第五話 せっかく超絶美少女になったので、ファーストキスをくれてやろう
『壁ドン』というのは本来、ニートが壁をドンッとやることで、親にご飯を持ってきてもらうことを指す言葉だったはずだ。
さすがの俺でも、そこまでやったことはない。
超越者向けだ。素人にはおすすめできない。
その後、うるさい隣人とかを牽制するために壁を殴る行為を指す言葉に変わった。
そこら辺までは、ネット民特有のブラックユーモアを含んだ用語だった。
それがどうだ。
昨今の壁ドンは、ネットとか見ない一般人御用達の言葉に変わってしまった。
一種の胸キュンワードとして、すっかり定着してしまった。
どうしてくれる。
俺たちの壁ドンを返せ!
なんて思っていたが、よく考えたらそれどころじゃなかった。
俺は今、小次郎によって壁際まで追い詰められている。
なんだこの状況は。
これでは、俺が、俺たちが、必死に抵抗を続けてきたはずの、多数の一般人による『壁ドン』の不法占拠に屈することになる。
そうなったら、時に励ましあい、時に罵りあってきた全国のお前らを裏切ることになってしまう。
小次郎、お前にそこまで許した覚えはないぞ。
調子に乗りおって。
とか考えていると、小次郎の顔が近づいてくる。
ふざけるな。
急過ぎるだろ。
強く目をつぶって身構えていると、声がかかる。
「嫌か?」
「……嫌とかじゃないけど、ちょっと待って」
やつの壁ドン態勢に若干のほころびが生まれた。
俺は、この一瞬のスキを見逃さなかった。
迅速に腕をすり抜け、壁ドン状態を脱した。
九死に一生を得た。
追手がかかる前に、洗面所に向かう。
そして、歯を磨いた。
いつもより念入りにだ。
およそ一時間ほど歯磨きをし、ガラガラペッみたいな苦い液体のやつも百回ほどやっておいた。
なんだか口の中がピリピリした。
くっ、小次郎のピリピリが空気感染しているのだとしたら、どうしてくれる。
ミイラ取りがミイラになってしまったことになる。
全国のダラダラーに申し訳が立たない。
次に髪をとかし始めた。
俺の髪は超サラサラで光沢のある超絶美少女に相応しい美髪だ。
だが、さすがに寝起きともなると、一糸乱れぬほどとは言えない。
そこで俺は家を出た。
だが、近所にある唯一の美容院に向かったわけではない。
あの美容院のおばちゃんは、明るくて良い人ではあるが、この片田舎に来て数十年になるそうだ。
ライバルのいない環境で、全盛期の能力を保ち続けているとは限らない。
この太平の世が、おばちゃんの刃物を振るう腕を鈍らせた可能性は高いだろう。
だから俺は、バス停に行った。
時刻表とかを調べてなかったので、二時間ほど待った。
その間ふと『ああ、この時間は何パンツ分だろう』なんて思ってしまった。
良くないな。
俺は小次郎との結婚を期に、その稼業から足を洗ったんだ。
だが、今でも下着の通販サイトとかを見ていると、つい考えてしまう。
『え! これで一枚あたり二百円!? 四千円いけるよこれ!』などと。
染み付いた習慣は、そう簡単には消えないものだ。
そう考えると、あの美容院のおばちゃんでも良いような気もしてきたが、バスが来てしまった。
ここまで待ったのが無駄になると悔しいので、乗り込む。
そこからが長かった。
まず駅でまた二時間待った。
しかも、ここには急行とかそういう概念はない。
むしろ、最後まで行ってくれたらラッキーくらいの心構えが必要だ。
何時間もかけて、ようやく多少都会までついた。
この駅には、何軒か美容院があるだろう。
だが、こんなところで妥協するわけにはいかない。
戦場に例えるなら、ここは小競り合い程度の場所だ。
おばちゃんにとっては、こんなところ戦場とも呼べないだろう。
何しろあのおばちゃんは、超都会から来ている。
さらに電車を乗り継いで、またバスとかも使って、空港まで来た。
席はあるのかって?
侮るな!
ここに来るまでの異常に長い時間を使って、ネット予約しておいた。
え、チケットは大丈夫かって?
俺を甘くみてもらっては困る!
俺はあれから大きく成長している。
なぜなら今は、ただの超絶美少女ではなく、超絶美少女嫁だ。
チケットレスシステムについては、ほんの二時間ほどで理解出来た。
こうして俺は、おばちゃんが昔いた戦場……もとい超都会までやってきたわけだ。
だが、向かうのは美容院ではない。
ヘアサロンだ!
いいか、もう一回言うぞ。
ヘアサロンだ!
超都会ではな、美容院をヘアサロンと言うんだ。
どうだ、驚いたか? ふふ。
ヘアサロンのなんかチャライ感じのネエチャンに色々聞かれたが『と、とりあえずなんかカワイイ感じで』と答えておいた。
勘違いするなよ。
よく分からなかったから、そう答えたわけじゃない。
こういうのはプロに任せるのが一番なんだ。
ネエチャンは髪を切っている間、よく分からんことをずっと話していた。
人と話す時に専門用語を使うな。
だが『あれ、もしかしてノーメイクですか?』という言葉だけはギリギリ理解出来た。
俺は化粧というものをしたことがない。
なぜなら俺は、そんなことしなくても、超絶美少女だからだ。
これ以上美しくなってどうする。
あと単純にめんどくさい。
だが、せっかく超都会まで来たのだ。
一回くらいメイクとやらを体験してみるのも悪くはあるまい。
だから、チャラネエチャンに頼んで、メイクアップの店を予約してもらった。
俺はそこで、超超絶美少女になった。
顔はもう凄い。
圧倒的に凄い。
しかも、顔だけじゃない。
爪とかまでピカピカのつるつるだ。
もはや、美少女というカテゴリに収まるのかすら分からない。
というか、人かどうかも怪しくなってきた。
神かもしれない。
いや、女神かもしれない。
そういう次元に、俺は到達してしまったのだ。
しかし、いくら神々(こうごう)しい美しさを持つ超超絶美少女とはいえ、時空の壁は超えられない。
あと、電車とかも普通に待たなければならない。
そういうわけで、俺はやむを得ず、大変な長時間をかけて、家に帰ってきた。
玄関のドアを開けると、小次郎が駆け寄って来る。
久しぶりに実家へ帰った時の犬みたいなやつだ。
俺がいなくて、よっぽど寂しかったのだろう。
「待たせたな」
「……お前。……強引に迫って悪かった」
「小次郎、なぜ謝る」
まず褒めろ。
この究極をさらに超えた美を称える以外の、一切は不要なはずだ。
「いや、家出したから、離婚されるのかと……」
「なにを寝ぼけたことを言っている。お前には、俺を養う責任があるはずだっ!」
ビシッと人差し指を突き出す。
決まった。
俺は今、超超超美しいだけじゃなく、かっこよさも兼ね備えていることだろう。
「……ああ。そうだな」
全く、仕方がないやつだ。
俺がリードしてやる他あるまい。
「さあ、遠慮せずに来るが良い。小次郎」
俺はそう言って両手を広げる。
小次郎が無言で近づいて来たので、目をつぶっておいてやった。
目を開けたままだと、神々(こうごう)しさのあまり緊張させてしまうだろうからな。
こうして俺のファーストキスは、無事終わったわけだ。
具体的な感想については、ちょっと恥ずかしいから省く。
だがまあ、石油王じゃなくて、こいつで良かったなと思ったことは確かだ。
ヒゲモジャだったら、もっとくすぐったかっただろう。




