17
それからの日常は、最悪だった。スミカと出会う前の、モノクロの、灰色の日常に戻ってしまった。
旅行から帰った日の夜。たった一日家事をやらなかったという理由で、義父に殴られ、嘔吐するまで蹴られた。
テレビをつけると兵士達のニュースしかやっていない。どれだけの被害が出ているのかなんて知りたくないから、テレビは消した。ニュース関連のアプリも、全部消した。
行くあてもなく街をふらふら歩いていると、かつてのバイト先の店長とすれ違った。
彼は僕を見つけるとバツの悪そうな顔でボリボリと頭をかいて、すれ違いざまに舌打ちをして消えていった。
立ち寄ったカフェでコーヒーを飲んでいると、近くの席に高校の同級生がいる事に気がついた。
彼らはどうやら僕に気づいていないようだった。
クラシックの流れる静かな店内に、彼らの話し声だけが響いている。
「そういえばさ、雨宮綾人って学校来なくなったじゃん」
「ああ、居たね。そんな奴」
「なんかさ、和成なら聞いたんだけどよ。変な女と歩いてたらしいぜ」
僕は飲みかけのコーヒーを置いて、静かにカフェから出た。
スミカが消えてから、僕の人生は灰色に戻ってしまった。ここではないどこかへ行きたい。どこかというのは、もちろんスミカのところだ。だけど、僕が行ったところで足手まといになってしまうんじゃないのか。彼女の事を裏切った僕なんかに来られても、迷惑なだけなんじゃないか。そう思うと、怖くて怖くて動けなかった。
家に帰り、ベッドに倒れ込む。この部屋に戻ると、いるはずのないスミカの幻想に囚われることがある。
例えば、ロフトの上から顔を出して、こちらに向かって手を振る幻影を見たり、ボサボサ頭のまま、拙い動作で梯子を降りてくるところを思い描いたり、一緒に平仮名の勉強をするところを空想したり、一緒に観光雑誌を眺めてるところを想像したり、スミカとの思い出が、嫌でも脳内に描き出されてしまう。
スミカに、会いたい。どうしようもなく、会いたい。
スマホの画像を見ても、夢でスミカが出てきても、もう、満足できない。
彼女と手を取り合って、一緒に生きて行きたい。
スミカが我が家にやって来てから、一度もロフトには上がっていない。そこはスミカの部屋のような気がして、勝手に上がるのは何か失礼だと思っていたからだ。
でも、もう限界だ。
少しでもスミカに近づきたい。その一心で、梯子に足をかけた。
ロフトに上がると、そこにはスミカの残していった荷物が置かれていた。初めて一緒に買った服。海で買ったロングタオル。一緒に遊んだ水鉄砲。その一つ一つが、宝物のように、壁際に並べられている。
そして、綺麗に折りたたまれた布団の上には、一冊のノートとペンが置かれていた。そこで、思い出す。いつかスミカにノートとペンを貸してくれと頼まれたことがある。この世界の言葉を書けるようになりたいと言っていた。
一瞬躊躇ったが、無理だった。好奇心に負けて、ノートを開く。
そこには、スミカの努力が書かれていた。何度も何度も、平仮名を練習している。
ノートの端には、覚えたての平仮名で『いつか、あやとくんにてがみをかくんだ』と書かれていた。
更にノートを捲ると、いつか現像して渡した写真が挟まれていた。一緒に花火を持って撮った写真だ。そのページには『きせきをおこすんだ』と綴られている。
この言葉は、僕が初めて雷撃の魔法を使った時のものだ。
スミカも救って、世界も救える方法。世界規模の奇跡を起こして、スミカの花を咲かせるんだと、僕が意気込んだ時の言葉だ。でもその時は、スミカに泣いて反対されてしまった筈だ。なぜ、そんな言葉がここに書かれているのだろう。
そのページには更に『ほんとうはうれしかった』と続けられている。そのインクは、滲んで霞んでいた。
それを見て、涙が溢れ出て来た。温かいものが込み上げてきて、頬を伝って落ちる。こぼれ落ちた雫は、ノートのインクを滲ませた。
スミカは本当は死にたくなんかないんだ。僕が死なないように、わざと怒ってくれていたんだ。
スミカの花を探しに行った夜だって、最後の旅館の夜だって、彼女は恐怖に押し潰されて泣いていた。
なのに、誰も苦しまないようにと、自分が犠牲になろうとしているんだ。やっぱり、そんなのおかしいよ。
僕がどれだけ足手まといだろうが、どれだけクズだろうが、やっぱり、スミカが死ぬのはおかしい。
彼女はなんて事ないただの女の子なんだ。
僕の犠牲を拒んだのはなぜか。そんなの、僕に死んで欲しくないからだろう。だったら僕も生きてやる。
僕も、スミカも、世界も、全部ひっくるめて救うんだ。それを起こすのが、本当の奇跡なんだ。
不可能かもしれない。方法なんてないかもしれない。でも、それでも、それを叶えるから奇跡なんだ。奇跡は、そうやって起こすものなんだ。
「僕達は必ず、奇跡を起こす」
そうすればきっと、世界一綺麗なスミカの花が咲く。絶対だ。
気づいた時には、体が動いていた。
ロフトを駆け下り、家を出る。すぐに自転車に跨って、大急ぎで廃トンネルに向かう。
夏の日差しに炙られて、滝のように汗が流れてくる。シャツも、ズボンも、下着だって、何もかもがビショビショだ。でも、そんなの気にしてられない。
スミカと初めて会った森に着き、自転車を乗り捨てて中に入る。
ヘトヘトになりながらも、それでもスピードは緩めない。枝に引っ掛かれ、蜘蛛の巣は体中に張り付いている。でも、止まらない。
目の前には、スミカが通って来たと言っていた廃トンネルがあった。
ここを通れば異世界に通じているかもしれない。通じていない可能性だってある。でも、僕達は奇跡を起こそうとしている人間だ。
このトンネルは、絶対に異世界に通じている。そういう確信があった。
「スミカ! 今、奇跡を起こしに行くから!!」
体の中にある酸素を全て使って、僕は叫んだ。そして、廃トンネルの中に、足を踏み入れる。




