた。海を越えた東の国からの旅人であった。


 獣道を進んでいるときであった。何者かに呼ばれている気がしたと後にその男は語る。


 野宿のつもりであった彼は日暮れ時に水鳥が泣く川辺より雨除けに森の方へと立ち寄った。

 森の中の泉に美味い湧き水が出ると聞いていた。

 その水を汲みながら、男は異国の歌を聞いた。

 水を捨てて起き上がり、人の気配にたじろぐ馬の手綱を力強く掴んで周囲を警戒した。

 嘆き悲しむような歌声に男は甘美な感情を得て声の主を探そうとしたが一向に見当たらなかった。


 その歌声を聞いたのは旅の男だけでなかった。村の人々は昼間でも聴くことがあった。

 鎮魂歌のような寂しい音色であった。


「異国の女の幽霊が出る」


 その噂は街まで広がってエドワーズ侯爵を失った村の評判を更に貶めた。同時期、不幸な事に流行り病が村に蔓延した。度重なる不幸に村人は恐れをなして村を離れる者もいた。


「幽霊はきっと侯爵の奥方だ。この世に未練があって恨みを晴らすべく戻って来られたのだ」


 陰鬱な時代がやって来た。侯爵の統治力を失った村はあれよあれよと言う間に衰退し、荒廃していった。道の草は伸び放題、仕事を失った男共は昼から酒浸りで、女は疲弊し、子供の泣き声は夜まで止まなかった。


 この小さな村の者には学があった。誰でも教会で学べ、新しい情報は行商人が卸した。侯爵の改革には教育によって村の生活水準を押し上げるという非常に組織的な機略があった。しかし、今では追い討ちをかけるように行商の往来も途絶えている。


 彼等は負の連鎖を断ち切る術を持たなかった。陣頭指揮を取る侯爵もいない。村の政治は侯爵がいなければ腐敗した。自らの手で切り開く道を彼等は模索していた。


 村に繋がる街にも暗い影が落ちていた。この地全体に、王家に見捨てられたという絶望感が漂っていた。


 侯爵の邸宅は今や廃墟と化していた。盗賊にあらかた奪われて跡形もない。


 誰が我々を導いてくれるのか。


 その土地を去る者も多かった。



 

 ――それは静寂に包まれた夜だった。


 一人の農夫が犬を従えて、嘗て村に栄華を齎した侯爵の墓の前で手を合わせていた。農夫の傍に()()()()が並んだ。息子は口元を隠すようなスカーフを巻いていた。


「あれは宵闇の、星明かりだけで月のない夜だったな」

 その時も彼の傍に犬がいた。

「卿は馬で丘を駆けていくところだった」



 ――こんな夜更けにどこに行きなさる。

 ――女を助けたい。



「それからしばらくして()()()()は氏素性の分からない女と結婚された。それがあの時、卿が助けた女であるならそれは」


 ハアと農夫は溜息を吐いた。


「彼の女は処刑間近であった国王の側女であったに違いないと私は確信した」


 犬が激しく吠えた。人の気配がして農夫が振り向くと、茂みの中から暗闇を背景に月明かりを浴びた黒いベールを纏った女が現れた。

 女はベールを外した。

 黒目黒髪で酷く痩せこけて青白い顔をした女。

 農夫の見立てが正しければ、彼女は極東から奴隷として連れてこられ、国王に見初められたという元は下女。


「あやつらを手引きをした諸悪の根源に引導を渡しに舞い戻った」


 女ははっきりそう言うと、両腕で大剣を振り上げた。振り上げた剣の紋章を見て農夫は息を呑んだ。


 女の太刀筋は見事で、暗闇に一閃が煌めいた。

 斬られた農夫は墓地に倒れ込んだ。その息子は全く動かず、犬は延々と吠えていた。


「おまえは不幸な女だ」

 血を咳き込むように吐きながら農夫は女を見上げて言った。


「可哀想に」

「おまえに私の寂しさを、虚しさを語られたくはない。私の家族を殺したのは誰だ、誰だ」

「ははは、鳥籠の中の鳥がどうして外で生きられる」

「黙れ」

「王家に逆らうなど愚の骨頂だ」

「奴等は神の遣いの面を被った悪魔だ」

「神の遣いが清廉潔白である必要はない」

「詭弁だ」

「彼等こそ真の支配者。我々が立ち向かうべきは崩壊した倫理、思想信条。腐敗……。私はもう死ぬ。おまえは私を殺しても真実には辿り着けない」


 エドワーズ卿を失った村は秩序を失っていた。

 汚職は蔓延り、市場は閉鎖され、教会は手立てを失い財産を失った暴徒によって半壊の憂き目に遭った。

 農民は肥料の調達も満足に出来ず、男は幾ら働いても奴隷のごとき状態から抜け出せず、女は体を売り、子供は売られた。

 この農夫は村が栄える以前の不景気で()()()家族を失っていた。

 それでも生きてこられたのには理由があった。

 農夫は胡乱な目で息子を見やった。


「ここで死ぬ。皆、死ぬ……。漸く私も」


 農夫は二度と起き上がらなかった。犬は農夫の傍に寄り添った。

 

 息子は血に塗れた農夫を黙って見つめていた。それからそれに手を伸ばして引き上げ、背負った。父の血で服が汚れるのも厭わない。その息子は犬と共に墓地を出た。

 女を畏れることもなく、女を恨むこともなく。


 女はそれを唖然として見送った。


 農夫の息子から、死をもって償えと罵倒される覚悟はあった。

 なのに、何故。

 女は肩透かしを食らった格好で、呆然とその場に立ち尽くした。


 こうして生を繋げた女であった。


 女はよろけるように森を抜けて見知った農道を進んだ。嘗ての邸宅に向かう気力はあった。

 煤で汚れた屋敷の扉は開け放たれていた。

 女は中に吸い込まれて行った。

 それぞれの部屋を懐かしむ思いで回る女はここに五年いたのだ。

 匿われた身として。


 藤椅子に手をかけるとそれはその瞬間に砕けるように壊れた。

 まるで今の自分のよう。たった一突きされれば死ぬことが出来る。簡単な死の前にいる。

 復讐もしきれない。消えて終えば全てが終わる。


「私はこの怒りを何処に向ければいい」


 女は床に突っ伏した。

 歌を歌うことも出来ない。慕情に乗せて。

 生きながらえて得るものは何だ。

 何故何度も死に損ねるのだ。


 絶望の淵にある女を、


「ハンナ」


 その名を呼ぶ者があった。



 続きます。

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