掛詞《カケコトバ》
二ノ瀬準の胸……鎖骨と乳房の間、ちょうど真ん中谷間のあたりに文字が刻まれているのを見て、俺は「あ」と声をあげた。
「…………」
二ノ瀬は俺の「あ」に、2秒ほど遅れて気付き、顔を上げ、何も言わずに眉を顰める。
夏休み、高校、空き教室。引き戸を開けて口も開けて「あ」の口のまま固まる俺と、口を真一文字に結んで少しかがんだ姿勢のまま微動だにしない下着姿の女子がひとり。
このままだと俺は悪名高い覗き魔となってしまいそうだから、この辺で自己紹介も兼ねて、ここまでの経緯を話させてほしい。
俺は、結城衛。今となっては恥ずかしい、いかにも正義の味方みたいな名前を持つ、六灯高校2年の男子だ。
放送部に所属しており、今日はコンテストに出す放送作品の制作を昼までやっていた。ついでに家では捗らない課題をやろうと思い立つも、部室には若干いづらいし図書室は性にあわない。適当な場所がないかと探していたところ、2階実習棟の空き教室を見つけ、入室したところである。
結果として……最後に使ったのがいつなのか分からない、乱雑に机や椅子が積み上げられたその教室の真ん中では、二ノ瀬がお着替え中――それも最悪のタイミング――だった、というわけだ。
そう。女子が着替えをしているだなんて知らなかったのだ。俺は悪くない、俺は悪くない。
動揺のあまり、長々と頭の中で繰り広げてしまった独白から現実へ立ち返ると、二ノ瀬は今さら脱いだ服をあてて胸を隠し、
「……いつまで見ているの」
と言った。
ごめん、と謝り、ここまでの経緯を早口でまくし立てる俺。2回目の「俺は悪くない」を言い終わる直前で、二ノ瀬の低い声がそれを遮る。
「……分かったから。とりあえず、人間道徳的には、あれこれ言い訳するよりもここを出るのが先だと思うけど」
「ああ、うん。それはそうなんだけどほら、誤解されたらまずいし」
「……出ていって、って言ってるの」
妙に会話のテンポが悪いのは動揺のせいだろうか、それとも……。
格好が格好だから、彼女の目を真っ直ぐ見れなくて、視線をあちこちにずらしてしまう。二ノ瀬の耳についたダイヤの形のピアスが、それを責めるように、鋭く光って虹彩を刺す。
「……見なかったことにしてくれるなら、こっちも見なかったことにする」
はっとした。二ノ瀬は初めから、俺に裸体を見られたことなど屁にも思っていなかったのだ。
見なかったことにしてくれるなら。
その言葉が意味するところは、もちろん、《《それ》》なのだろう。
「二ノ瀬。お前、その胸の『文字』……」
「……聞こえなかった? 見なかったことにして、って言ってるの。私としては、いつ叫び声をあげても構わないのよ」
「それは困るけど。二ノ瀬、ひとつ聞きたいことがあるんだ」
「……次が最後よ。私も面倒事にはしたくな」
「お前の会話のテンポが遅いのは、その『ノロイ』の《《掛詞》》のせいか?」
二ノ瀬は、分かりやすく面食らった。
押し黙ったその隙に、俺はカバンから水筒を取り出して、カッターシャツの袖をまくり、右の二の腕、ちょうど力こぶの頂上になる位置にお茶をかける。
そして、指の腹で強く擦ると……。
「……カケコトバ?」
「中学の国語の授業で習っただろ。今風に言うならば、ダブルミーニング」
浮かび上がったのは、『ヨル』の文字。
それを見た二ノ瀬は、《《2秒後に》》、持っていた服をその場に取り落とした。
「お前の助けになりたい。話をさせてくれないか」
「…………」
ひとしきり、白目の中で瞳を震わせた二ノ瀬は、一瞬目を瞑ると、俺を睨み。
「……とりあえず出てって」
……そりゃそうだ。
俺は顔が紅く染るのを隠すように顔を背けると、引き戸をばすんと強く閉めた。
#
「……言っておくけど、私、年下がタイプなの。ワンチャンあるかも、とか期待しないでね」
「自意識過剰だ」
二ノ瀬の着替えを待って、俺たちはある場所へ向かうため学校を出た。2人共自転車を押して歩く。
怪しい場所に連れ込む気じゃなかろうなと訝しむ二ノ瀬を説得するのは骨が折れ、学校から目的地への中間地点、跳ね橋へ差し掛かる頃には陽は暮れかけていた。
掛詞。
和歌等における修辞法のひとつ。ひとつの言葉に複数の意味を持たせる技法。
表沙汰にはなっていないが、この町では最近、掛詞を用いた呪いを体に刻まれるという事例が数例確認されている。
「……なるほどね」
「どんな呪いか、自分で分かるか? 二ノ瀬」
「……二ノ瀬だなんて水臭いわ。名前で呼んで」
「距離の詰め方が急だな」
「……同じ呪いを身に持つ仲でしょ。ほら、準って呼んで。私も衛って呼ぶ」
どうも変わった価値観をお持ちらしい。
準はうちの学年で5人しかいない特待生のひとりだ。本来なら全国で名前の通っているような進学校に入れたはずなのに、わざわざウチに来たと聞く。
彼女のプロフィールは噂でしか聞かない。というか噂が全てだ。彼女は誰とも関わりを持たず、友達もいない。誰かと会話していることなど見たことも無い。
「……話す度に2秒遅れるんだもの。できる限り会話なんてしたくないわ」
とのことだ。至極真っ当な理由。
彼女の呪い、『ノロイ』は、『鈍い』。
体感時間が2秒遅れるという、地味ながらとんでもなく生活に支障をきたす呪いである。ここまで歩く中で聞いた話によると、5月末頃から悩まされているとか。
「……元々人と話すこともなかったから怪しまれなかったのは不幸中の幸かしら」
「その割には、こうして話してても、あまり話し下手とか、そういう印象受けないけどな」
「……当然。私は社交的な方よ。ただ、私より5段階くらい馬鹿な連中と面倒な関係を持ちたくないというだけ」
「呼び方苗字に戻していい?」
「……いやだわ、衛くんは同レベルじゃない」
人をランク付けしているような奴と親しげにしたくない、という意味で言ったんだけど。準の言う通り、俺もその5人の特待生の中のひとりである。
そんな会話をしているうちに目的地に着いた。
神社。正確には、もともとあった神社の跡地である。社も鳥居も取り壊され、3年ほど前からずっと工事中の札がたっている。
その男は、いつも入口を守るように立派に聳える神木にもたれて座り、本を読んでいる。
「八田さん」
「よう」
ぶっきらぼうな返事。
八田は、霊媒師である。もっとも、本人に職業を聞いたらそう答えただけで、俺がここに立ち寄ると絶対に定位置に座って読書しているので、怪しいところではあるが。
赤黒いスーツを着て髪を七三分けにしているので清潔な印象を受けるが、滲み出る怪しい雰囲気は消せていない。二ノ瀬も、横目でチラチラ俺を見てくるあたり、同じ第一印象を抱いたらしい。
「……初めまして。二ノ瀬準です。準とお呼びください」
「また君は変な奴を連れてくるな、結城くん」
「変かどうかはともかく。八田さん、彼女も掛詞の被害者みたいなんです。前みたいにアドバイスをくれませんか」
前みたいに、とは、俺の掛詞事例のこと。俺も彼に助けられた1人だ。掛詞こそ消えていないが、恩人といっていいだろう。
八田は俺の言葉を聞き、おもむろに立ち上がると、準に向き直った。
「掛詞の多くは、後悔や悩みを拗らせたものだ」
「……後悔や、悩み。ですか」
「ようは本人の心の問題だ。私は助言や除霊は出来るが、心には干渉できん」
言い終わるなり、八田は、「失礼」と一声かけて、準を頭のてっぺんから足の先まで見回した。
俺の時もされたが……女子高生相手にやると、犯罪臭がとんでもないな。準も、肩を縮こまらせている。
「『ノロイ』ねぇ。症状は体感時間の2秒のズレと」
「……今ので分かったんですか?」
「霊媒師だからな」
関係あるのか?
「準くん。君のこれまでの人生で、『2秒』『遅れる』というキーワードにまつわる後悔や悩みがあるはずだ」
「……っ!」
彼女の目が一瞬、潤むように光ったのは、気のせいだろうか。
「それを断つ。それ以外に解呪の方法はない」
「……それだけ、ですか」
「それだけだ。さっきも言った通り、こちらからは助言以外できることは無い。君が己の心と向き合い、後悔を、悩みを克服するのだ」
背広を翻して、八田は神社の奥へ消えていく。
「それが思い当たらないならまた来るといい、カウンセリングくらいはしてやる。兎も角、今夜自分でゆっくり考えてみるんだな」
#
準の指先がプールの壁に触れた瞬間、タイマーを止める。
「26秒89」
「……あと0.39、ね」
この1週間、俺と準は毎日市民プールへ来ている。理由は当然、掛詞の解呪のため。
今年度、新入部員がおらず、六灯高校水泳部は廃部となった。それまでに目標タイムである26秒50に2秒届かなかったこと、それが自分の後悔。準はそう言っていた。
彼女は、跳ね橋を渡って神社を越えた先の串原南中学に通っていたらしい。中学の時は、県大会で入賞するほどのスイマーだったと自慢げに言われた。
水から上がると、キャップを外し、腰まで伸びる長い髪からぽたぽた雫を落としながら、プールサイドのベンチへ歩いていった。俺もついていって、ポカリを差し出す。
「……ありがと、衛」
「俺、水泳よく知らないんだけど。1週間で1.6秒も縮められるもんなのか? かなり凄いことじゃない?」
「……そうね。現役の時は何だかんだ、ダラダラやってたのかも。火事場の馬鹿力って迷信だと思ってたけど、馬鹿にならないわ」
50m自由形。高校生女子の日本記録は、24秒21。
それに2.3秒差まで迫る記録を、短期間の努力で実現しようとしている準の姿に、俺は素直に尊敬を覚えていた。
「……でもダメね。1.5秒縮めるのはすぐだったけど、ここ3日くらい伸び悩んでる」
「ダメって事はないだろ」
「……ねえ衛。今、まだ12時くらいよね」
「ん? あぁ」
プールサイドに置かれたスポーツタイマーは、12時10分を指していた。
「……休憩にしましょう。衛はどこかで昼食でも食べてきて。15時に再集合」
「いいけど。お前は?」
「……私は行くところがあるから」
そう言ってスタスタと歩いていく準。
こっちが勝手に助けたいって思って行動してるだけだから何も言えないが、けっこう勝手な奴だ。ここ数日で彼女の言動には慣れたから、どこへ行くのかとかは詮索もしない。
「……あと、あまりじろじろお尻見ないで」
「善処する」
#
「………………」
「……おまたせ」
15時。約束の時間になってプールサイドに現れた準は……あんなに長かった髪をバッサリ切って、肩の高さで切り揃えたショートボブに変身していた。
変身。これは変身という他ない。少なく見積もっても印象が45°くらいは変わった。
「可愛いじゃん」
「……あら。衛の事だから気付かないと思ったんだけど」
「俺の何を知ってんだ。その変化に気付かんのは無理があるだろ」
「……じゃあアップし直すから。終わったら声かけるから、またさっきの所に立っていてね」
……本当に勝手な奴。
結果的に、髪を切ったのが何かの形で作用したのだろうか、1発目の計測で、準は26秒43という好タイムを叩き出し、目標の達成に成功したのだった。
#
「……目標を達成して、後悔を断ち切った。はずなのに、まだ呪いは解けない」
プールで、準の目標を達成した帰り。
しかし、未だに鈍いは残ったまま。俺たちは自転車を押しながら、いつもよりテンポの悪い会話をぽつぽつしながら歩いていた。
行く先はもちろん神社。八田の所だ。
「治るまで時間差があるのかもな。まだ無駄だったって決まったわけじゃない」
「……だといいけど」
準の顔は晴れない。
目標を達成した時には、いつもの仏頂面が少しだけ明るくなったのに、今や仏頂面の方がまだマシだと思えるくらいのどん底の暗さだ。
症状が改善しないことへの失望が大きいのか。それとも、別の理由があるのか。詮索するのも躊躇われ、俺は適当な雑談を振ることしかできない。
「何か騒がしいな」
「……救急車?」
跳ね橋を挟んだ向こう岸に、2台の救急車。かなりの人だかりだ。それに隠れた奥に、黄色いテープが張られているのが見えた。
野次馬趣味は無いがどの道通り道。近くまで来て少し首を伸ばすと、担架で運ばれていく人の足が見えた。
制服のズボンの裾と、学生靴。うちのとは違うみたいだが、あれは……。
「事故かな」
「……まさか……」
「準?」
準は、その場で乱暴に自転車のスタンドを蹴って駐車すると、鍵も外さず、人垣へ走り出した。
間もなくして救急車が走り去る。
何か様子が変だ。俺も、準のと一緒に自転車を道の橋に寄せて停め、追いかける。
「おい、どうした」
「……あの! 今運ばれたのって、孝ノ路高校の学生ですか!?」
運ばれていったのと同じ制服の少年に声をかける準。そのあまりの必死さに戸惑いながらも、少年は丁寧に応じてくれた。
「はい。俺らとクラス一緒のヤツが、2人揃って轢かれたらしくて」
「……その、男の子……『一丸』じゃありませんか?」
「あ、そうです。知り合いですか?」
そうです、と少年が答えた2秒後、準は、ふらっと足を1歩後ろに引いて、上体をぐらりと揺らした。
倒れかけたところで、俺の腕が、彼女を抱きとめる。こちらへ寄せた彼女の顔は真っ青で、こんなに暑い夏の日に、その歯はカチカチと音を鳴らしていた。
「準!? しっかりしろ、おい!」
「あっ、あ、あぁ……」
「だ、大丈夫ですか!?」
「あーうん、大丈夫。話聞かせてくれてありがと」
見ず知らずの準を心配してくれる少年を雑にあしらって、俺は準の体を支えながら、目に入った近くのベンチへ彼女を座らせようと、そっちに歩き出した。
「離して!」
「あっ、おい!」
俺が肩に置いた手を振りほどいて、準は来た道を戻るように走り出してしまった。
体感時間が2秒遅れているとはいえ、ただ走るだけなら関係ない。たいして運動していない俺が追いつけるわけもなく、瞬く間に準の姿を見失ってしまう。
「……自転車どうすんだよ」
少し走っただけで汗をびっしょりかいてしまい、2人の自転車の前で数分途方に暮れていると、スマホにラインがきた。
『ごめんなさい』
『もう私のことは放っておいて』
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一応、俺一人だけでも八田の元へ向かう。いつも通り読書をしている八田に挨拶をすると、彼はすっくと立ち上がり、
「時間が無いからなるだけ手短に言う」
一方的に言った。
「結城くん。掛詞とは何か、《《国語の意味で》》言ってみろ」
「え? えと、一つの言葉で二つ以上の意味を表したもの、ですよね」
「そう。それを失念したのが君のミスだ」
それを失念した……?
今回、準に刻まれた文字は、ノロイ。つまり、『鈍い』。
……いや、違う。
掛詞には、2つ以上の意味が込められている。少なくともあとひとつ、ノロイという読みを持つ意味が含まれているはずなのだ。
「他のノロイって何なんですか」
「前も言ったろう。私は君達の問題に過干渉はできない」
「そんなこと言ってる場合じゃ……!」
「分からんなら分からんでいい。おそらく彼女も、自分の心の深い部分を、短い付き合いで君に悟られるような言動はしないだろうしな」
俺と八田の影が深く伸びて、落ちた若葉を闇に染める。空はもう紅い。
「ここに来ると連絡を寄越し、君だけ来たということは、彼女に何らかのトラブルがあったのだろう」
「はい。交通事故の現場に出くわして、轢かれた被害者が、準の知り合いだったみたいで。真っ青になって走っていきました。その後、もう放っておいてってラインが来て……」
「知人の事故にショックを受けて、それがなぜ、『もう放っておいて』に繋がる?」
言われてみれば、確かに。
事故と、彼女の掛詞には、何ら関係がないはずだ。それなのに俺との関係を絶とうとする、掛詞の解呪を諦めるということは。
裏を返せば、『事故』と『掛詞』に、何らかの繋がりがある、ということだろうか?
文庫本をジャケットのポケットにしまい、八田は背を向け歩き出す。
「串原南中学、屋上へ急げ」
「屋上!?」
「これは2秒の遅れも許されない。行け」
「っ、はい!」
自転車に飛び乗る。
紅を超え、紫色に移ろうとしている空を睨みながら、俺は懸命にペダルを漕いだ。
#
串原南中学の警備は夏休み中ということもあってか結構緩く、OBでもない高校生の俺でも、部活帰りの生徒に怪訝な目で見られる以外は問題なく屋上まで辿り着くことができた。
祈りを込め、屋上へ繋がる重い扉を蹴飛ばすように開く。
「準!」
屋上の真ん中に立っていた制服姿の準が、2秒遅れて振り返る。
月明かりに照らされた彼女の瞳は、淡く濡れていた。間もなく完全に日が落ちる。
「……放っておいてって言ったのに、必死ね。ワンチャンあるかも、とか思ってる?」
「ちょっと思ってる! じゃなくて、えと。早まるな!」
「……正直ね。正直で、まっすぐ。私もそうありたかった」
嫌な予感がして、俺は彼女に向かって走り出す。その1秒後、腕1本分くらいの距離でくるりと回って、彼女は屋上の柵へ走り出した。
さすがにそのアドバンテージがあれば逃がさない。今度こそ彼女の腕を掴むことに成功した。
「……離して!」
「今度こそ離さない。なぁ準、お前の掛詞のノロイっていうのは、『鈍い』ともうひとつ、『《《呪い》》』だったんじゃないか? 口偏に、兄の、呪いだ」
「…………くっ」
ぺた、その場に膝をつく。いつまた走り出すか分からないから、腕は離さない。
「孝ノ路の、一丸だったか? 彼が事故にあったと知って、何故かお前は俺との関係を絶って、ここで死のうとした。それは、一丸の事故に、お前が責任を感じたからだ」
「……やめて!」
「お前は、彼を《《呪って》》いた。何らかの理由で。違うか?」
「……違う! 呪ってなんか……!」
呪い。
人が人に悪意をもってかけるもの。人の不幸を願うまじない。直接手を汚さず人に被害を与える、陰湿で卑怯な代物。
そんなものを、自分が誰かに対して使っているなんて、誰だって認めたくはないだろう。
「けど、心当たりはある。そうだろ?」
「…………」
「話してくれ。俺も掛詞を持つ身だ、今度ちゃんと俺の事情も話す」
「……そうね。この期に及んで、衛に隠し事しても仕方ないか」
自嘲気味に笑って、準は胸に手を当て、呪いの真相を語り始めた。
「……私。4月1日23時59分58秒生まれなの」
「……は?」
俺にはその呪いはないのに、反応が、2秒遅れてしまう。
唐突すぎる告白。その意味を理解するまでに、また、2秒費やしてしまった。
「……2秒」
「……そう、2秒。あと2秒遅れていれば、私は、一丸と同じ学年になれた。あと2秒遅れていれば、今もまだ高校1年生だった」
早生まれ。
幼稚園や小学校などにおいての学年の決定は、3月31日と4月1日を境にすると思われがちだが、実際はその次。4月1日と4月2日を境にして決められる。
「……一丸とは幼なじみで、ずっと一緒だった。家が厳しいから、高校生になったら告白して付き合おうと思って、その時をずっと待ってた」
「そういうこと、か」
「……ええ、そういうこと。私が1年早く高校に上がっている間に、15年以上の付き合いを裏切って、アイツは何処の馬の骨かも分からない女と交際を始めた。それを知ったのが……」
「今年の5月暮れだな」
「……ええ」
体に溜まった悪いものを全部吐き出すように、露悪的に告白する準。その目から零れ落ちる大粒の涙を、俺は腕を離せなくて、拭えない。
「……分かってる。こんなの逆恨みだって。気持ち悪い、面倒臭い、自業自得な女のエゴだって。けど抑えられなかった。口にも行動にも出さないけど、内心で、どす黒い『呪い』を止められなかった」
ノロイ。
鈍いと、呪い。
準は掛詞の呪いをかけられていたが、同時に、幼なじみとその彼女に呪いをかけてもいたのだ。
体感時間が2秒遅れるノロイと、自分の嫉妬が現実に呪いとして作用するノロイ。
それこそ、彼女に刻まれた掛詞の正体。
「……一丸とはまだ友達の関係が続いていてね。最近、不幸な出来事が続いてるって。どんどん悪化してるって。このままだと私、あの2人を殺してしまう」
「だからってお前が死んだら!」
「……好きだった人を、あんな目にあわせるなんて。生きてて恥ずかしい。こんな私に親切にしてくれてありがとうね、衛」
ふと、掴んだ腕がすっぽ抜ける。
「あっ!」
話をしている間に彼女は、掴まれた方と反対の腕で、着ていたシャツのボタンを外していたのだ。
俺の手の中に彼女のシャツだけが残り、上半身下着姿の準が、柵へ向かって駆ける。必死で追うが、今度こそ追いつけない。
「……今度生まれ変わるなら、もっと、性格のいい人になりたいな」
駄目だ、追いつけない。
準は、機敏な動作で、俺の肩くらいある柵を乗り越えて――
「準ーーっ!!」
「…………」
――落とすかよ。
「……えっ?」
「間に、合った……!」
俺の右肩から生えた、《《全長8mほど》》の、《《いくつもの真っ赤な血管が表面に浮かんだ》》、《《指が6本の》》、《《筋骨隆々の化け物の腕》》が、柵を破壊して落ちゆく彼女の腹をガッシリ掴んだ。
俺の掛詞は、ヨルに、妖が右腕にヨルという呪いだ。
「……何よこれ!? 離して!」
「離さねぇ。準、お前、生きてて恥ずかしいって言ったよな」
「……今この状況で何言うの!」
妖の腕を普通のサイズまで戻し、準を引き上げる。普通の左手と、異形の右手で、彼女を抱えた。
「俺だって、こんな腕見せて恥ずかしいんだ。お互い死ぬほど恥ずかしい部分見せあったんだ、責任取らなきゃ気が済まないよな」
「……えっ」
「俺と付き合え、準」
その時、後ろのドアがけたたましい音を立てて開き、怒鳴り声が飛んできた。
「ここで何してる!」
「やべ、捕まってろよ!」
「……えっ、ちょっと!」
妖の手で思い切り地面を殴りつけ、バネの力で空中高く飛び上がる。
町全体を見下ろす高度。2秒遅れで悲鳴をあげた準が、さっきとは違う涙を空に落とす。
「……嫌ああぁぁ!!」
「馬鹿、暴れたら落ちて死ぬぞ!」
2秒後、準は諦めたように大人しくなった。
煌めく夜景。自分たちの住んでいる世界がまるでちっぽけだと嫌でも分かってしまう景色の中、準は、消え入りそうな声で、
「……その場のノリで言ったなら、後悔するわよ。もう取り消せないから」
「当たり前だ」
「よろしく。《《結城》》」
#
「『掛ける』の対義語は、何だと思う?」
「何って、そりゃ『割る』じゃないんですか」
「正解。正常な人間ってのは、『1』なのだよ。それに掛詞《変なもの》が掛けられて異常な数字になっているのなら、そいつを割る……裏を返せば、掛詞の逆数を掛けてやればいい」
「随分と数学的な考え方ですね」
「これは算数だぞ、結城君」
「揚げ足取らないでください」
「要するに。掛詞を解呪する時は、掛詞と反対、対になる言葉を掛けてやればいい。
今回の場合、『呪』の逆は、『祝』。彼女は後輩とその彼女に嫉妬して呪いを掛けていたわけだから、そのことを素直に祝福できる心を取り戻せたから、彼女の呪いは解けた」
八田は本を閉じ、立ち上がる。
夏の早朝の風はまっさらで涼しく、俺たちの髪をなびかせた。
「風邪をひくのは、決まって体の免疫力が弱っている時だ。それと同じで、心が弱っている時は、悪感情に飲まれやすい」
「結局は心の問題ということですか」
「なあに。もう問題はないだろう」
喉を鳴らしてくつくつと笑いながら、神社の奥へ歩いていく八田。
「君が彼女を幸せにしてやれれば、二度と掛詞なんかにはかかるまいよ」
……茶化しやがって。
#
「おはよう、《《二ノ瀬》》」
「おはよう、結城」
もう2秒遅れることはなくなった彼女と朝の挨拶を交わす。
昨晩、空の上というこれ以上なくロマンチックな場所で交際の了承を貰った後、飛行して二ノ瀬の家まで彼女を運び届け、何故かビンタを喰らい、晴れて我々は彼氏彼女の関係となった。
ビンタした直後に「明日会いたい」などと可愛いことを言う二ノ瀬には面食らったが、考えるより先に口が「OK」と言っていた。
お互い目の下にクマをつくり、駅前。服装だけは張り切った高校生男女が、挨拶したきり、一言も発さずぼうっと突っ立っていた。
「5分遅刻よ。埋め合わせはどうするの?」
「いいだろ5分くらい。お前に叩かれたほっぺたが痛すぎて寝れなかったんだよ」
「私だって、ドキドキしすぎて寝れなかったけど、遅れずに来たわよ?」
随分と得意げに、随分と可愛いことを言う。
やれやれと財布の中身を確認し、心もとないが大丈夫だろうと判断して、ランチを奢ることで埋め合わせとすることを提言する。
「やった。ふふ、これに懲りたら時間にルーズな癖は治すことね」
「はいはい。今日、ちゃんと良いのを買うことにするよ」
初めてのデートの行き先は、どちらから言うでもなく、すぐに決まった。
5分の遅れも、2秒の遅れも、もう二度と起こさないように。まだほとんどお互いを知らない、この不思議な縁の未来を、同じ鼓動で刻み続けるために。
その日の夕方。デートの帰り。
繋がれた俺の左手と二ノ瀬の右手の先には、お揃いの、少し背伸びした腕時計が巻かれていた。