ずーっと以前に書いた創作怪談シリーズとショートショートシリーズ
雨は暗闇に降る
おれと敦子は、もう一時間も言い争いを続けていた。
その朝、久しぶりに二人そろっての休日だというのに、おれ達には特にプランがなかった。そこで、敦子がドライブに行こうと言い出したのだ。
おれは、気が進まなかったが、しぶしぶ了解した。たまにしか無い休日に、どうしてまた疲れる思いをしてまで出かけなければならないのか。
敦子は言った。
「リフレッシュするのよ、二人とも。私たち最近、会話もろくにしてないじゃない。」
それは、お互いの仕事が不規則で、なかなか顔を会わせないせいだ。おれは、いつも敦子に仕事を辞めて、家にいて欲しいと思っていた。
だが、とにかくおれ達はアパートをでて、車に乗り込んだ。友人から譲ってもらった中古車で所々に傷やへこみのあるポンコツだったが、出だしは順調だった。
おれ達は山へ向けて車を走らせた。秋も深まり、紅葉がきれいな季節だった。高原の湖を目指して車を走らせたのだ。 しかし、昼過ぎに雨が降り出した。おれ達二人は、傘を持ってきていなかった。 「どうして、忘れてくるのよ。」 そう敦子が言った一言が、すべての始まりだった。
だんだんと険悪なムードが漂い始めた。そして、おれ達は道に迷ったのだ。持ってきた地図が古すぎて、役に立たなかったのだ。そして、おれは地図を読むのが苦手で、敦子も同じくらい駄目だった。
山の中で、帰る道を探して行ったり来たりを繰り返した。何度か駐在所やコンビニを通り過ぎた気がするが、ふたりとも道を聞いてみようとはしなかった。その時は、それほど事態を悪く思っていなかったからだ。
日が傾き、あっという間に夕焼けが終わり、あたりは真っ暗になった。もはや見えるのは車のライトに照らされた道路だけになった。しとしとと降り続く秋雨が視界をさらにせばめていた。
「いったい、何処にいるのよ、私たちは。」
「だから、ここにいただろ。そこからこっちに向かって走ったから・・・。」
「もう。あなたにまかせておいても仕方ないわ。貸しなさいよ、地図。」
けれども、一向にらちがあかずに時間とガソリンと体力ばかりを消耗していった。
そしてついに、ガソリンの残量警告灯が点滅し始めた。
だが、おれ達はエンジンを止めることが出来ずにいた。辺りは霧雨の降る暗闇で、恐怖の支配する闇だったのだ。一度、真っ暗な山の中で、ライトもエンジンも止めてみたが、とても耐えられるものではなかった。おれ達はさまよい続けるしかなかったのだ。言い争いを続けながら。
その明かりを見つけたとき、おれ達は心底ほっとしたものだった。近づくにつれ、それがラブホテルのサインだと気が付いても、その気持ちは変わらなかった。兎にも角にも人間のいる場所である。道を尋ねれば答えてくれる人間もいるだろう。愛想の悪いおばさんでも救いの神だ。
おれ達は、薄汚れた明かりをくぐり、車をホテル入り口へ乗り入れた。
泊まるつもりは、全くなかった。だいたいおれには、明日も仕事があるのだし、こんな田舎のラブホテルに、まともなベッドがあった試しがない。安っぽくて、陰気くさいだけの部屋しかない。はやく、自分の家に帰って眠りにつきたかった。
だが、道を聞くだけだとしても、車を停めて、フロントかなにかを探さなければいけない。だから、そうしたのだ。おれ達は駐車場に車を停めて、ドアを開けたのだ。そこは、外から見えないようにはなっていたが、ただそれだけで、それ以上の何もない場所だった。他の車さえも見あたらない。しとしとと雨が降り、ぼんやりとホテルのサインが揺れていた。
白かったと思われる壁は、長年の風と雨ですすけて灰色に見えた。それは荒野の古城のように、暗闇の雨の中にそびえ立っているように見えた。まるで、異世界への扉のようなホテルの入り口は、そこだけぼうっと照明がついていて、おれ達のような、あわれな二人を飲み込もうとしているように見えた。
雨は激しくなった。車のボンネットにはねかえって大きな音を立てていた。おれ達はしばらくの間、お互いに口をきいていなかった。不気味にそびえ立つコンクリートの化け物を見上げて、ぼうっとしていたのだ。
だが、いつまでもそうしていても仕方がなかった。気持ちを定めて車のドアを開いた。ざあっと、雨が腕に降り注いだ。おれ達は、雨に濡れたくなかったので、ホテルの入り口まで走った。
「痛い。」 敦子が、おれの後ろで声を上げた。
「どうした?」
敦子は、軒先に上がったおれの方へ、足を引きずりながらやってきた。
「ちょっと、つまづいただけよ。ひねったかもしれないけど。」
「大丈夫か?」
「ふん。心配してくれるの?」
敦子は馬鹿にしたようにおれを見た。その顔は、ホテルの中から漏れる薄明かりに照らされて青白かった。 おれは、言いかけた言葉を飲み込み、ホテルのドアを開けた。ガラスの扉で、中の様子が見えないように黒いシールが貼ってあった。
ホテルの中は静まり返っていた。ぼうっとフロントの辺りだけが明るく、他は暗くてよく見えなかった。そうっと踏み出した足の下で湿った絨毯が「じゅっ」っと音を立てた。
「ねえ、このホテル気味が悪くない?」
敦子は、中を見回しながら、おれに言った。いわれなくても、気味は悪かった。
「じゃあ、車で待ってろよ。」
「悪いけど、そうさせてもらうわ。」
敦子は躊躇わずに、そう言うと踵を返した。
おれは、小走りで車に戻っていく敦子を見送り、フロントへ歩いた。ホテルの入り口は開けたままにした。雨音が激しく響いた。
床の絨毯は、歩くたびに湿った音を立てた。
何処かで水の滴る、「ぴちゃん、ぴちゃん。」という音がしていた。
「すみません。」
おれは、フロントの奥へ声をかけた。
「すみません。」
声は、暗闇に吸い込まれて、帰ってこなかった。
「すみません。誰かいませんか。」
おれは、大きな声を出していた。だが、その声は響きもせずに、暗闇の中に消えた。
ふっと、自分の後ろに気配を感じた。
振り返った、おれは暗い壁を見ただけだった。
「すみません。道を尋ねたいんです。」
おれは、声を張り上げた。その時だった。辺り一帯で声が跳ね返って、すすり笑うような声が聞こえたのは。 それは、おれの背筋を凍らせるのに充分だった。
あたりには、何かがいた。それも、そこらじゅうに。目に見えない何かがおれの方をじっと見つめていた。おれは、暗い壁の一点を見つめたまま動けなかった。何かに動くことを咎められているような気がした。
だが、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。ここには人はいない。それだけは事実だと思えた。ゆっくりと足を引き、入り口の方へ進んだ。この建物の中で、入り口の方角だけが安全のような気がして、入り口を背にゆっくりと後ずさりをした。背を向ければ一気に連れ去られるような気がしたのだ。
ゆっくりと後ずさりをした。ゆっくりと、すこしずつ、開けて置いた扉の方へ後ずさった。そして、ふと、さっきまでしていた雨音が聞こえないことに気が付いた。おれは恐怖のあまり、入り口を振り返った。そこは、閉まっていた。そして入り口の取っ手には何重にも鎖で開かないようにしてあった。おれは、たまらず入り口へ走った。鎖をつかみ、力任せにほどこうとした。鎖は何年も触れられた形跡が無く、錆び付いていた。
「そんなはずはない!」
さっき、おれは間違いなく、このドアからホテルに入ったのだ。もはや、正常な思考が出来る状態では無かったが、とにかくこのドアを縛り付けている鎖をほどかなくてはならないことは明白だった。
背中には、得体の知れない魔物の気配を感じていた。
おれは、鎖をほどきながら、大声を出していた。
「敦子!」
大声で敦子を呼んでいた。が、外からは見えない入り口の遮光シールを通して、敦子は車の中で前を向いたまま動かなかった。ゆっくりとタバコを吸っている。
「あ・つ・こ!」
おれはドアを激しく叩きながら敦子を呼んだ。
その時、首筋に冷たい感触を感じた。冷たくて、何か柔らかい感触だった。誰かが冷たい手で触れたのだ、と気が付くまでに少し時間が必要だった。
おれはたまらず振り返った。そこには黒い影が立っていた。真っ黒な大きな影が、真っ赤に口だけを開けて、にたあっ、と笑っていた。
おれはのどの奥で悲鳴を上げたが、声が出なかった。ドアに飛び退きざまに体当たりした。ぎしっとドアが鳴った。もう、おれは無我夢中だった。ドアをたたき壊そうとしていた。頑丈なガラスはびくともせずに、おれの前に立ちはだかった。
そのガラスには、無数の黒い手の跡が見えた。まるで何人もの人間がそのドアを叩き割ろうと素手で叩いたように。
黒い影は、徐々に大きくなっていくようだった。そして、だんだんと形を作っていく。それは人間の形ではなく、昔に見た絵本の中の悪魔にそっくりだった。頭の何処かで、悪魔ってやっぱりこういう姿をしているんだ、と考えていた。
そして、それはどんどんと膨らみ、ロビーを埋め尽くさんばかりに大きくなっていった。おれの手にも血がにじんでいた。叩きつける拳の跡が、黒い遮光シールにくっきりとどす黒い跡をつけていった。おれはもう、影を振り返ることもしなくなった。やつは、もう、おれを飲み込もうとしているのが、振り返らなくても分かったからだ。
そして、何もかもがどうでもよくなった。
それは、突然だった。突然に、自分の意志とは関係なくどうでもよくなったのだ。
ガラスの外が別世界になっていくのを感じた。おれは、影の一部へと変化していくのを感じた。恐怖は感じていたが、それは遠い世界のような気がした。おれは、だんだんと影の一部になっていった。
それから、ドアの鎖はほどけた。音もたてずに床に落ちた。
ドアの向こうでは、しびれを切らした敦子が車のドアを開けるところだった。小走りに雨の中を走ってくる。痛めた足首をかばいながら。それから、ドアに手をかける。
「あなた・・・?」
そうだ。そのままロビーの中に進むんだ。おれ達には、まだまだたくさんの仲間が必要なんだ・・・・。