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 西方の国に鳥の楽園ありと謳われた風光明媚な丘の袂に小さな村があった。


 数百年前に異国の民の侵入を許したものの今は往時の破壊的侵略の痕跡はない。なだらかな丘陵の天地を分ける美しい稜線、農地と平原が広がる村は貴族の保養地としても知られていた。


 旅人は必ず立ち寄る。その丘の小麦畑の美しさと空の広さに心を癒される。古い風車は人々の慕情を誘った。


 昨今の村は鳥の囀りや羊の鳴き声が谺すばかりでなく、急速な発展途上にあった。今やその中心部には店が立ち並び昼は賑やかで人の往来が絶えない。


 村人は皆、口を揃えて言った。


「エドワーズ卿なくしてこの地の安寧は有り得ない」


 ジェイク・エドワーズ侯爵は若干二十六歳とまだ若い。引退した父親の跡を継いで以降、本宅のある市街を離れ、広い農地と川を越えた森の中に忽然と現れた荘厳な趣ある邸宅で使用人七人と共に慎ましやかに暮らしていた。


 彼は長身で大変な美丈夫であった。歳の割に所作が落ち着いていたので、誰もが一目見れば彼を認めた。また子供の頃から学問に秀で、体術、馬術や剣術の才能も他の追随を許さなかった。青年時代は王立アカデミーで経済を学んで博士号を得ていた。


 他国の革命はこの農業の盛んな島国にも影響を及ぼした。

 侯爵も例外でなく、幸福権の行使を訴える個人的主義的な合理主義を貫く一人だった。


 彼は幾つかの街や村の管理権を持っていた。彼は各自治体の自立を重んじつつ連携を促し、農地改革から財政再建、病院誘致、地域の学校の整備拡大、市場の活性化、あらゆる取り組みを有言実行したことから政治家として王都までその名を轟かせていた。

 それらの多くは彼が結婚して以降の功績であった。

 

 さて、その侯爵の奥方は結婚以来全く姿を見せない。

 街の中心部にある国教会での大々的な式においても最初から最後までベールを取らなかったので、誰もその顔を知らなかった。

 奥方は北方出身であるとは噂の域を出ない。異国の言葉を話すそうだ。しかし、卿は奥方に関してはどのような親しい相手にも話題にしなかった。

 例え卿が経済に精通していても治水や治政は専門ではない。出来の良い書生か何処からか雇い入れた者の手腕、あるいは奥方が裏で糸を引いているのでないかと根も葉もない噂がされていた。


 それほど侯爵の仕事は多岐に渡っていた。


「よって忙しい侯爵との謁見はなかなか叶わない」


 ある日、羊飼いの子供が侯爵の邸宅の庭園に迷い込んだ。

 一年で最も美しく花が咲く時期であった。

 薔薇園に()の女性が佇んでいたという。

 日傘を差していた。頭を布で覆った使用人を従え、小さな子供と共に薔薇を摘んでいた。


 羊飼いの子供は使用人に気付かれ、指し示された道で家に戻って来た。

 帰って来た少年は母親を見るなり捲し立てた。


「侯爵夫人を見た」


 それから、母親に話すだけでは飽き足らず、己が見た風景を村中に話して回った。


「奥様が手を引いていた子は黒目黒髪であった」

 侯爵の髪は栗毛色。では奥方の出自は何処か。


 姿を見せない奥方、そして悪魔の色を待つ子供の噂は街まで一気に広まった。


 何故彼女は表舞台に現れないのか。それには何か理由があって、人には言えないような後ろめたい真実があるのではないか。


 このようにして奥方の不穏な噂は絶えなかった。

 その一方で村は稀有な発展を遂げていた。

 

 さて、寒い冬を前に、侯爵の屋敷へ向かって狭い農道を隊列を組んでやって来たのは国王の紋章を掲げた馬車を先頭とした国王の遣いであった。卿の評判を聞きつけて遥々やって来たのかと村人達は騒然となった。

 

 短い滞在の後に一度は去ったが数日後の夜更けに彼らは再びやって来た。忍び寄るかのように畑の間の真っ直ぐの道を今度は馬車一台が走り抜けていった。


 何故深夜に。話を聞いた村の上役が指示し、村の中で選ばれし脚の速い若者二人が偵察に侯爵の屋敷に向かった。

 三日月の晩であった。二人は森の中からジッと侯爵家の屋敷を伺っていた。


「何だあれは」


 馬車から降りた数名が屋敷に樽を持ち込んでいた。屋敷の中から声や音はなかった。そして、一人がおもむろに松明を掲げた。


「何ということだ」


 扉が開け放たれた屋敷の中に松明を投げ入れられた。何が起こるかは一目瞭然であった。油を伝って、瞬く間に炎が屋敷を覆った。

 若者二人は声を顰めたまま唖然としてその様子をただ見つめていた。

 やがて屋敷から出てきたのは火だるまになった人影であった。一、二、三……。

 火の粉の舞い散る、燃え盛る邸宅の前でバタン、バタンと倒れていった。


 馬車が去った後の月明かりの下には燃え続ける邸宅が残され、その前には焦げた人の残骸が転がっていた。震え上がりながら二人は逃げた。

 

 翌日。三人は村の者達によって丁重に埋葬され、村の小さな教会には不相応な立派な墓が建てられた。


 死んだのは侯爵と奥方、そしてその執事であると状況から判断された。何故ならば死体の損傷が激しかった為、性別の確認すらも不可能であった。


 後日改めて建てられた墓碑には三人の名が刻まれた。


 火事のどさくさで消えた他の使用人の行方はようとして知れなかった。


 この事件は噂好きな人々によって王都まで広められたが、王家は沈黙した。



 続きます。

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